神殿の中の物?
「そういうものでござるかな」
茅野雄はうるさそうにすげなく云った。
が、弦四郎は云いつづけた。
「親戚の一方が出世をすると、他の一方が嫉妬をする。親戚の一方が零落すると、他の親戚は寄りつかない。競争心の烈しいもので。さよう親戚というものはな」
「他人同志でも同じでござろう」
「なまじいに血潮が通っているだけ、愛憎は強うございますよ。さようさよう親戚の方が」
「兄弟などは親戚中でも、特に血の濃いものでござるが『兄弟垣にせめげども、外その侮りを防ぐ』と云って、真実仲よくしていますがな」
「が、一旦垣の中を覗くと、他人同志では見られないような、財産争いというような、深刻な争いがありますようで」
「が、幸い我らには――さよう、浪江殿と拙者とには――いや拙者と伯父一族とには、そのような争いはありませぬよ」
「御意!」と、弦四郎は道化た調子で云った。
「だからこそ拙者申しましたので、貴殿と浪江殿とは恋人かのように、大変お仲がよろしいとな」
「御意!」
今度は茅野雄が云った。
「大変お仲がよろしゅうござる。その上に貴殿というような、おせっかいな人物が現われて、恋人らしい恋人らしいと、はたから大袈裟にけしかけなどしたら、事実恋仲になろうもしれない」
「よい観察! その通りでござる」
弦四郎はこう云うと憎々しそうにした。
「が、永遠の処女として、丹生川平の郷民達から、愛せられ敬まわれ慕われている、浪江殿を貴殿が手に入れられたら、郷民達は怒るでござろう」
「さようかな」
と、茅野雄であったが、軽蔑したように軽く受けた。
「郷民達が怒る前に、貴殿が怒るでございましょうよ」
「…………」
「と云うのは貴殿こそ浪江殿に対して、恋心を寄せておられるからで」
これには弦四郎も鼻白んだようであったが、負けてはいなかった。
「いかにも某浪江殿を、深く心に愛しております。覚明殿にも打ち明けてござる。と、覚明殿仰せられてござる。『白河戸郷を滅ぼしたならば、浪江を貴殿に差し上げましょう』とな」
「ほう」と、茅野雄はあざけるように云った。
「覚明殿が許されても、肝心の本人の浪江殿が、はたして貴殿へ行きますかな?」
するとその時まで沈黙して、次第に闘争的感情をつのらせ、云い合っている二人の武士の、その言い争いを心苦しそうに、眉をひそめて聞いていた浪江が、優しい性質を裏切ったような、強い意志的の口調で云った。
「妾は品物ではございません。妾は人間でございます。妾は妾の愛する人を、妾の心で選びますよ!」
で、茅野雄も弦四郎も白けて、しばらくの間は無言でいた。
ここは小川の岸であって、突羽根草の花や天女花の花や、夏水仙の花が咲いていた。小川には水草がゆるやかに流れ、上を蔽うている林の木には、枝や葉の隙から射し落ちて来る日の光に水面は斑をなして輝き、底に転がっている石の形や、水中を泳いで行き来している小魚の姿を浮き出させていた。
一筋の日光が落ちかかって、首を下げている浪江の頸の、後れ毛を艶々しく光らせていたが、いたいたしいものに見えなされた。
そういう浪江と寄り添うようにして、腰をかけている茅野雄の大小の、柄の辺りにも日が射していて、鍔をキラキラと光らせていた。
その前に立っている弦四郎の態度の、毒々しくあせっていることは! 両足を左右にうんと踏ん張り、胸へ両腕を組んでいる。
と、そういう弦四郎であったが、にわかに磊落に哄笑した。
「アッハッハッ、ごもっとも千万! 浪江殿の婿様でござるゆえ、浪江殿が自身で選ばれるのが、当然至極でございますとも。……そうなると拙者は方針を変えて、慾の方へ走って行くでござろう」
「慾? なるほど! どんな慾やら?」
茅野雄には意味が解らないようであった。
「慾は慾なりでございますよ」
こう云う弦四郎は眼を走らせて、遥かの彼方に森林に蔽われ、頂きだけを出している、洞窟のある岩の山を、意味ありげに眺めやった。
「あそこの洞窟の中にある、神殿の内陣へまかり越し、値打ちあるものをいただくという慾で」
この意味も茅野雄には解らなかったらしい。
