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染吉の朱盆(そめきちのしゅぼん)
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四
半九郎が帰ると岡引の岡八、フラリと皆川町の家を出た。 「いや、いい話を耳にした、お縫様屋敷もさることながら、こっちの事件に役立ちそうだ。棚からぼた餅といわれているが、何んの当世棚を覗いたってぼた餅なんかァありそうもねえが、今日はそいつにありついたってものさ、そうはいっても俺の考え、間違っていりゃァ別だがな」 押し詰った十二月の中旬真昼。歩いている人間が足ばかりに見える。そんなにも急がしく歩いている。そうかと思うと眼ばかりに見える。そんなにもキョロキョロあわただしい。天気はよいが風は強い家々の暖簾が刎ねている。 賑かな町通りへやって来た。 「よしこの辺から探してやろう」 「ごめんよ」といって這入ったのは、店附の立派な古物商。 「へい、いらっしゃい」と小僧の挨拶、そんなものへは返辞もせず、ズンズン奥へ通って行った。 主人であろう、皮肉そうな爺が、獅噛火鉢にしがみついている。 「へい、いらっしゃい」と上眼をした。冷かし客か買う客か、上眼一つで見究わめるらしい。 「染吉の朱盆ありますかえ?」 「へ、染吉?」ときき返したが「お生憎さまで、ございませんねえ」 「ぜひほしいんだが目っけてくれまいか」 岡八店先へ腰をかけ、平気で火鉢へ手をかざした。 「ありゃァ滅多に手に入りませんよ」 「いうまでもなく承知だがね、だから一層ほしいのさ」 「あったにしてからが大変な値段で」 「値切りゃァしないよ。大丈夫だ」 「へい、そりゃァまあ、旦那のことですから」 こういいながらも笑っている。相手にしないという恰好である。当然かも知れない。この時岡八、普段着の姿でやって来た。唐桟の半纏というやつである。そうして口調は伝法だ。だが、もし主人の眼が利いて、その懐中に取縄があり、朱総の十手があると知ったら、丁寧な物いいをしただろう。まして岡八と感づいたら[#「感づいたら」は底本では「感ずいたら」]、茶ぐらい出したに相違ない。 年が三十五で小作りで、むしろ痩ぎすの岡八は、決して堂々たる仁態ではなかった。 「一体どのくらいするものだな?」岡八チョイと気をひいてみた。 「値段があって、ないようなもので」 「まさか百両とはしねえだろう?」大きな所を吹いてみた。 「そうばっかりもいわれませんよ」主人例によって冷淡である。「お噂によると雲州様では、百五十金でもとめられたそうで」 「ふうん」といったが少し参った。「成る程それではこの爺、俺を相手にしねえ筈だ」 「だが、それにしても値が出たなあ、たかだかお前染吉といえば、十年前の職人じゃァないか」 「初から数が少ないんで」 「江戸中に一体幾つあるんだろう?」 「日本中に三十とはありますまい」 「ふうん」と又も参ってしまった。「そんなに数がねえのかなあ」 「ひどく若死にをしましたのでね」 「その死に方も変だったそうだな」 「よくご存知で、衰死したそうで」 「縁起でもなく死んだものだな」 「だから一層値が出ました」 「それは一体どういう訳だ?」 「すべて数寄者という者は、箔のついたものを好みますからな」教える[#「教える」は底本では「数える」]ような態度である。 「箔にもよりけり、縁起でもねえ箔だ」 「当今死に絵さえ、はやっております」 「うん、成程」と、又参った。 「こいつァ初手から駄目らしいぞ」岡八しょげざるを得なかった。「ぼた餅は棚にはなかったよ」 あきらめて立とうとした時である。一人の女が這入って来た。 小紋縮緬の豪勢なみなり、おこそ頭巾を冠っているので、顔はハッキリ解らなかったが、たしかに大変な美人らしい。眼が非常に美しい。……非常どころか、とても美しい。……というより寧ろ凄いようだ。魅力! 全くそのもののようだ。 「いらっしゃい」と主人、現金な奴だ、揉み手までしてお辞儀をした。「毎々ごひいきにあずかりまして」だが、こいつはお世辞らしい。 「染吉の朱盆、ございましょうか?」 そうその女がいったものである。 岡八、当然びっくりした。 「はてな、こいつ面白くなったぞ」 で、わざと立ち上がり、店の品物をひやかすようにして、女の様子をうかがった。
