25
娘の品子の声がした。
「東三、東三、悪党だねえ!」
「何を仰有います、お嬢様! ……おいお繁さん、奥へお連れ申せ! ……裏庭なんかを歩かせてはいけない」
「お部屋から抜けて来られたのだよ。……ね、お嬢様、内へ入りましょう」
お繁とそうして東三とが、品子をなだめる声がしたが、やがて立ち去る足音がして、しばらくの間はひっそりとしたものの、またもや足音が聞こえてきた。
「お嬢さんには驚いたなあ。……どうしてお感づきなすったのだろう。……どうもな。……困った。……うっかり出来ない。……だが。……遅いなあ。……やりそこなったかな。……」
裏木戸へ触る音がした。どうやら蔵番の東三らしい。
しかし足音は遠ざかり、そうして全く静かになった。
聞き澄ましていた宇和島鉄之進が、首を傾げたのは当然と云えよう。
「どうやら秘密があるようだ。いやこういう大家になると、いろいろの秘密があるものと見える。……だが、それはとにかくとして、いまだに主人は帰宅しないらしい。……これだけ確かめれば用はない。どれソロソロ帰ろうか」
往来の方へ出ようした時[#「出ようした時」はママ]、にわかに四辺が騒がしくなった。
大勢の走って来る足音がする。
「逃がすな逃がすな」
「討って取れ」
「さあ追い詰めたぞ」
「しめた! しめた!」
叫ぶ声々が聞こえてきた。
「はてな」と鉄之進は足を止めた。
「とうとうぶちこわしの手が来たか」
その時一ツの人影が、往来の方から駈け込んで来て、二人あぶなくぶつかろうとした。
「これ、気をつけろ」
「真平御免」
互いに相手を透かしたが、
「おっ、今朝方の小者ではないか」
「あ、あの時のお武家様で」
「どうしたどうしたあわただしい」
「追っかけられて居りますので」
「誰にな?」と鉄之進は不思議そうにした。
「例の柏屋の明けずの間の。……」
「うむ邪教徒の一味にか」
「はい左様でございます」
「よし」と云ったが鉄之進は、刀の下緒を引抜いた。
「今朝方約束したはずだ、場合によっては助けようと」
「それではお助け下さるので」
「拙者にも縁のある奴原だ。と云うより拙者の先生に、深い縁故のある奴だ、退治れば先生のお為にもなる。――其方は逃げろ! 一人で十分!」
キリキリと下緒で綾を取る。
「それでは」と云って駈け抜けようとした時、裏へ廻った狂信者の群が、ムラムラとこっちへ寄せて来た。
「いけねえ」と喚いて岡引の松吉が、往来の方へ走ろうとした時、青白い龕の光が射し、お久美を先頭に狂信者の群が、ながれるように入り込んで来た。
「こっちもいけねえ」と喚いたが、
「ここは加賀屋か、急場のしのぎだ」
壁へ手を掛けると身を躍らせ、飜然と裏庭へ飛び込んだ。
「誰だ!」と鋭い声がしたが、蔵番の東三の声らしかった。
「シッ、野暮な、大声を立てるな! ……よッ手前は大学一味の」
「何を! 手前は?」
「丁寧松だア」
格闘をする音がしたが、つづいて松吉の声がした。
「蔵の戸が開いてる! や、死骸! しかも二人だ! こりゃア大変! ……息がある息がある虫の息だ!」
壁の外側では宇和島鉄之進が、抜いた大刀で待ち構えたが、すぐに狂信者に包まれた。
「おお汝は宇和島鉄之進!」
こう喚いたは市郎右衛門であった。
「うむ、柏屋の番頭か、その実お久美の一味だな。……いかにも宇和島鉄之進だ。……ただし本名は宇津木矩之丞! すなわち大塩中斎先生の門下! これ!」と云うとヌッと出た。
「中斎先生に退治られた、京都の妖巫貢の姥、その高足のお久美という女、網の目を逃がれて行方が不明い。その後も中斎先生には、心にかけられ居られたが、江戸にいようとは思わなかったぞ。見現わしたからにはようしゃはしない。先生に代わってこの矩之丞、破邪の剣を加えてやる。……一度にかかれ! 屯ろしてかかれ! 先ず汝から! 来い市郎右衛門!」
技倆は十分、覇気は満腹、しかも怒りを加えている。
飛び込みざまに横へ薙ぎ、市郎右衛門の胴を割り付けた。
飛び返ると背後に土塀がある。それへ背中を食っ付けたが、
「一人退治た、次は誰だ! お久美お久美、今度は其方だ!」
飛び込もうとするのを見て取るや、五六人信徒が中をへだてた。
「それでも感心、教主を守るか。充分に守れ、充分に切る。ソレ!」と飛び込むと一揮した。
「次はどいつだ。誰でもよい、行くぞ!」と叫ぶとまた一躍し、つれて悲鳴! 倒れる音がした。
