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生死卍巴(せいしまんじどもえ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-2 7:41:26  点击:  切换到繁體中文


神殿の中の物?

「そういうものでござるかな」
 茅野雄はうるさそうにすげなく云った。
 が、弦四郎は云いつづけた。
「親戚の一方が出世をすると、他の一方が嫉妬をする。親戚の一方が零落すると、他の親戚は寄りつかない。競争心の烈しいもので。さよう親戚というものはな」
「他人同志でも同じでござろう」
「なまじいに血潮が通っているだけ、愛憎は強うございますよ。さようさよう親戚の方が」
「兄弟などは親戚中でも、特に血の濃いものでござるが『兄弟かきにせめげども、外そのあなどりを防ぐ』と云って、真実仲よくしていますがな」
「が、一旦垣の中を覗くと、他人同志では見られないような、財産争いというような、深刻な争いがありますようで」
「が、幸い我らには――さよう、浪江殿と拙者とには――いや拙者と伯父一族とには、そのような争いはありませぬよ」
「御意!」と、弦四郎は道化た調子で云った。
「だからこそ拙者申しましたので、貴殿と浪江殿とは恋人かのように、大変お仲がよろしいとな」
「御意!」
 今度は茅野雄が云った。
「大変お仲がよろしゅうござる。その上に貴殿というような、おせっかいな人物が現われて、恋人らしい恋人らしいと、はたから大袈裟にけしかけなどしたら、事実恋仲になろうもしれない」
「よい観察! その通りでござる」
 弦四郎はこう云うと憎々しそうにした。
「が、永遠の処女として、丹生川平の郷民達から、愛せられ敬まわれ慕われている、浪江殿を貴殿が手に入れられたら、郷民達は怒るでござろう」
「さようかな」
 と、茅野雄であったが、軽蔑したように軽く受けた。
「郷民達が怒る前に、貴殿が怒るでございましょうよ」
「…………」
「と云うのは貴殿こそ浪江殿に対して、恋心を寄せておられるからで」
 これには弦四郎も鼻白んだようであったが、負けてはいなかった。
「いかにもそれがし浪江殿を、深く心に愛しております。覚明殿にも打ち明けてござる。と、覚明殿仰せられてござる。『白河戸郷を滅ぼしたならば、浪江を貴殿に差し上げましょう』とな」
「ほう」と、茅野雄はあざけるように云った。
「覚明殿が許されても、肝心の本人の浪江殿が、はたして貴殿へ行きますかな?」
 するとその時まで沈黙して、次第に闘争的感情をつのらせ、云い合っている二人の武士の、その言い争いを心苦しそうに、眉をひそめて聞いていた浪江が、優しい性質を裏切ったような、強い意志的の口調で云った。
わたしは品物ではございません。妾は人間でございます。妾は妾の愛する人を、妾の心で選びますよ!」
 で、茅野雄も弦四郎も白けて、しばらくの間は無言でいた。
 ここは小川の岸であって、突羽根草つくばねそうの花や天女花てんにんかの花や、夏水仙の花が咲いていた。小川には水草がゆるやかに流れ、上を蔽うている林の木には、枝や葉のすきから射し落ちて来る日の光に水面はをなして輝き、底に転がっている石の形や、水中を泳いで行き来している小魚の姿を浮き出させていた。
 一筋の日光が落ちかかって、首を下げている浪江のうなじの、後れ毛を艶々つやつやしく光らせていたが、いたいたしいものに見えなされた。
 そういう浪江と寄り添うようにして、腰をかけている茅野雄の大小の、柄の辺りにも日が射していて、つばをキラキラと光らせていた。
 その前に立っている弦四郎の態度の、毒々しくあせっていることは! 両足を左右にうんと踏ん張り、胸へ両腕を組んでいる。
 と、そういう弦四郎であったが、にわかに磊落らいらくに哄笑した。
「アッハッハッ、ごもっとも千万! 浪江殿の婿様でござるゆえ、浪江殿が自身で選ばれるのが、当然至極でございますとも。……そうなると拙者は方針を変えて、慾の方へ走って行くでござろう」
「慾? なるほど! どんな慾やら?」
 茅野雄には意味が解らないようであった。
「慾は慾なりでございますよ」
 こう云う弦四郎は眼を走らせて、遥かの彼方かなたに森林に蔽われ、頂きだけを出している、洞窟のある岩の山を、意味ありげに眺めやった。
「あそこの洞窟の中にある、神殿の内陣へまかり越し、値打ちあるものをいただくという慾で」
 この意味も茅野雄には解らなかったらしい。
「神殿の内陣にありますかな? そのように値打ちのある品物が!」
「馬鹿な!」と、弦四郎はかっするように云った。
「貴殿も承知しておられるくせに」
「拙者は知らぬよ!」とブッキラ棒であった。
 茅野雄はブッキラ棒に云い切った。
 しかし弦四郎は嘲けるように云った。
巫女みこが貴殿に予言された筈で。山岳へおいでなさりませ、何か得られるでございましょうとな! ……その何かがあの神殿の、内陣にあるのでございますよ! 得ようと思って来られたのでござろう! さよう、ここへ、丹生川平へ!」
「また出ましたな、巫女という言葉が! が、拙者は巫女の云ったことなど。……」
 茅野雄がすっかり云い切らないうちに、しかし弦四郎は歩き出した。
「内陣の中の品物についても、貴殿と競争をするように、いずれはなるでござりましょうよ。どっちが先に手に入れるか? こいつ面白い賭事でござる。……勝つには是非とも白河戸郷を、何より滅ぼさなければならないようで。……何故? 曰くさ! 覚明殿がだ、拙者へこのように云ったからでござる。白河戸郷を滅ぼしたならば、神殿の内陣へ入れてあげましょうと! ……入ったが最後掴んでみせる。……で、貴殿にも心を巡らされ、白河戸郷を滅ぼすような、うまい策略をお立てなされ!」
 云い捨ると弦四郎は行ってしまった。
 茅野雄は後を見送ったが、心の中で呟いた。
(ああ云われると俺といえども、内陣の中へ入って行って、何が内陣に置かれてあるのか、ちょっと調べて見たくなった)

