お菊と京助
「それではお前を験すつもりで、少し無理なことを云いつけようかしら」
こう云いながら立ち上ったのは、松倉屋の女房のお菊であった。濃い眉毛に大きな眼に――その眼はいつも潤っていて、男の心をそそるような、艶きと媚びとを持っていた。――高慢らしい高い鼻に、軽薄らしい薄手の唇に――しかしそういう唇は、男の好色心を強く誘って、接吻を願わせるものである。――お菊の顔は美しかった。と云ってどこにも一点として、精神的のところはなくて、徹頭徹尾肉感的であった。
で、立ち上った立ち姿などにも、そういう肉感的のところがあった。発達した四肢、脂肪づいた体――乳房などは恐ろしく大きいのであろう、帯の上が円々と膨らんでいて、つい手を触れたくなりそうである。女の肉体は肩と頸足と、腰と脛との形によって、艶っぽくもなれば野暮ったくもなる。お菊の肩は低く垂れていて、腕が今にも脱けそうであった。頸足の白さと長さとは雌蕊を思わせるものがある。胴から腰への蜒り具合と来ては、ねばっこくてなだらかでS字形をしていて、爬虫類などの蜒り具合を、ともすると想わせるものがあった、で、どのような真面目な男でも、その腰の形を見せつけられたならば、溜息を吐かざるを得なくなるだろう。
はたしてキチンと膝を揃えて、敷き物も敷かずにかしこまっていた、手代の京助は悩ましそうに、こっそりと一つ溜息をしたが、周章て視線を腰から外らせた。と、京助は一層に悩ましい、溜息を吐かなければならないことになった。と云うのは立ち上った女房のお菊が、隣の部屋へ行こうとして、サラサラと足を運んだ時に、緋縮緬を纏った滑石のような脛が、裾からこぼれて見えたからである。
「ホー」とそこで溜息をしたが、京助は思わず手を上げた。苦しいほどにも蠱惑的の物を、うっかりと見た自分自身の眼を、急いで抑えようとしたのであった。が、中途で心が変わったのか、上げた手で忙しくぼんのくぼを撫でた。汗が流れていたからである。
しかし京助は幸福なのであった。
(何てお美しい奥様なのだろう。私は何よりも美しいものが好きだ。お本店へ務めて荷作りをしたり、物を持ってお顧客様へお使いをしたり、番頭さんに睨まれたり、丁稚に綽名を付けられたり、お三どんに意地悪くあたられることは、どうにも私の嗜好に合わない。お美しい奥様のお傍に仕えて、何くれとなくお世話をして、「京助や、この衣裳はどう?」「よくお似合いでござります」「京助や、この櫛はどう?」「まことにお立派でござります」「京助や、今日の髪はどう?」「お綺麗なお髪にござります」「京助や、下駄をお出し」「はい、揃えましてござります」「京助や、供をしておいで」「お供いたすでござりましょう」――などと何くれとなくお世話をするのが、私には大変好もしい。お蔭で指は細くもなり、滑らかにもなり白くもなった。節立った指などというものはどうにも私の嗜好に合わない)
その京助という若い手代は、どういう性質の男なのであろう?
決して悪人でないばかりか、正直で忠実で働き好きで、そうして綺麗好きの若者であった。ただ小心だということと、腕力のないということと、男性よりも女性を好んで、男性に対すると無口になるが、女性に対するとお喋舌りになって、活き活きとしてくるという、そういう欠点があるばかりであった。
で、自然と松倉屋の主人の、勘右衛門に対しては不機嫌となるが、勘右衛門の女房のお菊に対すると、よきお小姓となるのであった。
ところで最近に京助にとって、面白くないことが起こってきた。
旗本の次男の杉次郎という武士が、女王様のように崇拝をしている、奥様の心をたぶらかして、奥様の心を引っ張り寄せて、愛人としての位置を掴んだかのように、京助に感じられたことであった。
(あの杉次郎という若侍は、どうやら奥様を甘言でまるめて、お金や物品を持ち出すらしい)
これが京助には面白くなかった。
(それに奥様のお兄様だとかいう破落戸のような風儀の悪い、弁太とかいう男が出入りをしては、ずっと以前から、奥様の手から、いろいろの無心をしたようだが、この頃では一層に烈しくなったようだ)
これも京助には面白くなかった。
