颯と一揮
(あのお方があんな所におられようとは。……俺はとうとう感付かれてしまった! ……俺に恐ろしいのはあのお方ばかりだ。……俺は邸へは帰られない。俺は体を隠さなければならない。……あのお方があんな所におられようとは。いやいやこれは当然かも知れない。……あのお方はああいうお方なのだから。……不正な所へも現われるし、正しい所へも現われる。貧しい所へも現われれば、富んだところへも現われる。そうして「状態」をひっくり返す)
露路口で立ち止まった碩寿翁は、こう考えて戦慄したが、そういう恐怖よりもさらに一層の、好奇心が胸へ湧き上った。で、手に持っていた包み物の、包みをグルグルと解きほぐし、現われた蒔絵の箱の蓋を、月に向かってパッと取った。と一道の鯖色の光が、月の光を奪うばかりに、燦然としてほとばしり出たが、ほんの一瞬間に消えてしまった。碩寿翁が箱の蓋を冠せたからである。
「おおこの光に比べては、名誉も身分も、財産も生命さえも劣って見える。……あれだ! たしかに! 探していたあれだ!」
感動が著しかったためなのであろう、碩寿翁はガタガタと顫え出した。
が、その次の瞬間に、碩寿翁を驚かせたものがあった。一本の腕が背後から延びて、蒔絵の箱を掴んだからである。
とたんに活然と音がして、白い物が月光に躍り上り、すぐに地に落ちてころがった。
抜き討ちに切りつけた碩寿翁の太刀に、御幣の柄が真ん中から二つに切られ、その先が躍り上って落ちたのであった。
露路口に立っている女があった。白の行衣に高足駄をはき、胸に円鏡を光らせてかけ、手に御幣の切られたのを持って、それを頭上で左右に振って、鋭い声で喚いている。
勘解由家の当主の千賀子であった。
「返せ返せ持っている物を返せ! 久しく尋ねていた我が家の物だ! それの一つだ、返せ返せ! ……刑部殿々々々、お出合いくだされ! あなたにとっても大切の物が、見付かりましてござりますぞ! ……得体の知れない老人が、持って立ち去ろうといたします! ……お出合いくだされ、お出合いくだされ! ……あッ、切り込んで参ります! 妾は殺されそうでござります! お出合いくだされ! お助けくだされ!」
「黙れ!」と碩寿翁は叱
した。
「汝こそ誰だ、不届きの女め! 拙者の持ち物を取ろうとする! ……うむ、うむ、うむ、汝もそうか! 汝もこいつを探している一人か! ……では許されぬ! 助けはしない! ……くたばれ!」と、毒々しく食らわせたが、一躍すると颯と切った。
辛くもひっ外した巫女の千賀子は、御幣を尚も頭上で振ったが、
「なんの汝に! 切られてなろうか! なんの汝に! 取られてなろうか! ……返せ返せ、我が家の物だ! ……刑部殿、刑部殿、刑部殿!」
するとその声が聞こえたのであろう、露路の奥から応ずる声がした。
「おお千賀子殿か、何事でござる!」
つづいて走って来る足の音がしたが、刑部老人が来るのでもあろう。道服めいた衣裳を着て、払子を持った身長の高い翁の、古物商の刑部が露路を走って、露路の口まで出て来た時には、しかし松平碩寿翁は、その辺りにはいなかった。月の光を青々と刎ねて、数間の先を走っていた。
「あッ、ありゃア碩寿翁様だ! ……え、あの方があれを持って? ……ふうむ、さようか、それはそれは。いやそれなら大事ない! 私に取り返す策がある。……が、待てよ、こいつはいけない! ……大変だ大変だかえって大変だ!」
それから三日の日が経った時に、旅よそおいをした一人の武士が、飛騨の峠路を辿っていた。
ほかならぬ宮川茅野雄であった。
巨木が鬱々と繁っていて、峠の路は薄暗く、山蛭などが落ちて来て、気味の悪さも一通りでなかった。と、その時唸りをなして、一本の征矢が飛んで来たが、杉の老幹の一所へ立った。矢文と見えて紙が巻いてある。
「はてな?」と、立ち止まった宮川茅野雄は、手を延ばすと文をほぐし取ったが、開いて読むと血相を変えた。
「醍醐弦四郎お約束通り、貴殿を付け狙い致してござる」
矢文に書いてあった文字である。
で、茅野雄は顔色を変えて、突っ立ったままで考え込んだ。
思い出されるのは、いつぞやの晩に、醍醐弦四郎という浪人者に、突然切ってかかられたあげく、
「あの巫女が占いをいたした以上は貴殿にはほとんど間違いなく、その『何か』を手に入れようとして、努力をなさるようになりましょう。と、拙者とは必然的に、競争をすることになりましょう。もしもそのようになった際にはいつも貴殿の生命を巡って、拙者の刃のあるということを、覚悟をなされておいでなさるがよろしい」と、このように云った言葉であった。
(それでは醍醐弦四郎という男は、俺と敵対をするために、このように飛騨の山中まで後をつけて来て矢文を射て、俺を脅迫しているのか)
茅野雄は何となく肌寒くなった。
(どうして俺が江戸を立って、飛騨の山中へ入り込んだことを、あの男は探り知ったのであろう?)