「神殿の内陣にありますかな? そのように値打ちのある品物が!」
「馬鹿な!」と、弦四郎は喝するように云った。
「貴殿も承知しておられるくせに」
「拙者は知らぬよ!」とブッキラ棒であった。
茅野雄はブッキラ棒に云い切った。
しかし弦四郎は嘲けるように云った。
「巫女が貴殿に予言された筈で。山岳へおいでなさりませ、何か得られるでございましょうとな! ……その何かがあの神殿の、内陣にあるのでございますよ! 得ようと思って来られたのでござろう! さよう、ここへ、丹生川平へ!」
「また出ましたな、巫女という言葉が! が、拙者は巫女の云ったことなど。……」
茅野雄がすっかり云い切らないうちに、しかし弦四郎は歩き出した。
「内陣の中の品物についても、貴殿と競争をするように、いずれはなるでござりましょうよ。どっちが先に手に入れるか? こいつ面白い賭事でござる。……勝つには是非とも白河戸郷を、何より滅ぼさなければならないようで。……何故? 曰くさ! 覚明殿がだ、拙者へこのように云ったからでござる。白河戸郷を滅ぼしたならば、神殿の内陣へ入れてあげましょうと! ……入ったが最後掴んでみせる。……で、貴殿にも心を巡らされ、白河戸郷を滅ぼすような、うまい策略をお立てなされ!」
云い捨ると弦四郎は行ってしまった。
茅野雄は後を見送ったが、心の中で呟いた。
(ああ云われると俺といえども、内陣の中へ入って行って、何が内陣に置かれてあるのか、ちょっと調べて見たくなった)
星月夜ではあったけれど、森に蔽われている丹生川平は、この夜もほとんど闇であった。
神殿が設けられているという、岩山の辺りはわけても暗く、人が歩いていたところで、全然姿はわかりそうもなかった。
そういう境地を人の足音が、岩山の方へ辿っていた。
足音の主は宮川茅野雄で(何が内陣に置かれてあるか、ちょっと調べて見たくなった)――この心持が茅野雄を猟って、今や歩ませていたのであった。
古沼の方に燈火が見えた。病人達が古沼の水で、水垢離を取っているのであろう。
どことも知れない藪の陰から、低くはあるが大勢の男女が、合唱している声が聞こえた。
病人達が唄っているのであろう。
が、神聖の地域として、教主の宮川覚明が、許さない限りは寄り付くことの出来ない、この岩山の洞窟の入り口――そこの辺りには人気がなくて、森閑として寂しかった。
茅野雄は洞窟の入り口まで来た。
(いずれは番人がついていて、承知して入れてはくれないだろう。が、ともかくも様子だけでも見よう)
茅野雄はこういう心持から、この夜一人でこっそりと、ここまで辿って来たのであった。
さて、洞窟の前まで来た。
茅野雄は入り口から覗いて見た。暗い暗いただ暗い! 恐らく神殿の設けられてある洞窟内の奥までには、幾個かの門や番所があり、道とて曲がりくねっていて、容易に行けそうには思われなかった。
(行ける所まで行ってみよう)
で、茅野雄は入り口へ入った。
が、その時背後にあたって、ゾッとするような感じを感じた。
と、思う間もあらばこそであった。数人の人間が殺到して来た。
「…………」
無言で洞窟の入り口から、外へ飛び出した宮川茅野雄は、これも無言で切り込んで来た、数人の人間の真っ先の一人へ、ガッとばかりに体あたりをくれて、仆れるところを横へ逸れ、木立の一本へ隠れようとした。
意外! そこにも敵がいた。
閃めく刀光! 切って来た。
鏘然! 音だ! 合した音だ!
白皓々
切って来た鋭い敵の刀を、抜き合わせて茅野雄が払ったのであった。
茅野雄は巡った! 木立を巡った。もう一本の木立へ来た。
刀光! 意外! 敵がいた! 閃めかして茅野雄へ切ってかかった。
また太刀音! が、しかしだ! 既に茅野雄はこの時には、身を翻えして遁れていた。
この間も茅野雄は考えた。
(信者なら声をかけるはずだ! 「神殿を荒らす背教者でござるぞ! 出合え! 方々!」――と、こんなように! ……ところがこいつは黙っている。……何者だろう? 何者だろう? うむ、五人だな! おッ、来おる!)
