切り
仆したのは一人の武士、黒の紋付、着流し姿、黒頭巾で顔を包んでいる。お誂え通りの辻切仕立、
懐中手をして反身になり、人なんかァ殺しゃァしませんよ……といったように悠然と下駄の歯音を、カラーンカラン! 立てて向うへ歩いて行く。
切り仆されたのは手代風の男、まだヒクヒクうごめいている。手に包を握っている。
側に屋敷が立っている。立派な屋敷で一軒きりだ。黒板塀、忍び返し、奥に植込が茂っている。周囲は空地、町の灯に遠い。
その塀に添って、カランカラーン、武士はおちついて歩いて行く。
塀について左へ曲がった。
矢張り悠然、矢張り歯音、カラーンカラン! カラーンカラン!
また塀について曲がった途端、
「御用!」
捕手だ!
上がったは十手!
武士、ちっとも驚かなかった。
佇むとポンと胸を打った。
「へ――」
と捕方平伏した。
「半刻あまりそこにいろ」
いいすてて、またもカラーンカラン! 綺麗に歯音を霜夜に立て、そうして肩に満月を載せ、町の方へ行ってしまったのである。
切り仆された手代風の男、まだヒクヒクうごめいている。
と、右手から人の足音、雪駄穿きだな、バタバタと聞える。現れたのは職人風の男、死にぞこないにつまずいた。
「おっ!」というと
つくばった。
「しめた!」というと飛び上がった。途端に右手が宙へ躍った。
と、どうしたんだ、あわてたように「しまった!」と叫ぶと引っ返してしまった。どこへ行ったか解らない。
「あッ、取られた、大事な朱盆!」
切られた手代風の男の声! そうしてそれなり、死んでしまった。
数日経った或日のこと、
「ご免下さい」と訪う声。
人殺しのあった側の屋敷、その玄関から聞えて来た。扮装だけはシャンとしているが、顔に無数の痘痕のある可成り醜い男が立っている。
「はい」と現れたのは小間使い「何かご用でございますか?」
「突然で不躾ではございますが、もしやお屋敷の庭の隅に、朱盆が落ちてはおりませんでした?」
「しばらくお待ちを」と這入って行った。
引き違いに現れたのは一人の令嬢、「
たけた」という形容詞が、そっくり当て篏まるような美人であった。
「おたずねの品物、これでございましょう」
差し出したのは一面の朱盆。
「へい、さようで」
と醜い男じっと朱盆を眺めやった。
何んて微妙な深紅の色だ! 金短冊が蒔絵してある。そうして文字が書かれてある。
「こひすてふ」という五文字である。百人一首のその一つの、即ち上の五文字である。
男、ヒョイと令嬢を見た。と、チラチラと眼の中へ、狂わしい情熱の火が燃えた。
「ご免下さい」と行ってしまった。
ところがそれから数日経ち、同じようなことが行われた。
同じ場所で、手代風の男が、スポリと一刀に切られたのである。切り仆したのは同じ武士、矢張り悠然と立ち去ってしまった。かけつけて来たのは職人風の男、
「しめた!」というと躍り上がった。途端に右手が宙へ上った。そうしてそのまま逃げ去ってしまった。
切られた男の断末魔の声「あッ取られた、大事な朱盆……」
それも全く同じであった。
違った所も少しはある。
当然その夜は満月ではなかった。小雪がチラチラ降っていた。で、道がぬかるんでいた。
そこでもちろんカラーンカランと、下駄の歯音は響かなかった。
もっと重大な相違点がある。
(一)捕手がその夜は現れなかったこと。
(二)「しまった!」と職人が叫ばなかったこと。
だが、それから数日経ち、例の屋敷の玄関へ、例の醜男が現れて、朱盆の有無をたしかめたのは、以前と全く同じであり、その応待も同じであった。
次ぎの一ヶ条だけは違っているが――。
(一)金短冊に書かれてあった文字が「我名はまだき」とあったことである。