これが茅野雄には不思議であった。
(しかし俺は巫女の占いを奉じて、飛騨の山中へ来たのではない。叔父の一族に逢おうとして、飛騨の山中へ入り込んだのだ)
とはいえ結果から云う時には、
「山岳へおいでなさりませ、何か得られるでございましょう」と、そう云った巫女の言葉の、占い通りにはなっていた。
(しかし俺に巫女が占ってくれた「何か」がはたして何であるか、それさえ知ってはいないのだ)
――で、醍醐弦四郎などに、敵対行動を取られるという、そういう理由はないものと、そう思わざるを得なかった。
(そうは思うものの醍醐弦四郎に、現在このように矢文を付けられ、あからさまなる敵対行動を、約束された上からは、用心しなければならないだろう)
で、茅野雄は四方を見た。
六月の山中の美しさは、緑葉と花木とに装われて、類い少なく見事であった。椎の花が咲いている。石斛の花が咲いている。槐の花が咲いている。そうして厚朴の花が咲いている。鹿が断崖の頂きを駆け、鷹が松林で啼いている。鵙が木の枝で叫んでいるかと思うと、鶇が藪でさえずっている。
四方八方険山であって、一所に滝が落ちていた。その滝のまわりを廻りながら、啼いているのは何の鳥であろう? 数十羽群れた岩燕であった。
高山の城下までつづいているはずの、峠路とも云えない細い道は、足の爪先からやまがたをなして、曲がりくねって延びていた。昼の日があたっているからであろう。道の小石や大石が、キラキラと所々白く光った。
しかし、弦四郎と思われるような、人の姿は見えなかった。
(不思議だな、どうしたのであろう?)
宮川茅野雄は首を捻ったが、ややあって苦い笑いをもらした。
(何も近くにいるのなら、矢文を射てよこすはずはない。遠くに隠れているのだろう。そこから矢文を射てよこしたのだ。そうしてそこから窺っているのだ)
それにしても戦国の時代ではなし、矢文を射ってよこすとは、すこし古風に過ぎるようだ。――こう思って茅野雄はおかしかった。
(弓矢で人を嚇すなんて、今時なら山賊のやることだがなあ)
考えていたところで仕方がない。用心しいしい進んで行くことにした。
で、茅野雄は歩き出した。
裾べり野袴に菅の笠、柄袋をかけた細身の大小、あられ小紋の手甲に脚絆、――旅装いは尋常であった。
峠の路は歩きにくい、野茨が野袴の裾を引いたり、崖から落ちて来る泉の水が、峠の道に溢れ出て、膝に浸くまでに溜っていたりした。
高山の城下へ着くまでには、まだまだ十里はあるだろう。それまでに人家がなかろうものなら、野宿をしなければならないだろう。
(急がなければならない、急がなければならない)
で、茅野雄は足を早めた。
こうして二里あまりも来ただろうか、峠の道が丁寧にも三つに別れた地点まで来た。
(さあ、どの道を行ったものであろうか、ちょっとこれは困ったことになったぞ)
で、茅野雄は足を止めた。
不思議な老樵夫
一本の道は少しく広く、他の二本の道は狭かった。
(城下へ通う道なのだから、相当に広い道でなければならない――この広い道がそうなんだろう。高山へ通っている道なんだろう)
こう茅野雄は考えて、その広い道へ足を入れた。
と、その時一人の老人が、狭い方の道の一本から、ノッソリと姿を現わした。かるさんを穿いて筒袖を着て、樵夫と見えて背中に薪木をしょって、黒木の杖をついていた。
「ああこれ爺ちょっと訊きたい」
茅野雄はそれと見てとって、確かめて見ようと思ったのだろう。後戻りをして声をかけた。