 星月夜ではあったけれど、森に蔽われている丹生川平は、この夜もほとんど闇であった。
 神殿が設けられているという、岩山の辺りはわけても暗く、人が歩いていたところで、全然姿はわかりそうもなかった。
 そういう境地を人の足音が、岩山の方へ辿っていた。
 足音の主は宮川茅野雄で(何が内陣に置かれてあるか、ちょっと調べて見たくなった)――この心持が茅野雄をって、今や歩ませていたのであった。
 古沼の方に燈火ともしびが見えた。病人達が古沼の水で、水垢離みずごりを取っているのであろう。
 どことも知れない藪の陰から、低くはあるが大勢の男女が、合唱している声が聞こえた。
 病人達が唄っているのであろう。
 が、神聖の地域として、教主の宮川覚明が、許さない限りは寄り付くことの出来ない、この岩山の洞窟の入り口――そこの辺りには人気がなくて、森閑しんとして寂しかった。
 茅野雄は洞窟の入り口まで来た。
(いずれは番人がついていて、承知して入れてはくれないだろう。が、ともかくも様子だけでも見よう)
 茅野雄はこういう心持から、この夜一人でこっそりと、ここまで辿って来たのであった。
 さて、洞窟の前まで来た。
 茅野雄は入り口から覗いて見た。暗い暗いただ暗い! 恐らく神殿の設けられてある洞窟内の奥までには、幾個いくつかの門や番所があり、道とて曲がりくねっていて、容易に行けそうには思われなかった。
(行ける所まで行ってみよう)
 で、茅野雄は入り口へ入った。
 が、その時背後にあたって、ゾッとするような感じを感じた。
 と、思う間もあらばこそであった。数人の人間が殺到して来た。
「…………」
 無言で洞窟の入り口から、外へ飛び出した宮川茅野雄は、これも無言で切り込んで来た、数人の人間の真っ先の一人へ、ガッとばかりに体あたりをくれて、仆れるところを横へれ、木立の一本へ隠れようとした。
 意外! そこにも敵がいた。
 閃めく刀光! 切って来た。
 鏘然! 音だ! 合した音だ!

