11
「親分おいででござんすかえ」
「はいはいおいででございます」
「これは親分お早うございます」
「はいはいお早うございます」
「たんへんな事件が起こりましたので」
「ははあ左様で、承わりましょう」
「加賀屋の主人が消えましたんで」
「これは事件でございますな」
「昨夜のことでございますよ」
「ははあ左様で、昨夜のことで」
「いまだに行方が知れませんので」
「なるほどこれは大変なことで」
「家内中大騒ぎでございますよ」
「これは騒ぐのが当然で」
「ところがああいう大家のことなので、表立って世間へは知らせられないそうで」
「もっとももっとも……もっとももっとも」
「それ信用にも関しますので」
「左様どころではございません」
「一通り訊いては参りました」
「これはお手柄、承わりましょう」
「ええと昨夜も更けた頃に、町方のお役人がこっそりと、加賀屋へ参ったそうでございますよ」
「ああ町方のお役人様がね」
「で主人と逢いましたそうで」
「ああ左様で、源右衛門さんとね」
「ええそれからヒソヒソ話……」
「ははあお役人と源右衛門さんがね」
「と、どうしたのか源右衛門さんには、にわかに血相を変えまして、奥へ入ったということで」
「なるほどね、なるほどね」
「つまりそれっきり消えましたそうで」
「なるほどね、なるほどね」
「ところがもう一つ不思議なことには……」
「はいはい、不思議が、もう一つね」
「その夜若旦那も帰りませんそうで」
「へーい、なるほど、源三郎さんもね」
「親子行方が知れませんそうで」
「それは、まあまあ大変なことで」
聞いているのは岡引の松吉で、その綽名を「丁寧松」といい、告げに来たのは松吉の乾兒の、捨三という小男であった。
所は神田連雀町の丁寧松の住居であり、障子に朝日がにぶく射し、小鳥の影がぼんやりとうつる、そういう早朝のことであった。
捨三が旨を受けて行ってしまうと、丁寧松は考え込んだ。
その時お勝手から声がした。
「何だいお前、お菰の癖に、親分さんに逢いたいなんて」
ちょっと小首を傾げたが、ツイと立ち上った丁寧松は、きさくにお勝手へ出て行った。
「お梅さんお梅さんどうしたものだ、お菰さんだろうと何だろうと、お出でなすったからにはお客さんだよ。不可ない不可ない、粗末にしては不可ない」
下女のお梅をたしなめたが、ヒョイと丁寧松は眼をやった。乞食が勝手口に立っている。
「これはいらっしゃい。何か御用で?」
「へい」と云ったが入って来た。
「お貰いに参ったんじゃアございません、お為になろうかと存じましてね。ちょっとお聞かせにあがりましたんで」
「ああ左様で、それはそれは。……お梅さんお梅さん向うへ行っておいで。……さあさあ貴郎遠慮はいらない。おかけなすって、おかけなすって」
「ここで結構でございますよ、実はね親分」と話し出した。
「人殺しがあったんでございますよ」
「へーい、人殺し? それはそれは」
「そいつをあっしは見ていたんで」
「なるほどね、なるほどね」
「あっし達の住居は軒下なんで。どこへでも寝ることが出来ますので」
「自由でよろしゅうございますなあ」
「昨夜寝たのが佐賀町河岸で」
「あああの辺りは景色がいい」
「と、侍が来かかりました」
「ナール、侍がね。……どうしました?」
「と、ムラムラと変な奴が出て、斬ってかかったんでございますよ」
「うむ、うむ、うむ、侍がね」
「と、スポーンと斬ったんで。侍の方が斬ったんで」
「冴えた腕だと見えますねえ」
「引け! というので引いてしまいました。その現われた連中の方が」
「衆寡敵せずの反対で」
「するとどうでしょう、提燈の火だ」
「ほほう提燈? 通行人のね?」
「加賀屋と書いてありましたんで」
「え」と云ったが松吉の眼は、この時ピカリと一閃した。
「加賀屋と書いてありましたかな」
12
なおも乞食は云いつづけた。
「宇和島様でございましょうな、加賀屋からのお迎えでございます。……こう云ったではありませんか」