闇を一層に闇にして、五人の人影が塊まって、迫って来るのが幽かに見えた。
と、その次に起こったことは、数合の太刀音のしたことと、一人の人影が地上へ仆れ、仆れながら何かを投げたことと、その人影が起き上った時、一人の男が唸り声をあげて、ドッと地上へ仆れたことと、仆れた人間を切り刻もうとして、五人の人影が飛びかかったことと、洞窟の入り口へ光が射して、すぐに一点龕燈の光が、闇へ花のように浮かび出たことと、全裸体の乙女がその龕燈を捧げて、悩ましそうな眼付きをして、投げられた丸太に足を打たれ、地上へ仆れている茅野雄の姿と、茅野雄を切って刻もうとして、醍醐弦四郎と彼の部下の、半田伊十郎と他五人とが、茅野雄の周囲に集まっているのを、順々に見廻したこととであった。
「浪江殿ではござらぬか
」
「……その姿は? ……白皓々!」
茅野雄と弦四郎とは同時に云った。
それから数日後のことであった。三挺の駕籠が前後して、花の曠野へ現われた。
曠野へ駕籠が三挺出て、すこしばかり先へ進み出した時、もう一挺の駕籠が出て、三挺の駕籠へ追いついた。
数日前に萩村の駅の、柏屋という旅籠屋から、乗り出した駕籠に相違ない。
では真っ先の駕籠にいるのは、いわれぬ威厳を持ったところの、高貴な身分の若武士であろうし、その次の駕籠にいる者は、松平碩寿翁その人であろうし、その次の二挺の駕籠にいるのは、身分に見当の付かないような、小気味の悪い老人と、若い美しい娘とであろう。
さてこうして四挺の駕籠が、丹生川平と白河戸郷とを、連絡している花の曠野へ、同時に姿を現わした。どっちかの郷へ行かなければなるまい。
と、はたして四挺の駕籠は、白河戸郷の方角へ向かって、ゆるゆると歩みを進ませて行った。
と云うよりも真っ先の駕籠が、白河戸郷の方角を目ざして、ゆるゆるとして進んで行くので、碩寿翁の乗っているもう一挺の駕籠が、その駕籠についてその方へ進み、碩寿翁の乗っているその駕籠が、その方へ進んで行くところから、それをつけてその次の二挺の駕籠が、その方へ進んで行くのだと、こう云った方がよさそうであった。
進み進んで四挺の駕籠が、曠野から姿を消した時、白河戸郷の盆地の上の、丘の一所へ現われた。
そこから姿の消えた時には、盆地の坂を下っていた。
が、そうして四挺の駕籠が、白河戸郷へ到着するや、幾つかの事件が行なわれた。
衆を集める鐘の音が、回教寺院めいた建物から響くと、耕地からも往来からも家々からも、居酒屋からも、花園からも、大人や子供や男や女が、一度に鬨を上げて集まって来て、四挺の駕籠を取り巻いてしまった。
「誰だ誰だ! 何者だ!」
「神域へ無断で入って来た! 追い払ってしまえ! 虐殺してしまえ!」
「とにかく将監様へお知らせしろ!」
「どんな奴が駕籠に乗っているのだ! 駕籠の戸をあけて引きずり出せ!」
郷民達が声々に喚いた。
と、その時一人の老人が、幾人かの郷民に囲繞されて、四挺の駕籠の方へ近寄って来たが、
「拙者は白河戸将監でござる。白河戸郷の長でござる。何用あって参られたか?」
こう四挺の駕籠に向かって云った。
と、その声に応じて一挺の駕籠から、一ツ橋慶正卿が悠々と現われ、もう一挺の駕籠から碩寿翁が現われ、もう二挺の駕籠から老人と美女――他ならぬ刑部老人と、巫女の千賀子とが現われた。
そうして一ツ橋慶正卿が、何やら将監へ囁いた。
と、形勢が一変した。
郷民達が慇懃になり、一度に揃って慶正卿へ、ひざまずいて頭を下げたりした。将監においても丁寧になり、恭しく慶正卿に一礼し、それから自身が先頭に立って、回教寺院めいた建物の側の、一宇の屋敷へ案内した。それは将監の屋敷らしかった。
ところで碩寿翁と刑部老人と、巫女の千賀子とはどうしたかというに、これも将監に案内されて、慶正卿につづいて将監の屋敷へ、同じく招待されたのであった。
で、その後は白河戸郷は、以前ながらの平和に帰ったが、その平和には活気があって、明るさを加えたようであった。
これに反して丹生川平の方は、陰鬱の度を加えて来た。
わけても陰鬱になったのは、宮川茅野雄その人であって、ある日人目を避けながら、森林の中を浪江と一諸に、話をしながら歩いていた。
「あれは何事でございますか! 若い乙女の身をもって、一糸もまとわぬ全裸体で、あのような所におられましたのは?」
「止むを得なかったからでございます。……それにあの時ばかりでなく、従来もああだったのでございます」
「尚よくないではございませんか。何のためにあんなことをなされるので?」