白皓々

 切って来た鋭い敵の刀を、抜き合わせて茅野雄が払ったのであった。
 茅野雄はまわった! 木立を巡った。もう一本の木立へ来た。
 刀光! 意外! 敵がいた! 閃めかして茅野雄へ切ってかかった。
 また太刀音! が、しかしだ! 既に茅野雄はこの時には、身を翻えして遁れていた。
 この間も茅野雄は考えた。
(信者なら声をかけるはずだ! 「神殿を荒らす背教者でござるぞ! 出合え! 方々!」――と、こんなように! ……ところがこいつは黙っている。……何者だろう? 何者だろう? うむ、五人だな! おッ、来おる!)
 闇を一層に闇にして、五人の人影がかたまって、迫って来るのが幽かに見えた。
 と、その次に起こったことは、数合の太刀音のしたことと、一人の人影が地上へ仆れ、仆れながら何かを投げたことと、その人影が起き上った時、一人の男がうなり声をあげて、ドッと地上へ仆れたことと、仆れた人間を切り刻もうとして、五人の人影が飛びかかったことと、洞窟の入り口へ光が射して、すぐに一点龕燈がんどうの光が、闇へ花のように浮かび出たことと、全裸体まるはだかの乙女がその龕燈を捧げて、悩ましそうな眼付きをして、投げられた丸太に足を打たれ、地上へ仆れている茅野雄の姿と、茅野雄を切って刻もうとして、醍醐だいご弦四郎と彼の部下の、半田伊十郎と他五人とが、茅野雄の周囲に集まっているのを、順々に見廻したこととであった。
「浪江殿ではござらぬか※(感嘆符疑問符、1-8-78)
「……その姿は? ……白皓々はくこうこう!」
 茅野雄と弦四郎とは同時に云った。

 それから数日後のことであった。三挺の駕籠が前後して、花の曠野へ現われた。
 曠野へ駕籠が三挺出て、すこしばかり先へ進み出した時、もう一挺の駕籠が出て、三挺の駕籠へ追いついた。
 数日前に萩村のうまやじの、柏屋という旅籠はたご屋から、乗り出した駕籠に相違ない。
 では真っ先の駕籠にいるのは、いわれぬ威厳を持ったところの、高貴な身分の若武士わかざむらいであろうし、その次の駕籠にいる者は、松平碩寿翁その人であろうし、その次の二挺の駕籠にいるのは、身分に見当の付かないような、小気味の悪い老人と、若い美しい娘とであろう。
 さてこうして四挺の駕籠が、丹生川平と白河戸郷とを、連絡している花の曠野へ、同時に姿を現わした。どっちかの郷へ行かなければなるまい。
 と、はたして四挺の駕籠は、白河戸郷の方角へ向かって、ゆるゆると歩みを進ませて行った。
 と云うよりも真っ先の駕籠が、白河戸郷の方角を目ざして、ゆるゆるとして進んで行くので、碩寿翁の乗っているもう一挺の駕籠が、その駕籠についてその方へ進み、碩寿翁の乗っているその駕籠が、その方へ進んで行くところから、それをつけてその次の二挺の駕籠が、その方へ進んで行くのだと、こう云った方がよさそうであった。
 進み進んで四挺の駕籠が、曠野から姿を消した時、白河戸郷の盆地の上の、丘の一所へ現われた。
 そこから姿の消えた時には、盆地の坂を下っていた。
 が、そうして四挺の駕籠が、白河戸郷へ到着するや、幾つかの事件が行なわれた。
 衆を集める鐘の音が、回教寺院めいた建物から響くと、耕地からも往来みちからも家々からも、居酒屋からも、花園からも、大人や子供や男や女が、一度にときを上げて集まって来て、四挺の駕籠を取り巻いてしまった。
「誰だ誰だ! 何者だ!」
「神域へ無断で入って来た! 追い払ってしまえ! 虐殺してしまえ!」
「とにかく将監しょうげん様へお知らせしろ!」
「どんな奴が駕籠に乗っているのだ! 駕籠の戸をあけて引きずり出せ!」
 郷民達が声々に喚いた。
 と、その時一人の老人が、幾人かの郷民に囲繞されて、四挺の駕籠の方へ近寄って来たが、
「拙者は白河戸将監でござる。白河戸郷の長でござる。何用あって参られたか?」
 こう四挺の駕籠に向かって云った。
 と、その声に応じて一挺の駕籠から、一ツ橋慶正よしまさ卿が悠々と現われ、もう一挺の駕籠から碩寿翁が現われ、もう二挺の駕籠から老人と美女――他ならぬ刑部おさかべ老人と、巫女みこの千賀子とが現われた。
 そうして一ツ橋慶正卿が、何やら将監へ囁いた。
 と、形勢が一変した。
 郷民達が慇懃いんぎんになり、一度に揃って慶正卿へ、ひざまずいて頭を下げたりした。将監においても丁寧になり、恭しく慶正卿に一礼し、それから自身が先頭に立って、回教寺院めいた建物の側の、一宇の屋敷へ案内した。それは将監の屋敷らしかった。
 ところで碩寿翁と刑部老人と、巫女の千賀子とはどうしたかというに、これも将監に案内されて、慶正卿につづいて将監の屋敷へ、同じく招待されたのであった。
 で、その後は白河戸郷は、以前まえながらの平和に帰ったが、その平和には活気があって、明るさを加えたようであった。

