国枝史郎伝奇全集 巻六 |
未知谷 |
1993(平成5)年9月30日 |
1993(平成5)年9月30日初版 |
1993(平成5)年9月30日初版 |
乃信姫に見とれた鼠小僧
「曲者!」という女性の声。
しばらくあって入り乱れる足音。
「あっちでござる!」
「いやこっちじゃ!」
宿直の武士の犇き合う声。
文政末年春三月、桜の花の真っ盛り。所は芝二本榎、細川侯の下邸だ。
邸内に大きな松の木がある。その一本の太い枝に一人の小男が隠れていた。豆絞の手拭スットコ冠り、その奥から眼ばかり光らせ高縁の辺りを見詰めている。腕を組み体を縮め足を曲げて胸へ着けた様子、ざっと針鼠と云った塩梅、これが曲者当人である。
「ええどうでえ美人じゃねえか。どうもこいつア耐らねえな。ああやって薙刀をトンと突き縁に立った様子と来たらとても下等の女じゃねえ。正にお大名の姫君様よ。吉原にだってありゃアしねえ。へ、ほんとに耐らねえや。……が、それにしても今夜の俺らを仲間が聞いたら何と云うだろう? おおおおそれでも鼠小僧かえ、どう致しまして土鼠小僧だアね、なるほどお手許金頂戴でよ、大名屋敷へ忍ぶと云やア、豪勢偉そうに聞こえるけれど、細川様の姫君に見とれ茫然突立っているもんだから、眼覚めた姫君に見咎められ、曲者なんて叫ばれたので何にも取らずに飛び出したあげく、それこそほんに鼠のようにあっちへ追われ、こっちへ追われ逃げ場をなくして松の木へ飛び付き漸呼吸を吐いたなんて、へ、それでも稼人けえ? 鼠小僧も箍が弛んだな。――なアんと云われねえものでもねえ。……が、云う奴は云うがいいや。そんな奴とは交際しねえばかりよ。そういう奴に見せてやりてえくらいだ。お美しくて威があって、お愛嬌があって上品と来てはこれぞ女の最上なるものを。クレオパトラだって適うめえ。ましてその辺のチョンチョン格子、安女郎ばっかり買っている奴には這般の消息の解るはずがねえ。……何しろ俺らも驚いたね、いつものデンで忍び込んだ所が場所もあろうに姫君のお寝間、ひょいと覗くと屏風越しに寝乱れ姿が見えたと思え。寝白粉というやつさね。クッキリと白い頸からかけて半分お乳が見えるまで寝巻から抜いだ玉のような肌。まずブルッと身顫いしたね。丹花の唇っていう奴をほんの僅かほころばせてよ、チラリと見せた上下の前歯、寝息さえ香ろうというものさ。で、思わず茫然としていつまでも屏風越しに覗いているとポッカリと眼をお開きなされたがにわかに夜具を刎ね上げたのでハテなと思うと声を掛けられた。
「曲者!」という凜とした声。
「掛けると同時にヒラリと起き長押の薙刀をお取りになったがいやどうもその素早いことは、武芸の嗜みも想われて急にこっちは恐くなり何にも取らずにバタバタと逃げ、かくの通りに松の木の上で、ブルブル顫えておいでなさらア。……と云って恐ろしくて顫えるのじゃねえ。縁に立ったお姫様の薙刀姿が艶かだからよ。……ああ本当に悪くねえなあ。一度でもいいからあんな女を。……おや、畜生、宿直の武士ども漸時こっちへ遣って来やがる。あ、いけねえ見付けやがった!」
「方々曲者を見付けてござる! 松の上に居ります松の上に居ります!」
「えい!」と突き出す大身の槍、それを外して鼠小僧、パッと家根へ飛び移った。
「それ家根だ!」
「逃がすな逃がすな!」
五六人家根へ追い上って来る。
賊はと見ればその賊は、家根棟の上にふん跨がり、大胆不敵にもニヤニヤとこっちを眺めて笑っているらしい。
ツツ――と一人が走り寄り、「捕った!」とばかり組み付くのを、
「侍、命が惜しくないそうな」
云うと同時に組まれたまま故意と足を踏み辷らし、坂を転がる米俵か、コロコロコロコロと家根に添い、真逆様に落ちたのは、乃信姫君の佇んで居られる高縁先のお庭前で、落ちるより早く身を飜えし、組まれた相手を振り解くとひょいとばかりに突っ立った。
「へへ、これはこれはお姫様、とんだ失礼を致しまして真っ平ご免遊ばしませ。なアんて云うのも烏滸がましいが私は泥棒の鼠小僧、お初お目見得に粗末ながら面をお目にかけやしょう」
パッと包んだ手拭を捕るとヌッと露出された変面異相、少し詳しく説明すれば、まずその眼は釣り上ってちょうど狐の眼のようであり、その鼻はひしゃげて神楽獅子を想わせ、口は大きく横へ裂けて欠けた前歯がまばらに見える。夜眼にもクッキリ顔色は……白くはなくて黒いのだ。四尺足らずの小兵ではあり、全体が不具奇形である。