「高山のお城下へ参るには、この道を参ってよろしかろうかな?」
こう云って広い方の道を指した。
と、老樵夫は冠り物を取って、コツンと一つ頭をさげたが、つくづくと茅野雄の顔を見た。
「へい、高山へいらっしゃいますので」
「さよう、高山へ参る者だ。この道を参ってよろしかろうかな?」
「…………」
どうしたのか老樵夫は物を云わないで、何か物でも探るように、茅野雄の顔を見守った。
大きい眼、高い鼻、田舎者らしくない薄い唇、頬の肉がたっぷりと垂れていて、わずかではあったが品位があった。年格好は五十五六か、顔の色は赧く日に焼けていたが、かえってそれが健康そうであり、額や頤に皺はあったが、野卑なところは持っていなかった。――これが老樵夫の風貌であって、注意して観察を下したならば、単なる山間の住民などではなく、由緒ある人間だということに、感付くことが出来たであろう。
と、老樵夫は意味ありそうに笑った。
「ハッハッハッ、異いますよ」
「異う? そうか、この道ではないのか」
「へいへいこの道ではございません」
「しかしこの道が広いようだが。お城下へ通っている道とすれば、この道以外にはなさそうだが」
すると老樵夫はまた笑ったが、意味ありそうに次のように云った。
「尊いお文にございます。天国への道は細く嶮しく、地獄への道は広うござるとな。――それ、この一番狭い道が、あなた様の道でございますよ」
(何だか風変わりのことを云う爺だ。まるでお説教でもしているようだ)
茅野雄は笑止に思いはしたが、
「ほほうさようか、この細い道か。この道を真直ぐに辿って行けば、高山のお城下へ出られるのだな」
しかし老樵夫は同じような事を、慇懃に繰り返すばかりであった。
「それ、この一番狭い道が、あなた様の道でございますよ」
「そうか」と、茅野雄は会釈をした。
「お前に訊ねてよいことをした。お前へ道を訊かなかろうものなら、すんでに別の道へ行くところだった。ではこの道から参ることにしよう」
で、茅野雄は歩き出したが、すぐに丈延びた雑草に蔽われ、その姿が見えなくなった。と、老樵夫は茅野雄の行った後を、意味ありそうに見送ったが、
「武道も学問もおありなさる、立派なお武家に相違なさそうだ。……郷民たちは喜ぶだろう。……きっと歓迎するだろう。……が、云ってみれば人身御供さ。お武家様にはご迷惑かもしれない。……とはいえ俺達にとって見ればなあ」
こう呟きの声を洩らした。
夏の日が熱く照っていて、ムッとするような草いきれがした。と、一匹の青大将が、草むらから姿を現わしたが、老樵夫を見ても逃げようとはせず、道を横切って姿を消した。
「どれ、そろそろ行くとしようか」
で、老樵夫は歩き出したが、ものの二間とは行かなかったろう、旅装いをした五人の武士が、茅野雄の上って来た同じ道から、上って来るのに邂逅った。
「これこれ」と、一人の武士が云った。
「ちょっと物を訊ねたい」
猟夫の使う半弓を持った、それは醍醐弦四郎であったが、さも横柄に言葉をつづけた。
「旅の侍が通ったはずだ。ここに三本の道がある。どの道を行ったか教えてくれ」
「へいへい」と云ったが首を下げて、老樵夫は弦四郎の笠の中を覗いた。人相を通してこの侍の人物を知ろうとするものらしい。しばらくの間は黙っていた。
その態度がどうやら弦四郎には、腹立たしいものに思われたらしい。癇癪声で怒鳴るように云った。