「ははあ提燈の持主がね?」
「へい左様でございますよ。……それから、侍を囲繞んで、霊岸島の方へ行きましたので」
「霊岸島の方へ? 不思議ですなあ。加賀屋の本家も控えの寮も、霊岸島などにはなかったはずだが」
「これが好奇というのでしょう、後をつけたのでございますよ、人殺しをした侍が、どこへ落ち着くかと思いましてね」
「偉い」と松吉は手を拍った。
「ねえお菰さん、お菰さんを止めて、私の身内におなりなさいまし」
「これは」と乞食は苦笑したが、
「で、つけたのでございますよ」
「それで、どうでした、どこへ行きました?」
「へい、柏家へ入りました」
「柏家? なるほど、一流の旅籠だ」
こうは云ったが考えた。
「ちょっと不思議な噂のある旅籠だ。……ところで、それからどうしました?」
「話と申せばこれだけなので」
ニンマリと乞食は笑ったが、
「親分さんは御親切で、どんな者にでもお逢いになり、話を聞いて下さるそうで。……仲間中での評判でしてね。……お為になれば結構と存じ」
「よく解りました、有難いことで。……これはほんの志で。……オイオイお梅さんお梅さん、このお客さんへお酒をお上げ。ええとそれからおまんまをね」
居間へ引っ返した丁寧松はポカンとした顔で考え込んだが、やがて長火鉢のひきだしを開けると、ちいさい十呂盤を取り出した。
パチ、パチ、パチと弾き出した。
岡引の松吉は三十五歳、働き盛りで男盛り、当時有名な腕っコキで、十人以上の乾兒もあったが、どうしたものか独身であった。そうして彼は変人でもあった。起居も動作も言葉つきも、岡引どころの騒ぎではなく、旦那衆のように丁寧なのである。乾兒や乞食に対してさえ、丁寧な言葉を使うのである。
丁寧松の由縁である。
ところで彼は捕り物にかけては、独特の腕を持っていた。武器はと云えば十呂盤と十手で……
十手が武器なのは当然だが、十呂盤が武器とはどういうのだろう?
それは誰にも解らなかった。
とはいえ、彼は事件にぶつかると、きっと十呂盤を取り出して、掛けたり引いたりするのであった。
こじつければこんなように云うことは出来る――すべて数学というものは、人の心を緻密にし人の心をおちつかせる。そこで心をおちつかせるために、十呂盤弾きをするのだと。
今も熱心に弾いている。
「二、一天作の五、二進が一進、ええと三、一、三十の一……加賀屋親子の行方不明、佐賀町河岸での人殺し、そこへ迎えに出た加賀屋の提燈……これには連絡がなければならない。……宇和島という若侍……それに泊まった柏屋という旅籠? ……柏屋、柏屋、柏屋だな?」
どうにも考えがまとまらないらしい。
「加賀屋から迎えに出た以上は、本家か寮かへ連れて行かなければ、本当のやり口とは云われない。……十から八引く六残る。冗談云うなよ、二が残らあ」
珠算をしながら考えている。
痩せぎすでそうして小造りであり、眼が窪んで光が強く、どっちかというと醜男である。だが決して一見した所、人に悪感を与えるような、そんな人相はしていない。
「十から八引く二が残る。と云うのが浮世の定法だが、本当の浮世はそうでない。八が残ったり四が残ったり、もう一つこいつが酷いことになると、十一なんかが残ったりする」
などと警句を云う男であった。
珠を払うとヒョイと立った。
「本筋から手繰って行くことにしよう」
土間を下りると雪駄を穿き、格子をあけると戸外へ出た。
午前六時頃の日射しである。
早朝だけに人通りが少なく、朝寝の家などは戸を閉ざしている。
須田町から和泉橋、ずっと行って両国へ出たが、駕籠を拾うと走らせた。
「へいよろしゅうございます」
駕籠屋に対しても丁寧である。酒手まではずんだ丁寧松は、駕籠を下りると歩き出した。
13
立派な旅籠屋が立っていた。
すなわち目的の柏屋で、下女が店先で水を撒いてい、番頭が小僧を追い廻している。