「お父上がせよと仰言いますので」
「私には伯父上の、覚明殿が?」
「そうして丹生川平から申せば、祭司であり長である怖い方から」
病める人々
浪江の声は悲しそうであり、浪江の態度はおどおどしていた。
が、茅野雄は突っ込んで訊ねた。
「どういう利益がありますので? あなたがあのように裸体になれば?」
「はい、信者が喜びますそうで」
「信者? ふうむ、業病人達が?」
「はい、さようでございます。諸国から無数に集まって来た、業病人達でございます」
「何をあなたはなされるので? その不快な業病人達の前で?」
「ただ現われるのでございます。美しい清浄な女として。……」
「が、私には解らない! どうにも私には解らない!」
すると今度は浪江が訊ねた。
「それにしても、あなた様には何の目的で、あの晩あのような場所へ参って、あのようなことをなさいましたので?」
「内陣の様子を見ようものと、忍んで行ったのでございますよ」
「でも父上からあなた様には、止められているはずではございませんか。内陣を見てはいけないと」
「さよう、ですからより一層に、内陣が見たかったのでございますよ」
「好奇心からでございましょうね?」
「好奇心からでございますとも」
「でも好奇心は好奇心のままで、うっちゃってお置きなさいました方が、よろしいようにございます。……好奇心は好奇心をとげた時に、値打を失うでございましょうから」
「値打を失なってしまいたいために、好奇心というものは強い力で、人間に逼るものでございますよ。好奇心は力でございます」
森林の底と云ってもよかろう。特に薄暗い所へ来た。杉だの桧だの
[#「
」は底本では「撫」]だの欅だのの、喬木ばかりが生い茂っていて、ほとんど日の光を通さなかった。で、歩いて行く茅野雄と浪江との、姿さえぼけて見えるほどであった。
「伯父上はご立腹のようですな」
巨大な楠の木の裾を巡り、行く手に黒くよどんで見える、古沼の方へ歩きながら、こう茅野雄は苦痛らしく云った。
そういう茅野雄と肩を並べながら、足に引っかかる蔓草や落ち葉を、踏み踏み歩きながら浪江は云った。
「内陣を見られるということが、お父様にはこの上もなく、不愉快なのでございますので、それをご覧になろうとして、深夜に洞窟へ人に知らさず、こっそり行かれたあなた様を、怒っているのでございますよ」
「私にこの土地から立ち去るようにと、伯父上には今日仰せられました」
「…………」
「が、それにしても内陣には、何があるのでございましょうかな?」
「…………」
「醍醐弦四郎に対しましても、伯父上にはこの土地を立ち去るようにと、厳命したようでございますな」
「でも、弦四郎様は申されましたそうで『こっそり内陣へ入り込もうとした、宮川氏を入れまいとして、あの晩私や私の部下で、宮川氏を遮りました。功こそあれ罪はないはずで。立ち去れとは不当でございましょうよ』と」
「ナーニ、そのくせ醍醐弦四郎めも、あの晩内陣へ入り込もうとして、洞窟の入り口まで行っていましたので。そこへ私が参りましたので、競争相手を斃すつもりで、この私へあのように、切ってかかったのでございますよ」
二人は尚も彷徨って行った。
と、一所から声々が聞こえた。
木立がそこだけ隙をなして、日光の射している丘があったが、そこに無数の業病人達がいて、話をし合っているのであった。
茅野雄と浪江とは隙かして見た。
顔に白布をかけている者、松葉杖を脇の下へかっている者、一本しかない一本の腕で、胸の辺りをガリガリと掻いている者、膝から両脚がもげているので、歩くことが出来ずに這い廻っている者、髪の毛が残らず抜けたために、老婆のように見える若い女、骨なしの子供、せむしの老人――いずれも人の世の惨苦者であったが、信仰を失ってはいないと見えて、その動作にも話しぶりにも、穏かな沈着いたところがあった。
せむしの老人が体を延ばして、石楠花の花を折ろうとしたが、どうにも身長が届かなかったので、人々はドッと声を上げて笑った。とは云え笑ったそういう声にも、軽蔑らしい響きなどはなかった。
笑い声が高く大きかったからか、小鳥の群が棹をなして、日光の明るいそこの空間を、斜めに矢のように翔けて通った。
「幸福そうでございますな」
ふと茅野雄は浪江へ云った。
「幸福なのでございますよ」
こう浪江は答えはしたが、苦しそうなところが声にあった。
「偽瞞であろうとカラクリであろうと、それが信じられているうちは、幸福なのでございますよ。あの可哀そうな業病人達は」
(偽瞞? カラクリ? 何のことだろう?)