「へへへへ」と笑う声はどんよりと濁って不愉快を極め聞く人をしてゾッとさせる。いわゆる先天的犯罪面でその残忍酷薄さは一見しただけで想像される。
「無礼者!」と乃信姫はキリリと柳眉を上げたものである。
与力軍十郎逆捻を喰わす
乃信姫の声に侍ども、バラバラとここへ集まって来たが、
「ここにいるここにいる! それ召し捕れ!」
「えい!」「や!」と槍や棒。四方八方から打ち込んで来るのを、ハッハッパッと手を挙げて払い、掛け声もなく宙に飛ぶと高塀の上へ突っ立った。
「えへへへ、お姫様! いずれまたお目にかかりやしょう。……いとし可愛いと締めて寝し……ちゃアんと浄瑠璃にもございやす。そんなことがねえとも限らねえ。後の証拠にこの金簪、飛び上った拍子にちょっと抜き、肌身放さず持って居りやす。また逢うまでさらばさらば」
とんと向こうへ飛び下りた。
「それ!」と云うので侍共、裏木戸を開けて後を追う。
遥かむこうに一人の人影宙を舞うように走って行く。
「あれ追え!」とばかり侍共、これも宙を走ったが、どうしてどうして追い付けそうもない。
一つの辻を曲ったとたん、
「かかる深夜に周章しい! 大勢走ってどこへおいでなさる!」
たちまち行手を遮られた。見れば様子でそれと知れる市中見廻りの与力が一人部下の目明五六人を連れ、悠然として立っていた。
「おおこれは与力衆か。我等は細川の家中でござるが、二本榎の下邸にただ今盗賊忍び入ったれば……」
「ははあ賊が入りましたかな」
与力中條軍十郎はちょっとその眼を光らせた。
「左様、盗賊忍び入ったれば、直ちに見付け狩り出し、ここまで追っかけ参ったる所……」
「どの方面へ逃げましたかな?」
「辻を曲ってこの方面へ」
「これは不思議、この方面からは、たった今拙者参ってござるが……」
「盗賊お見掛けなされなかったかな?」
「いかにも左様なもの見掛けませぬ」
「人一人にもお逢いなされぬ?」
「いや一人逢いました」
「すなわち、そやつが盗賊でござる! どの方面へ逃げましたかな?」
「その人間盗賊ではござらぬ」
「いやいやそれこそ盗賊でござるよ。……四尺足らずの小兵の男」
「なかなかもって。五尺五六寸」
「色の黒い変面異相」
「なかなかもって。それも反対、色の白い好男子でござった」
「一応誰何なされたであろうな?」
「左様、互いに挨拶致した」
「ははあ、挨拶? ではご存知で?」
「よく存じ居る人物でござる。……威勢のよい魚屋でござる」
「どこの何という魚屋でござるな?」
「茅場町植木店、和泉屋という魚屋の主人、交際の広い先ずは侠客、ご貴殿方も名ぐらいはあるいはご存知かもしれませぬ、次郎吉という人物でござるよ」
「あ、次郎吉? 和泉屋のな? いやそれなら大承知でござる。ちょいちょい下邸へも出入りする男じゃ」
「細川侯へもお出入りとな? ははあさては魚のご用で?」
「いや」と云ったが細川の藩士、これには少なからずトチッたものである。
「いや何、別にそうでござらぬ。……」
「ああいう人物の常として、袁彦道の方面へも、ちょいちょい次郎吉も手を出すそうで」
「ははあ左様でござるかな」
細川の藩士眼を見合わせた。
「噂によれば二本榎、細川侯のお下邸では、毎日毎夜賭場が立つそうで、ははあさては次郎吉も、その方面でお出入りかな」
「うへえ。……いやいや。……左様なこと。……」
「何のないことがござるものか」
軍十郎ニタリと笑い、
「次郎吉は金使いの綺麗な男、失礼ながらご貴殿方も、時々小使金ぐらいお貰いでござろう」
「いやはや、どうして、なかなかもって……」
「アッハハハ」と軍十郎、臆面もなく笑ったが、
「賭場など立てばお邸内自然不用心にもなる道理、賊に入られてもしかたござらぬの」
「これはどうも飛んだお目違い」
「近来不思議な賊あって、大名邸へ忍び入りお手許金を奪う由、拙者そのため上の命にて夜中見廻り致し居る次第、世間随分物騒でござれば、諸事ご注意願いたいものじゃ」
「心得てござる。注意致すでござろう」
「最早お引き取り相成るよう」
「左様でござるかな。……しからばご免」
さんざん油を取られたあげく、細川の藩士はコソコソと邸の方へ引っ返して行った。
後を見送った軍十郎、苦笑せざるを得なかった。
[1] [2] [3] 下一页 尾页