「当方の申すことが解らぬか。唖者かそれとも聾者なのか! ……では改めてもう一度訊く。――旅の侍が通った筈だ。ここに三本の道がある。どの道を侍は通って行ったな」
「へい」と老樵夫は決心したように云った。
「細い道を通って参りました」
「おおそうか、細い道を行ったか。が、細い道は二本ある。どっちの細い道を通って行ったな?」
「へい」と老樵夫は妙な笑い方をしたが、
「この細い道を通って参りました」
こう云って一本の道を指した。が、その道は茅野雄の通った、細い道とは異っていた。
しかし弦四郎には解るはずがなかった。
「おおそうか、この道を行ったか」
――で、ロクロク礼も云わず、四人の部下を従えて、その細い道を先へ進んだ。
そうしてこれも長く延びた芒に、間もなく蔽われて見えなくなった。
一旦隠れた青大将が、草むらから姿を現わしたが、また道を横切って、どこへともなく行ってしまった。
風の音がサラサラと草を渡り、日がまじまじと照っていて、四辺[#「四辺」は底本では「四辺り」]はひっそりと物寂しい。
と、高い笑い声がした。
老樵夫が上げた笑い声であった。
「ああいう悪いお侍さんはあっちの郷へやった方がいい。あっちの郷は乱されるだろうなあ」
(どうも恐ろしく歩きにくい道だ。天国へ行く道は狭くて嶮しいと、先刻の老樵夫がお談義をしてくれたが、高山のお城下へ行く道が、こんなに歩きにくいとは思わなかった)
もう夕暮が逼って来ていた。草には重く露が下りて、脚絆を通して脚を濡らし、道の左右に繁り合っている、巨大な年老いた木々の間から、夕日が砂金のように時々こぼれた。道は思い切った爪先上りで、胸を突きそうな所さえあった。大岩が行く手にころがっていて、それを巡って向こうへ出たところ、大沼が湛えてあったりもした。
老樵夫に逢った地点から、少なくも二里は歩いたはずだが、一つの人家にも逢わなかった。
(変だな)と茅野雄は思案した。
(道が異ったのではあるまいかな? お城下へ通じている道である以上は、本街道と云わなければならない。本街道なら本街道らしく、たとえまれまれであろうとも、人家が立っていなければならない)
ところが人家は一軒もない。
(おかしいな、おかしい)
しかし老樵夫がああ教えた以上は、やはり高山のお城下へ通う、本街道であるものと認めて、辿って行くべきが至当のようであった。
で、茅野雄は歩いて行った。
人間の不安や心配などに、なんの「時」が関わろうとしよう。間もなく夜となり夜が更けた。星の姿さえ見えないほどに樹木が厚く繁っている。で、四辺が真の闇となり歩こうにも、歩くことが出来なくなった。
(いよいよ野宿ということになった。どうも仕方がない野宿をしよう)
狼の襲来というようなことも、弦四郎の襲来というようなことも、もちろん心にはかかったけれども、それよりも山道を歩いて行って、断崖などを踏みそこなって、深い谿などへころがり落ちて、死んでしまうかもしれないという、そういう不安の方が茅野雄にとっては、緊急の不安であったので、野宿をすることに決心した。
(大岩の陰へでも寝ることにしよう)
で、手さぐりに探り出した。
と、その時遥か行く手の、高所の上から一点の火光が、木の間を通して見えて来た。
(はてな?)と、これは誰でも思う。茅野雄は怪しんで火光を見詰めた。
と、火光が下って来た。しかも火光は数を増した。二点! 三点! 五点! 十点!
……で、こっちへ近寄って来る。
(あの光は松火だ。山賊かな? それとも樵夫であろうか?)
どこへ?