 これに反して丹生川平の方は、陰鬱の度を加えて来た。
 わけても陰鬱になったのは、宮川茅野雄その人であって、ある日人目を避けながら、森林の中を浪江と一諸に、話をしながら歩いていた。
「あれは何事でございますか! 若い乙女の身をもって、一糸もまとわぬ全裸体まるはだかで、あのような所におられましたのは?」
「止むを得なかったからでございます。……それにあの時ばかりでなく、従来これまでもああだったのでございます」
「尚よくないではございませんか。何のためにあんなことをなされるので?」
「お父上がせよと仰言おっしゃいますので」
「私には伯父上の、覚明殿が?」
「そうして丹生川平から申せば、祭司であり長である怖い方から」

病める人々

 浪江の声は悲しそうであり、浪江の態度はおどおどしていた。
 が、茅野雄は突っ込んで訊ねた。
「どういう利益がありますので? あなたがあのように裸体はだかになれば?」
「はい、信者が喜びますそうで」
「信者? ふうむ、業病人ごうびょうにん達が?」
「はい、さようでございます。諸国から無数に集まって来た、業病人達でございます」
「何をあなたはなされるので? その不快な業病人達の前で?」
「ただ現われるのでございます。美しい清浄な女として。……」
「が、私には解らない! どうにも私には解らない!」
 すると今度は浪江が訊ねた。
「それにしても、あなた様には何の目的で、あの晩あのような場所へ参って、あのようなことをなさいましたので?」
「内陣の様子を見ようものと、忍んで行ったのでございますよ」
「でも父上からあなた様には、止められているはずではございませんか。内陣を見てはいけないと」
「さよう、ですからより一層に、内陣が見たかったのでございますよ」
「好奇心からでございましょうね?」
「好奇心からでございますとも」
「でも好奇心は好奇心のままで、うっちゃってお置きなさいました方が、よろしいようにございます。……好奇心は好奇心をとげた時に、値打かちを失うでございましょうから」
「値打を失なってしまいたいために、好奇心というものは強い力で、人間に逼るものでございますよ。好奇心は力でございます」
 森林の底と云ってもよかろう。特に薄暗い所へ来た。杉だの桧だの※(「木+無」、第3水準1-86-12)ぶな[#「※(「木+無」、第3水準1-86-12)」は底本では「撫」]だの欅だのの、喬木ばかりが生い茂っていて、ほとんど日の光を通さなかった。で、歩いて行く茅野雄と浪江との、姿さえぼけて見えるほどであった。
「伯父上はご立腹のようですな」
 巨大な楠の木の裾を巡り、行く手に黒くよどんで見える、古沼の方へ歩きながら、こう茅野雄は苦痛らしく云った。
 そういう茅野雄と肩を並べながら、足に引っかかる蔓草や落ち葉を、踏み踏み歩きながら浪江は云った。
「内陣を見られるということが、お父様にはこの上もなく、不愉快なのでございますので、それをご覧になろうとして、深夜に洞窟へ人に知らさず、こっそり行かれたあなた様を、怒っているのでございますよ」
「私にこの土地から立ち去るようにと、伯父上には今日仰せられました」
「…………」
「が、それにしても内陣には、何があるのでございましょうかな?」
「…………」
「醍醐弦四郎に対しましても、伯父上にはこの土地を立ち去るようにと、厳命したようでございますな」
「でも、弦四郎様は申されましたそうで『こっそり内陣へ入り込もうとした、宮川氏を入れまいとして、あの晩私や私の部下で、宮川氏を遮りました。功こそあれ罪はないはずで。立ち去れとは不当でございましょうよ』と」
「ナーニ、そのくせ醍醐弦四郎めも、あの晩内陣へ入り込もうとして、洞窟の入り口まで行っていましたので。そこへ私が参りましたので、競争相手をたおすつもりで、この私へあのように、切ってかかったのでございますよ」
 二人は尚も彷徨さまよって行った。
 と、一所から声々が聞こえた。
 木立がそこだけ隙をなして、日光の射している丘があったが、そこに無数の業病人達がいて、話をし合っているのであった。
 茅野雄と浪江とはかして見た。
 顔に白布をかけている者、松葉杖を脇の下へかっている者、一本しかない一本の腕で、胸の辺りをガリガリと掻いている者、膝から両脚がもげているので、歩くことが出来ずに這い廻っている者、髪の毛が残らず抜けたために、老婆のように見える若い女、骨なしの子供、せむしの老人――いずれも人の世の惨苦者さんくしゃであったが、信仰を失ってはいないと見えて、その動作にも話しぶりにも、穏かな沈着おちついたところがあった。
 せむしの老人が体を延ばして、石楠花しゃくなげの花を折ろうとしたが、どうにも身長せいが届かなかったので、人々はドッと声を上げて笑った。とは云え笑ったそういう声にも、軽蔑らしい響きなどはなかった。
 笑い声が高く大きかったからか、小鳥の群がさおをなして、日光の明るいそこの空間を、斜めに矢のようにけて通った。