五
古物商の主人と女客との会話は、ざっと次ぎのように運んで行った。 「ああ染吉でございますか、へい、ないこともございませんが」 「只今お店にございましょうか?」 「いえ店にはございませんが……心あたりにはございます。……もし何んなら取り寄せて」 「ぜひお願いいたします。幾枚ぐらい手に入りましょう?」 「さようでございますな、三枚ぐらいでしたら……」 「費用はいくらでも構いません、沢山ほしいのでございますよ」 「へい、しかし、三枚以上は……」 「では三枚お願いしましょう。……で、値段は? 一枚の?」 「二十五金ほどでございましょうか」 「では手附を、半分だけ」 「四十金? で……。これはどうも……へい、へい確にお預かりしました。……ええと所で、お住居は?」 「私、いただきに参ります」 「はい、左様で……。これは受取」 「いつ頃参ったら、ようございましょう?」 「さようでございますな……二三日ご猶予……」 「それではよろしく」 「かしこまりました」 で、女は店を出た。 怒ってしまったのは岡八である。 「馬鹿にしゃァがる! 一体何んだ!」心で毒吐いたものである。「みなりが悪いとこんな目に会う。百五十両だと吹っかけて置いて、二十五両だっていやあがる。ないといいながら三枚がところ、心あたりがあるというちきしょう[#「ちきしょう」に傍点」本当に張り倒してやるかな。……そうはいっても俺の手には、二十五両でも這入り[#「這入り」は底本では「遍入り」]そうもないなあ。……それにしても一体あの女、何んで染吉の朱盆ばかり、そんなにも沢山ほしがるんだろう?」 フラリと岡八往来へ出た。すぐ眼の前を女が行く。尾行るという気もなかったが、矢っ張り後をつけて行った。出たところが神保町、店附の立派な古物商があった。 女が這入って行くではないか。 「おや」と思いながら岡引の岡八、つづいて店へ這入って行った。 主人と女客との応待は、全く以前と同じであった。 「染吉の朱盆、ございましょうか」 今はないが取り寄せようという。 そこで女が手附を払い、受取をとって立ち去ったのである。 「これはおかしい」と岡引の岡八、本式に女をつける気になった。「まるでこのおれの邪魔をしているようだ。先へ廻って染吉の朱盆を、かっ浚おうとでもしているようだ。曰くがなければならないぞ」 神保町から一つ橋、神田橋から鎌倉河岸、それから斜めに本石町へ出、日本橋通を銀座の方へ、女はズンズン歩いて行く。だから、もちろん、岡八も歩いて行かなければならなかった。 無暗と女は歩くのではなかった。目星しい古物商があると、軒別に這入って訊くのであった。 「染吉の朱盆、ありましょうか?」 あるといえば手金を打ち、買取る約束をするのであった。 実際のところ染吉の朱盆は、極めて数が少ないと見え、昼からかけて夕方までに、そうやって女が約束した数は近々五枚に過ぎなかった。尾張町まで来た時である、ふと女は足を止めた。 「またあったかな、古道具屋が?」 岡八、見廻したが古道具屋はない、江戸で名高い錦絵の問屋、植甚というのがあるばかりであった。 店先に錦絵が並べてある。沢山の武者絵や風景画や、役者の似顔絵や、美人画など……それを女は見ているのであった。 「朱盆が錦絵に変ったかな?」 変に思った岡引の岡八、成るだけ女に気取られないように、自分も店先を覗いてみた。 素晴らしい一枚の死絵がある。 どうしたものか、それを見ると「うむ!」と岡八唸るようにいった。で女の横顔を見た。何んて微妙な微笑なんだろう? 皮肉で残忍で嘲笑的で、そうして、しかも満足したような、そういったような薄笑いが、女の顔にあるではないか? 眼は死絵を見詰ている。 「やっと前途が明るくなった。俺の見込みは狂わなかった」 岡八呟いたものである。「よし、こうなりゃァこの女の住居。どんなことをしても突き止めなけりゃァならねえ」 その時女が歩き出した。 足早に歩いて行くところを見ると、いよいよ家へ帰るらしい。 上野山下まで来た時には、すでに宵を過ごしていた。足に自信があると見え、女は駕籠へ乗ろうとさえしない。
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