茅野雄には浪江の云った言葉が、審しいものに思われた。
(これもやっぱり洞窟の中の、内陣に置いてある何らかの物と、関係のある言葉に相違ない)
で、茅野雄は押し強く訊いた。
「浪江殿、お話しくださるまいか。内陣には何がありますので?」
「…………」
浪江は返辞はしなかったが、云いたいと努力しているようであった。
二人は宛なしに足を運んだ。
古沼の岸を巡って越し、灌木の多い境地へ出た。
と、その時人の足音が、ひそやかに二人の背後の方でした。
しかし二人には解らなかった[#「解らなかった」は底本では「解らなった」]。
不意に浪江が苦しそうに云った。
「申し上げることにいたします。どなたかにお話しいたしませねば、妾良心の苦しさに、息詰まってしまうのでございます。……あの内陣にあるものは、盗んで来た品物でございます。……しかも片輪なのでございます!」
「浪江!」と、その時鋭い声が、いや、幽鬼的の兇暴の声が、背後にあたって響き渡った。
同時に風を切る音がした。
「あれ!」
「伯父上!」
ガラガラガラ!
体は長身、髪は切り下げ、道服めいた衣裳を着た、一人の老人が鉄の杖を、両手で頭上に振り冠り、怒りと憎しみとで顔を燃やし、水銀のようにギラギラと光る、鋭い眼で、一所を睨みながら、あたかも鬼のように立っていた。
外ならぬ宮川覚明であった。
そういう覚明から二間ほど離れた、桧の大木の背後の辺りに、一個の群像が顫えながら、覚明を見詰めて、立っていた。
覚明が背後から鉄の杖で、浪江を撲殺しようとしたのを、早くも気勢で察した茅野雄が、刹那に浪江を引っ抱え、瞬間に飛び退いて難を遁れ、いまだに浪江を引っ抱えたままで、立っているところの姿なのであった。
寂然とした間があった。
向かい合った三人の空間を、病葉が揺れながら一葉二葉落ちた。
と、讃歌が聞こえてきた。

唯一なる神
みそなわし給う
病める我らを
慈悲の眼をもて。
丘の上の大勢の業病人達が、歌っている讃歌に相違なかった。
宙に上っている鉄の杖が、この時ゆらゆらと前へ出た。
覚明が前へ出たのである。
その覚明が呻くように云った。
「内陣の秘密を洩らす者は、肉親といえども許されない! 洩らしたな浪江! 聞いたな茅野雄! ……娘ではないぞ! 甥でもない! 教法の敵だ! おのれ許そうか! ……生かしては置けぬ! 犬のように死ばれ!」
ジリジリジリジリと前へ進んだ。
が、また讃歌が聞こえてきた。

唯一なる神
許したもう
信じて疑わぬ
我らのみを。
「聞け!」と、覚明はまた進んだ。
「あの歌を聞け! あの歌を聞け! 疑わぬ者のみが許されるのだ! ……おのれらよくも疑がったな! よしや盗んだ品であろうと、よしやその品が片輪であろうと、疑がわぬ者には力なのだ! あばくことがあろうか! あばくことこそ罪だ! 死ね!」と、鉄の杖が振り下ろされた。
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