(どのように奥様にお金があっても、ご自分には財産はないはずだ。旦那様からのお手当でお暮らしなすっておられるはずだ。その旦那様だがこの頃になって、奥様のふしだらに感付かれたものか、昔よりもお手当を減らしたらしい。……で、奥様はご不如意らしい)
これも京助には心配であった。
京助は部屋を見廻して見た。
床の間に香炉が置いてあったが、いつもの香炉とは違うようであった。安物のように思われる。掛けてある掛け物も違うようであった。安物のように思われる。桃山時代の名手によって、描かれたとかいう六枚折りの屏風が、いつもは部屋に立てられてあったが、今は姿が見られなかった。異国製だとかいうビードロ細工の、旦那の自慢の燈籠があって、庭裏に向いた高い鴨居から、いつもキラビヤカに下っていたが、今はそれさえ見られなかった。
(そう云えば奥様の髪飾りなども、金目の物から一つ一つ、いつの間にか行衛が知れなくなった)
部屋の中をジロジロ見廻していた京助の優しい心配らしい眼が、自分の膝の上へ落ちた時に、また京助は溜息を洩らした。
(一体奥様という人は、奥様らしくないお方だ。お妾さんのようなところがある。でもそれは奥様がお悪いのではなくて、旦那様のやり口がお悪いからだ。本宅の方へ奥様を入れて、内所向きのことを一切合財、奥様にお任せしようとはせずに、本宅の方は古くからいる先の奥様の時代からの、年老の頑固のしみったれの、女中頭に切り盛りさせて、今度の奥様には手もつけさせない。こんな所へ寮を建てて、そこへ奥様を住まわせて、あてがい扶持をくれて飼って置かれる。……だから奥様にしてからが、お心が面白くないはずだ。で、ふしだらをなされたり、無駄使いなどをなされるのだ。……それにしてもこのようにお道具類が、眼に見えてなくなってしまっては、旦那様だとて不思議に思われて、何とか苦情を仰言られるだろう。……でも奥様なら大丈夫かもしれない。あのお美しいお顔で笑って、あのお上手な口前で喋舌って、丸めておしまいなさるだろう)
こう思うと京助は嬉しくなった。
(奥様はお偉い奥様はお偉い。それに旦那様は、疑がいながらも、奥様のお美しさには参っておられる)
で、京助は安心をして、今度は部屋の中を長閑そうに見た。
と、その京助の眼の前の襖が、向こう側の方からあけられて、さっき隣りの部屋へ入って行ったお菊が、手に小さな包物を持って、忍ぶようにこっちの部屋へ入って来たが、四辺に気でも配るように、オドツイた眼で部屋を見廻すと、京助の前にベタリと坐った。
「京助や」と云ったが嗄がれた声であった。
「これをね、急いで持って行っておくれ。ここにね」と云うと書面を出した。
「行き先の番地が書いてあるよ。で、すぐさま行っておくれ。途中で誰が何と云おうと、よしんば誰が止めようと、決してこれを渡したり、引っ返して来てはいけないよ。書面をお取り、包物をお取り! 急いで急いで急いでおいで」
「はい奥様」と手代の京助は、書面と包物とを受け取りはしたが、お菊の顔付きに不安なものがあって、その言葉つきにあわただしさがあって、全体に何となく不吉なものを、感じさせるものがあったので、飛び出して行く気にならなかった。
しかしお菊が怒ったような声で、こう続けさまに云ったので、京助は不安ながらも部屋を出た。
「云うことをお聞き! 行っておいで! お前は妾に云ったじゃアないか、どのような無理でも難題でも聞くと。……何でもありゃアしないのだよ。持って行って返辞を聞くだけだよ。そうそう何かを渡すかもしれない。大切に持って帰っておいで。……妾の云い付けを聞かなかろうものなら、お前は明日からお払い箱だよ」
――お前は明日からお払い箱だよ――この言葉ほど京助にとって、恐ろしい言葉はないのであった。
で、あわただしく部屋を出た。
が、すぐに邪魔がはいった。
門口を出て庭へ出て、門から往来へ駆け出そうとして、束になって咲いている木芙蓉の花の叢の側まで走って来た時に、
「京助!」と呼ぶ声が近くで聞こえて、
「これ、どこへいく? 持っている物は何だ!」と、続いて呼ぶ声が聞こえたからである。
で、京助は声の来た方を見た。
盆のようにも大きな顔には、鈎のような鼻が盛り上っているし、牛のようにも太い頸筋には静脈が紐のように蜒っている、半白ではあったがたっぷりとある髪を、太々しく髷に取り上げている、年の格好は六十前後であったが、血色がよくて肥えていて、皮膚に弛みがないところから五十歳ぐらいにしか思われない。松倉屋の主人の勘右衛門であった。勘右衛門がそう云って呼び止めたのであった。