「御免下さい」と声をかけ、丁寧松は帳場の前へ立った。
「宇和島様おいででございましょうか」
「へい」と云ったは番頭であった。ジロジロ松吉を見廻したのは、品定めをしたのに相違ない。
「ええどちら様でございますかな?」
居るとも居ないとも返事をせず、相手の身分を訊いたのは、大事を執ったためなのだろう。
鼻が平らで眉が下っていて、人のよさそうな人相ではあったが、眼に一脈の凄味がある。大きな旅籠屋の番頭なのである。人が良いばかりでは勤まらない、食えない代物には相違あるまい。
「加賀屋の者でございますがね」
そこは松吉岡引である。加賀屋を活用したのである。
「おや左様でございましたか。これは失礼をいたしました。へいへい確かに宇和島様には、昨晩からお宿まりでございますよ」
――加賀屋から来たと聞いたので、番頭は安心をしたらしい。
「ちょっくらお目通りいたしたいもので」
「ちょっとお待ちを」と云いながら、番頭は女中へ頤をしゃくった。取次げという意味なのだろう。
すぐに女中は小走って行ったが、どうしたものか帰って来ない。かなりの時間を取ってから、もっけの顔をして飛び帰って来たが、その返事たるや変なものであった。
「どこにもおいででございません」
「冗談お云いな、馬鹿なことを」
番頭の言葉におっ冠せ、お杉という女中は云い張った。
「いえ本当なのでございますよ。どこにもおいでなさいませんので。お部屋にも居られず厠にも居られず、もしやと思って裏庭の方まで、お探ししたのでございますが、やっぱりお姿は見えませんでした。それで、念のために一部屋一部屋、お尋ねしたのではございますが……」
「お姿が見えないというのだね」
「はい、そうなのでございますよ」
「ふふん」と云ったが怪訝そうである。
番頭は松吉の顔を見た。
「いやそうかも知れませんねえ」
丁寧松は驚かなかった。
「それが本当かも知れませんねえ。実はね」というと丁寧松は、丁寧の調子を砕いてしまった。
「加賀屋の者じゃアないのだよ。連雀町の松吉なのさ。ちょっと見たいね、部屋の様子を」
「へえ、それじゃア親分さんで」
番頭はすっかり顫え上った。
「うん」と云ったがズイと上る。
「どうぞこちらへ……偉いことになったぞ」
不安に脅えた番頭を睨み、奥へ通った丁寧松は、またも丁寧な調子になった。
「ねえ番頭さん番頭さん、ビクビクなさるには及びませんよ。貴郎が人殺しをしたんじゃアなし、お咎めを受けるはずはない。だが」と云うときつくなった。
「嘘を云っちゃア不可ねえぜ!」
丁寧松ではなくなったのである。
胆を潰したのは番頭で、
「それでは昨夜のお侍様は、兇状持なのでございましょうか?」
「つまりそいつを調べに来たのさ。それで出張って来たってやつさ」
だがまたもや丁寧になった。
「立派な造作でございますねえ」
云いながら四辺を見廻したが、立派な造作を見たのではなく、間取りの具合を見たのらしい。
真中に廊下が通っていて、左右に座敷が並んでいる。
その一画を通り過ぎると、広大な裏庭になっていて、離れ座敷に相違ない、三間造りの建物があり、母家と渡り縁で繋がれていた。
その建物の中の部屋の、襖の前まで来た時である。
「このお座敷なのでございますよ」
こう云って番頭は辞儀をしてみせた。
14
「なるほど」と云ったが丁寧松は、開けてみようともしなかった。
「結構なお庭でございますなあ」
こんなことを云い出してしまったのである。
築山、泉水、石橋、燈籠、一流の旅籠の庭だけあって、非の打ちどころのないまでに、まさに結構な庭ではあったが、築山の横に木立に囲まれ、古々しい一棟の離れ座敷の、家根の瓦の見えるのが、全体の風致を害していて、欠点といえば欠点とも云えた。
「腰かけてお話しいたしましょう」
縁からダラリと足を下げ、縁へ腰かけた丁寧松は、さも悠暢に云い出した。
「お話を聞こうじゃアございませんか、どんな恰好でございましたかね?」