邪教徒たちがバタバタと逃げ出した。
26
それを追っかけた宇津木矩之丞は、信徒に囲まれ龕を捧げ、逃げて行くお久美へ追い付いたが、
「天誅!」と叫ぶと背後袈裟に、右肩から背筋へまで斬り付けた。
龕が投げられ、悲鳴が起こり、お久美が倒れてノタ打つのを、宙へ舁きのせたが狂信者の群は、矩之丞の手並に恐れたのであろう、往来の方へなだれ出た。
もう追おうともしなかった。宇津木矩之丞は血刀を拭うと、ソロリと鞘へ納めたが、
「何か加賀屋にあったようだ」
裏木戸までスルスルと引っ返した時、その裏木戸が中から開けられ、
「お武家様いかがでございました」
岡引の松吉が顔を出した。
「ちょっとお入り下さいまし、加賀屋の主人と若旦那とが。……」
「源右衛門殿がな」と入ったが、やがて遠々しく声がした。
「や、若主人が源右衛門殿を!」
「ナーニ、からくりでございます」
岡引の松吉の声である。
一方鮫島大学の身にも、一つの事件が起こっていた。
「さあさあ方々出動なされ、面白い芝居が打てましょうぞ。……火の手は上った。燃え上った。役目をしようぞ、風の役目を!」
火事場泥棒の心持である。ぶちこわしの騒動に付け込んで、悪事をしようと企んだのである。
自分自身が真っ先に立ち、混乱の巷へ押し出した時、一人の乞食が走って来たが、チラリ大学を横目で見ると、掠めるようにして馳せ違った。
「はてな、彼奴は?」と鮫島大学は、背後の方を振り返ったが、もうその時には乞食の姿は、暴徒に紛れて見えなかった。
しかし乞食は立ち去ったのではない。大学の屋敷の裏手の方に、身を潜めていたのである。
と板壁へ手をかけた。そうして次の瞬間には、屋敷の内側へ飛び込んでいた。
探すものでもあるのだろう。足音を盗んで入って行く。
一つの部屋の前へ来た時である。唄うような女の声がした。
扉を押しひらいた乞食の上州は、
「お妻殿か!」
「たあれ、貴郎は?」
上海風の部屋の中に、上海風の寝台があり、上海風の阿片食のお妻が、阿片の吹管を抱きながら洞然とした眼で見詰めている。
「拙者でござる。探しに来ました! ……それでもとうとう目つかった! ……ああそれにしても変わられたことは! ……」
凝然として突立った。
「これが支部長の令嬢か! これが俺の許嫁か! 生ける死骸だ! 生ける死骸だ!」
「阿片をおのみなさいまし」
茫然としてお妻が云った。
「何も彼も忘れてしまいましょう。美しい夢ばかり見られます。……あなたはたあれ!」と恍惚とする。
「どっちみちお助けしなければならない!」
こう思ったに相違ない。つと進むと腕を延ばし、乞食はお妻をひっ抱えた。
「助けて下さいよ! 助て下さいよ! 誰か妾を連れて行きます!」
行くまいとお妻はもがくのである。
だが乞食の上州は、いわゆる有無を言わせないという態度で、お妻を抱えた手をゆるめず、部屋から外へ飛び出そうとした。
そこへ飛び込んで来た人間がある。
「やはり貴殿か!」
――と大学であった。
「忘恩の徒よ! 反逆者よ!」
竹光でこそあれ凄い利器、腕も充分冴えている、大学の胸を貫いた。
こうして大学は斃れたが、突きさした竹光を突きさしたまま、お妻をかかえて、風のように、馳せ去った乞食の上州は、どこへ行ったものかその時以来、二度と姿を現わさなかった。しかし竹光の柄の上に一連の文字が刻ってあったので、その身分を知ることが出来た。
支那には「白蓮会」だの「哥老会」だの「六合会」だのというような、秘密結社がたくさんあったが、その中の「白毫会」という結社には、日本人も会員に加わってい、乞食の上州と宣った人物も(本名は富本雄之進とのこと)鮫島大学も会員であって、支那とそうして日本との間を密行していたそうな。
富本雄之進は正義の士で、将来の日本の大陸進出のため、支那の内情を知ろうとして、白毫会員になったのであるが、鮫島大学はそうではなく、私利私欲を計ろうとして、白毫会員になったのであり、支那の悪質の娯楽場の組織を、江戸へ持って来て打ち立てて、詐欺的行為までしたのであり、なお彼は支那から帰国する際に、白毫会の支部長(これも日本人)の娘で、雄之進の許嫁にあたる、お妻というのを誘惑して来て、娯楽場の酒場のスターにしたが、阿片常用者にまで堕落させてしまった。