そもその一団は何者なのであろう? その風采から調べなければならない。同勢はすべてで二十人であったが、筒袖に伊賀袴を穿いていて、腰に小刀を一本だけ帯び、切れ緒の草鞋をはいていた。で、風采から云う時は、大して変なものでもなかった。が、顔立ちには特色があった。と云うのは山間の住民などに見る、粗野で物慾的で殺伐で、ぐずぐずしたようなところがなくて、精神的の修養を経た、信仰深い人ばかりが持つ、霊的な顔立ちを備えているのである。
彼らは輿を担いでいた。白木と藤蔓とで作られた輿で、柄ばかりが黒木で出来ていた。四人の若者が担いでいる。どこか神輿めいたところがあって、何となく尊げに見受けられたが、一所に垂れている垂れ布の模様が、日本の織り物としてはかなり珍らしい。剣だの巻軸だの寺院だのの形で、充たされているのが異様であった。
と、この一団だが近づいて来て、茅野雄の前までやって来ると、予定の行動ででもあるかのように、足を止めて松火をかかげた。
そうでなくてさえ茅野雄にとっては、もの珍らしい一団であった。ましてや足を止められたのである。必然的に彼らを見た。
と、「おや!」という驚きの声が、茅野雄の口から飛び出した。
その一団の先頭に佇み、茅野雄を見ている老人があったが、昼間茅野雄に道を教えた、老樵夫その人であったからである。
と、老樵夫は腰をかがめたが、恭しく茅野雄へお辞儀した。
「お迎えに参りましてござります。ご案内いたすでござりましょう。どうぞ輿へお召しくださりませ」
(驚いたなア何ということだ。俺には訳が解らない)
茅野雄は老人へ云った。
「親切に道を教えてくれた、お前は先刻の老人ではないか。何と思ってこのようなことをするぞ?」
しかし老人は茅野雄の言葉へ、返辞をしようとはしなかった。
「お迎えに参りましたのでござります。ご案内いたすでござりましょう。どうぞ輿へお召しくださりませ」
こう繰り返して云うばかりであった。
「お前に迎えられる理由はないよ」
茅野雄は少しく腹立たしくなった。
「案内すると云うが、俺の行く先を知っているかな?」
老人の言葉は同じであった。
「お迎えに参りましてござります。ご案内いたすでござりましょう。どうぞ輿へお召しくださりませ」
「俺はな」と茅野雄は苦笑しながら云った。
「先刻は高山へ行くとは云ったが、ほんとうの行く先は高山ではないのだ。高山からさらに十里離れた……」
しかしこのように云って来て、不意に茅野雄は口を噤んだ。
(迎えに来たというからには、案内しようというからには、俺の行く先を知っていなければ嘘だ、……と云って知っているはずはない。よしよし一つからかってやろう)
で、茅野雄はわざと慇懃に云った。
「せっかくのお迎えでござるゆえ、遠慮なく輿に乗りまして、行く先までご案内をお願いしましょう。が、只今も申した通りに、貴殿方には拙者の行く先を、ご存じないように存じますよ。それともご存じでござりますかな? ご存じならば仰せられるがよろしい。ただしこれだけは申し上げる。と云うのは今も申しました通り、拙者の行く先は高山から、十里はなれた地点でござる。どこでござろうな? どこでござろうな?」
で、老人の答えを待った。
「はい」と老人はその言葉を聞くと、いくらか眉をひそめたようであったが、
「高山のお城下を中心にして、十里離れた地点と申しても、いろいろの里や郷があります。どの方角へ十里でござりましょうか」
(それ見ろ)と茅野雄は笑止に思った。
(お迎えに来たの案内しようのと、いいかげんのことを云っていながら、俺の行く先を知らないではないか。――どうやらこ奴らは悪者らしい)
しかし茅野雄は云うことにした。
「どの方角だか俺も知らぬ。ただし地名は丹生川平と云うよ」
――するとこれはどうしたのであろうか、老人の態度がにわかに変わって、一種の殺気を持って来た。
「丹生川平へおいでになる? どのようなご用でおいでになりますかな?」
「そこにの、俺の叔父がいるのだ」
「お名前は何と仰せられますかな?」
(何故こううるさく訊くのだろう?)