「幸福そうでございますな」
 ふと茅野雄は浪江へ云った。
「幸福なのでございますよ」
 こう浪江は答えはしたが、苦しそうなところが声にあった。
偽瞞ぎまんであろうとカラクリであろうと、それが信じられているうちは、幸福なのでございますよ。あの可哀そうな業病人達は」
(偽瞞? カラクリ? 何のことだろう?)
 茅野雄には浪江の云った言葉が、いぶかしいものに思われた。
(これもやっぱり洞窟の中の、内陣に置いてある何らかの物と、関係のある言葉に相違ない)
 で、茅野雄は押し強く訊いた。
「浪江殿、お話しくださるまいか。内陣には何がありますので?」
「…………」
 浪江は返辞はしなかったが、云いたいと努力しているようであった。
 二人は宛なしに足を運んだ。
 古沼の岸を巡って越し、灌木の多い境地へ出た。
 と、その時人の足音が、ひそやかに二人の背後うしろの方でした。
 しかし二人には解らなかった[#「解らなかった」は底本では「解らなった」]
 不意に浪江が苦しそうに云った。
「申し上げることにいたします。どなたかにお話しいたしませねば、妾良心の苦しさに、息詰まってしまうのでございます。……あの内陣にあるものは、盗んで来た品物でございます。……しかも片輪なのでございます!」
「浪江!」と、その時鋭い声が、いや、幽鬼的の兇暴の声が、背後にあたって響き渡った。
 同時に風を切る音がした。
「あれ!」
「伯父上!」
 ガラガラガラ!
 体は長身、髪は切り下げ、道服めいた衣裳を着た、一人の老人が鉄の杖を、両手で頭上に振り冠り、怒りと憎しみとで顔を燃やし、水銀のようにギラギラと光る、鋭い眼で、一所を睨みながら、あたかも鬼のように立っていた。
 外ならぬ宮川覚明であった。
 そういう覚明から二間ほど離れた、桧の大木の背後の辺りに、一個の群像が顫えながら、覚明を見詰めて、立っていた。
 覚明が背後から鉄の杖で、浪江を撲殺しようとしたのを、早くも気勢けはいで察した茅野雄が、刹那に浪江を引っ抱え、瞬間に飛び退いて難を遁れ、いまだに浪江を引っ抱えたままで、立っているところの姿なのであった。
 寂然とした間があった。
 向かい合った三人の空間を、病葉わくらばが揺れながら一葉二葉落ちた。
 と、讃歌が聞こえてきた。

※(歌記号、1-3-28)唯一なる神
みそなわし給う
病める我らを
慈悲の眼をもて。

 丘の上の大勢の業病人達が、歌っている讃歌に相違なかった。
 宙に上っている鉄の杖が、この時ゆらゆらと前へ出た。
 覚明が前へ出たのである。
 その覚明がうめくように云った。
「内陣の秘密を洩らす者は、肉親といえども許されない! 洩らしたな浪江! 聞いたな茅野雄! ……娘ではないぞ! 甥でもない! 教法の敵だ! おのれ許そうか! ……生かしては置けぬ! 犬のようにくたばれ!」
 ジリジリジリジリと前へ進んだ。
 が、また讃歌が聞こえてきた。

※(歌記号、1-3-28)唯一なる神
許したもう
信じて疑わぬ
我らのみを。

「聞け!」と、覚明はまた進んだ。
「あの歌を聞け! あの歌を聞け! 疑わぬ者のみが許されるのだ! ……おのれらよくも疑がったな! よしや盗んだ品であろうと、よしやその品が片輪であろうと、疑がわぬ者には力なのだ! あばくことがあろうか! あばくことこそ罪だ! 死ね!」と、鉄の杖が振り下ろされた。

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