しかしその当の大学も、許嫁のお妻を取り返すため日本へ帰って乞食にまでなり、大学を探していた雄之進のために、竹光で刺されて殺されてしまい、外国渡来の悪質娯楽場も、おりからの「ぶちこわし」の火事にかかり、まったく灰燼となってしまった。
27
自分の家の金蔵の中に、どうして源右衛門と源三郎とが、血だらけになっていたのだろう? 鮫島大学の姦策からであった。一味の悪漢東三をして、加賀屋の蔵番に住み込ませたのは、かなり以前からのことであり、大金を盗ませようとしたのである。
で昨夜手下の松本という男を、町役人に仕立て上げ源右衛門へこんなことを云わせたのである。
「源三郎殿には悪所通いをはじめ、おびただしいまでに金を使われる。恐らく御身代へも穴をあけたであろう。充分御注意なさるがよい」と。……
そこで源右衛門が驚いて、金蔵へ行って調べたが、そこを背後から東三が斬り付け、負傷失心して倒れたところへ、大学方から送って来た、――金八という男が運んで来て、木戸をこじ開けて舁ぎ入れた、これも失心した源三郎を押し込め、そうしてその手へ血刀を握らせ、それから大金を奪い取り、大学方へ渡したのである。
源右衛門の行方が知れないと知ったら、加賀屋では官へ届けるであろう。すぐに役人がやって来て、金蔵なども調べるであろう。そこでそういう光景を見ると、官ではきっと思うであろう。――源三郎が金に詰まり、従来も金を盗んでいたが、この夜も金を盗もうとして、金蔵の中へ入り込んだところを、父の源右衛門に発見され、そこで兇行を演じたのであろうと。
………しかし加賀屋で大事を取り、官へ届けるのを控えている中に、松吉のために発見され、その企ては失敗に終った。
そうして慧眼な松吉によって、かえって東三が疑われ、厳重に尋問された結果、一切のことが暴露された。
幸い源右衛門の負傷は軽く、間もなく恢復したそうであり、平野屋から委託された貴重な品を宇津木矩之丞から受け取ることも出来た。
貴重の品物とは何物だろう? 平野屋から加賀屋の手を通し、加賀宰相家へ売り込むべき品で、小さな物ではあったけれど、非常に値打ちのある物であり、金に換えたら萬金にもなろうか。
そこで中斎が奪い取り、救民の資にあてようとしたのを、宇津木矩之丞が賊名を恐れ、変名をして浪人者となり、平野屋の寮の門前で、鮫島大学と斬り合って、その武勇を現わして、平野屋の老主人に認められ、その貴重品を托せられたのである。
一方鮫島大学は、そういう悪党であったため、貴重品のことを耳にするや、奪い取ろうと大阪へ下り、平野屋の寮を窺っている中、宇津木矩之丞と出会ったまでである。
大学は江戸へ帰ったが、矩之丞が大阪から上陸した晩に、手下の者へ云いふくめ、加賀屋からの迎えだと偽わって、旅籠屋の柏屋へ送り込み、手下の一人を同宿させて、機を見て貴重品を盗ませようとしたのを、矩之丞が早くも感付いて、あべこべに手下に当身をくれ、衣裳を奪って自分が着て、旅籠屋の柏屋を抜け出したのである。
裸体に剥いた大学の手下を、開けずの間の中へ放り込んだのには、次のような事情があったのである。
何となく宇津木矩之丞には、開けずの間の建物が気になったので、そこで深夜に行ってみると、その後から例の大学の手下が、コッソリ尾行て来たのである。
そこで、気絶させて裸体に剥き、開けずの間の中へ抛り込んだまでで、その時開けずの間が邪宗の道場で、十字架、祭壇というような、いろいろの物のあるのを知り、一驚したということである。
宇津木矩之丞のその後については、いろいろの説が行なわれている。
大塩中斎に諌言をし、一揆(天満から兵を挙げ、大阪の大半を焼き打ちにかけ、悪富豪や城代を征め、飢民を救済しようとしたので、世人、天満焼と称したが)――その一揆の勃発を、中止させようと努めたところ、中斎がそれを諾かなかったので、矩之丞は断念し、大塩中斎の党から脱し、身を完うしたとそういうのが、一番真相に近いらしい。
乳母のお繁は悪人ではなかった。ただお久美の信者であって、時々品子の口を通し、源右衛門をして献金させようとしたが、源右衛門は承知をしなかったそうで、それを苦にした娘の品子が発作的に一時気を狂わせ、ああいうことを云ったまでで、そうして品子が父や兄について、近所にいると看破したのは、神経病者にありがちの、直感の結果だということである。
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