「へい?」と云ったものの番頭は、何の意味だが解らないらしい。
「何さ、昨夜の泊り客のことで。詳しく話していただきましょう」
「あ、その事でございますか。はいはいお話し致しますとも」
そこで番頭は話し出した。
「ずっと夜更けでございましたが、門を叩くものがございましたので、開けて見ますと加賀屋の提燈、手代風のお方が五六人、ゾロゾロ入って参りましたが、『大切のお客様でございますから、丁寧にあずかって下さるように』と、かように申してお連れして来ましたが、二十五六のお武家様で、宇和島様だったのでございますよ。本来なればそんな夜更け、お断りするのでございますが、名に負う加賀屋様の御紹介ではあり、立派なお武家様でございましたので、早速この座敷へお通し申し……」
「今朝まで安心していなすったので?」
「へいへい左様でございます」
「ええと、所で云う迄もなく、その加賀屋の手代衆は、お引き取りなすったでございましょうね?」
意味ありそうな質問である。
「はい……いいえ……お一人だけは……」
「え?」と松吉は訊き咎めた。
「一人どうしたと仰有るので?」
「お泊まりなすったのでございますよ」
「変ですねえ。……どこへ泊まりました」
「隣りのお部屋でございます」
「宇和島という侍の隣り部屋で?」
こう訊いた松吉の声の中に、鋭いもののあったのは、何かを直感したからだろう。
「はいはい左様でございますよ」
「それで、只今もおいでなさるので?」
「それが明け方、暗い中に、お帰りなすったと申しますことで」
「お前さんそいつを御存知ない?」
「家内中寝込んで居りましたので……」
「どなたが表の戸を開けましたかい?」
グッと鋭く突っ込んで訊いた。
「寝ずの番の女中のお清という女で……」
「ちょっと聞きたいことがある、お清という女中を呼んで下せえ」
間もなく現われたお清という女中は、年も若いし、ぼんやり者らしく、それに昨夜の寝不足からだろう、眼など真赤に充血させていたが、御用聞に何かを訊かれるというので、ベッタリ縁へ膝をつくと、もうおどおどと脅え込んでいた。それと見て取った松吉は、恐がらせては不可ないと、こう思ったに相違ない、丁寧な調子で話しかけた。
「今朝方帰ったという加賀屋さんの手代、何か持ってはいませんでしたかえ?」
「へい」とお清は考え込んだが、
「何にもお持ちではございませんでした」
「ふうん」と云ったが首を傾げた。
「痩せていましたかえ、肥えていましたかえ? 何さ、着ふくれちゃアいませんでしたかね?」
「へえ」と又もや考えたが、
「気がつきませんでございました」
だがもう一度考えると、
「そう仰有ればそんなようで、着ふくれていたようでございますよ」
「廊下には行燈でもありましたかね? 玄関には無論あったでしょうね?」
「それがホッホッと消えましたので」
意外のことを云い出した。
「うむ」と云ったが丁寧松は、チラリと明るい眼付をした。何か暗示を得たようである。
「どっちが先立って行きましたね?」
「お客様がお先へ参りました」
「こう何となく反り返って、お辞儀なんかはしなかったでしょうね?」
こう云ったが笑い出した。
「こいつァ無理だ、訊く方が無理だ、寝ずの番だって人間だ、夜っぴて起きていた日にゃア、明け方には眠くなるからねえ、そんな細かい変梃なことに、気の付くはずはありゃしない。いや有難う、御用済みだ……。ところで」と云うと丁寧松は、番頭の方へ顔を向けたが、
「気を悪くしちゃア不可ませんぜ」
一層声を押し低めたが、
「あれが評判の開けずの間だね?」
築山の横に木立に囲まれ、立っている古々しい離れ座敷へ、頤を向けて訊いたことである。
「へい左様でございます」
「どれちょっくら拝見して来よう。ナーニ中へは入りゃアしない」
庭下駄を突っかけて歩いて行った。
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