茅野雄は変な気持がしたが、
「叔父の名前か、宮川覚明というよ」と、一つの事件が起こった。
茅野雄のそう云った言葉を聞いて、老人が鬼のような兇悪な顔をつくり、従えて来た部下らしい十九人の者へ、何やら大声で喚いたかと思うと、十九人の若者が小刀を抜いて、死に物狂いの凄じさで、茅野雄へ切ってかかったことであった。輿も松火も投げ捨てられて、輿は微塵に破壊されたらしく、松火は消えて真の闇となった。
ダ、ダ、ダ、ダ、ダ――ッと物凄い足音! つづいて喚く声々が聞こえた。
「法敵の片割れだ! 生かして帰すな!」
「丹生川平へ走らせるな!」
「谷へ蹴落とせ! 切り刻んでしまえ!」
「いや引っ捕らえろ! 生贄にしろ!」
しかしそういう声々よりも、そういう声々の凄じい中を縫って、例の老人の錆びた太い声が、祈りでも上げているように、途切れ途切れではあったけれども、
「我が兄弟健在なれ! 勝利を神に祈れ! 教主マホメットの威徳を我らに体得せしめよ! 全幅の敬意を我らは捧ぐ! 唯一なる神よ! 謀叛人を許すなく、マホメットの使徒に行なわしめよ! 最も荘厳なる殺戮を! この者我らの敵にして、神を犯しマホメットを穢す! 嵐よ吹け! この者を倒せ! 豪雨よ降れ! この者を溺らせよ!」
と、木や岩に反響して聞こえてくるのが、一層に凄くすさまじかった。
思いも及ばなかった殺到に対して、いかに茅野雄が驚いたかは、説明をするにも及ばないであろう。
身を翻えすと飛びしさって、そこにあった老木の杉の幹を楯に、引き抜いた刀を脇構えに構え、しばらく様子をうかがった。
と云っても相手を見ることは出来ない。深山の暗夜であるからである。焔は消えたが余燼はあって、五六本の松火が地上に赤く、点々とくすぶってはいたけれど、光は空間へは届いていなかった。案内の知れない山中であった。諸所に大岩や灌木の叢や、仆れ木や地割れがあることであろう。飛び出して行って叩っ切ろうとしても、躓いて転がるのが精々であった。
(こ奴らは、一体何者なのであろう?)
老人の祈りめいた叫び声によって、マホメット教徒であるらしい――そういうことだけは思われた。
(丹生川平の叔父の一族を、敵として憎んでいるらしいが、どういう理由から憎むのであろう?)
すると不意に茅野雄の記憶の中へ、従妹の浪江から送り来された、書面の文句が甦えって来た。
(父も母も無事でございます。でも性質は変わりました。敵を持つようになりました。只今私達の一族は、苦境にあるのでございます。どうぞどうぞおいでくださいまして、私達一族の味方となって、私達をお助けくださいませ。――そうだ、こんなように書いてあった。その敵というのがこ奴らなのであろう)
「だが何故俺を殺そうとするのか?」
(俺が叔父達の一族だからであろう)
(俺にとってもこいつらは敵だ!)
眼の前の余燼を赤らめて、点々と見えていた松火の火が、この時にわかに消えてしまった。
松火の余燼の消えたのは、そこへ相手の敵の勢が集まって、足で踏み消したのであろう――と、直感した直感を手頼って、茅野雄は翻然と突き進んだ。声は掛けなかったが辛辣であった! 感覚的に横へ薙いだ。と、すぐに鋭い悲鳴が上って、人の仆れる物音がしたが、つづいて太刀音と喧号とが、嵐のように湧き起こった。そうして闇の一所に、その闇をいよいよ闇にするような、異様な渦巻が渦巻いたが、にわかに崩れて一方へ走った。
と、数間離れたところで、同じような渦巻が渦巻いて、またもや太刀音と喧号とが悲鳴と仆れる音とに雑って、同じく嵐のように湧き起こった。茅野雄が敵を切って位置を変えるごとに、執念深く敵が追い逼って、引っ包んで討ち取ろうとしているのであった。
同じようなことが繰り返されて、渦巻が崩れて一方へ走って、そっちへ渦巻が移って行った時に、谷へ石でも転落するような、ガラガラという音が響き渡った。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 下一页 尾页