と、見て取った手代の京助は、不機嫌らしい顔をしたが、不精々々に挨拶をした。
「へい、これは旦那様で。ちょっと出かけて参ります」
で、手に持った包み物を、胸へ大事そうに抱くようにしたが、云いすてて門の方へ行こうとした。
邪魔がはいる
「お待ち」と勘右衛門は迂散くさそうに云った。
「何だ何だ持っている物は?」
すると京助は首を振るようにしたが、
「さあ何でありましょうやら、とんと私は存じません」
「で、どこへ持って行くのだ」
いかにも昔は抜け荷買いなどを、お上の眼を盗んでやったらしい、鋭い、光の強い、兇暴らしい、不気味な巨眼で食い付くように、勘右衛門は京助が胸へ抱いている小さな包物を見詰めたが、
「ちょっとそいつを見せてくれ」と近寄りながら、手を延ばした。
が、京助はうべなおうとはしない。後ろへ二三歩さがったかと思うと、
「奥様からのご依頼の品で……持って参らなければなりません。大変お大事の品物のようで。……で、たとえ旦那様でも、奥様のお許しの出ないうちは、お眼にかけることは出来ません」
奥様の忠実なお小姓として、自ら任じている京助としては、こう云うより他はなかったようであった。
そうして京助の直感力からすれば、どうやら持っているこの包物は、奥様にとっては秘密な品で、旦那様のお眼にかけることを、欲していないもののように思われた。
(とにかく急いで出かけなければいけない)
で、京助は駆け出そうとした。
と、松倉屋勘右衛門であるが、いよいよ迂散くさく思ったものと見えて、京助の行く手へ素早く廻ると、両手を大きく左右へひろげた。
「奥の品物なら俺の品物だ! 見せないということがあるものか! ……どうも大きさがあれに似ている。さあさあ見せろ! 俺へ渡せ! 何だ貴様は手代ではないか! お前にとっては俺は主人だ! 主人の云い付けなら聞かなければなるまい! どうしても見せないと云うのなら、俺が腕ずくで取ってみせる!」
で、包物を両手で握った。
「旦那様、いけませんいけません!」
取られてたまるかというように、京助は、包物を益々しっかりと、両手で、胸へ抱きしめたが、
「泥棒! 泥棒!」と声を上げた。
胆を潰したのは勘右衛門であって、呆れたように眼を見張ったが、すぐに激怒に駆り立てられたらしい。
「泥棒だと
馬鹿者め! 何をほざくか! 奥の品物を見ようとするのだ! 奥の品物なら俺の物! 取って見たとて何が泥棒だ! ……ははあいよいよ怪しいわい! そうまでして俺に見せまいとする! そうだてっきりあの品物だ! これよこせ! これ見せろ! ……昨夜も昨夜だ、深夜に帰って来て、俺の言葉をごまかしてしまって、あるともないとも品物について、ハッキリした返事をしなかった。……で、今日は昼からやって来たのだ。……と、どうだろう手代をけしかけて、あいつをどこかへ持たせてやろうとする。……もう女房とは思わない! 俺を破滅へ落とし入れる、恐ろしい憎い悪党女だ! ……この京助めが、手前も手前だ! あくまでも拒むとは途方もない奴だ! よこせ! 馬鹿めが! こうしてやろう!」
突然パンパンという音がして、すぐに続いて悲鳴が起こった。
勘右衛門が平手で京助の頬を、二つがところ食らわせて置いて、包物をグイと引ったくったため、京助が悲鳴を上げたのである。
こうして、松倉屋勘右衛門は、包物を手中には入れたけれど、持ちつづけることは出来なかった。
いつの間にどこから来たのであろうか、一見して放蕩で無頼に見える、三十がらみの大男が、勘右衛門の側に突っ立ったが、顔立ちがお菊とよく似ていて、好男子であることには疑がいがなかった。左の眼の白味に星が入っていて、黒味へかかろうとしているのが、人相をいやらしいものにしている。濃い頬髯を剃ったばかりと見えて、その辺りが緑青でも塗ったようであった。
お菊の兄の弁太なのであった。
その弁太が右手を上げたかと思うと、ポンと勘右衛門の小手を打った。
不意に打たれたことである。勘右衛門が持っていた包物を、取り落としたのは当然と云えよう。
「おい」と弁太が声をかけた。
「おい京助さんそいつを拾って、早く行く所へ行くがいいよ」
それから勘右衛門へ眼をやったが、ニヤニヤ笑うと揉み手をした。
「妹に話がございましてね、参上したのでございますよ。……旦那、やり口があくどいようで。妹にだって用事はありましょうよ。その、私用という奴がね。……何の包物だか存じませんが、何か妹に思わくがあって、どこかへやろうとしていますようで。――へい、来かかって小耳へ挿んだので。……いくら旦那でもそんなことへまで、干渉なすっちゃアいけませんな。……おい、京助さん、早くお行き! ハッ、ハッ、ハッ、行ってしまったか」
小気味よさそうに声を上げて笑った。
勘右衛門が怒ったのは当然と云えよう。さも憎さげに弁太を睨んだが、
「うむ、お前さんは弁太殿か、妹をいたぶりに参られたと見える。……妹とは云ってもわしの女房だ、そうそういたぶって貰いますまいよ。……が、そんなことはどうでもよい! 何故今わしの邪魔をされた! 返辞をおし! ……と、今になって云ったところで、こいつどうにもなりそうもない! ……京助々々包物をよこせ! ……おや京助め行ってしまったか! ……待て待て待て、遁してたまるか!」
で、弁太を背後へ見すてて、勘右衛門は門の外へ走り出したが、もうこの頃には手代の京助は、町の通りを足早に、先へ先へと走っていた。
京助は往来を走っている。
(弁太という男は大嫌いだが、今日はにわかに好きになった。俺を助けてくれたのだからな。あの男が加勢してくれなかろうものなら、奥様からの預かり物を、すんでに旦那に取られるところだった。よかったよかった本当によかった。……それにしても一体包物の中には、何が入っているのだろう。奥様は奥様であんなにも真剣に、「途中で誰が何と云おうと、よしんば誰が止めようと、決してこれを渡したり引っ返して来てはいけない」と云われた。先方へ渡せと仰せられた。旦那は旦那で怖い顔をして、是非によこせと云って取ろうとした。大切な物には相違ない。何だか中身が見たくなった。ちょっと包物をひらいて見ようか)
(いや!)とすぐに思い返した。
(それこそ不忠実というものだ。何であろうと彼であろうと、俺に関係はないはずだ。俺の役目は一つだけだ。書面に書かれてある宛名の人へ、包物を直接に手渡して、返事と一緒に下さる物を、奥様へ持って帰ればいいのだ。……おッ、何だ、おかしくもない! まだ届け先を見なかったっけ)
京助は懐中へ手を差し込んで、仕舞って置いた書面を引き出した。
根津仏町勘解由店、刑部殿参る――
こう宛名が記されてある。
「なるほど」と京助は声を洩らしたが、
(ははあそうか、根津なのか。よしよし根津へ行ってやろう。……ところでここはどこなのかしら?)
で、四辺を見廻して見た。
(おやおやここは蝋燭町らしい)
夢中で小走って来たがために、神田の区域の蝋燭町という、根津とはまるっきり反対の方へ、京助は来たことに感付いた。
(いけないいけない引っ返してやろう)
で、きびすをクルリと返すと、根津の方へ歩き出した。
永い夏の日も暮れかけていて、夕日が町の片側の、駄菓子屋だの荒物屋だの八百屋だのの、店先をカッと明るめていた。妙にひっそりとした往来であって、歩いている人影もまばらである。赤児の泣き声が聞こえてきたり、犬の吠え声が聞こえてきたりしたが、それさえ貧しげな町の通りを、寂しくするに役立つだけであった。
(ここから根津へ行こうとするには、どう道順を取ったらよかろう? ……雉子町へ出て、駿河台へ出て、橋を渡って松住町へ出て、神田神社から湯島神社へ抜けて、それから上野の裾を巡って、根津へ行くのがよさそうだ。どれ)
と、云うので足を早めた。
しかし半町とは歩かない中に、京助は仰天して足を止めた。
怒気に充ちた顔を夕日に赭らめ、膏汗の額をテラテラ光らせ、見得も外聞もないというように、衣裳の胸や裾を崩して、こちらへ走って来る勘右衛門の姿が、忽然と眼の前へ現われたからであった。
「京助!」と、勘右衛門は呻くように云った。
旗本の次男杉次郎
そう勘右衛門は呻くように云って、やにわに京助へむしゃぶり付くと、京助の持っている包物を、奪い取ろうと手をかけた。
その勢いは凄じいほどで、京助の持っている包物の価値が、どんなに大きいかということを、証拠立てるに足るものがあった。
しかし勘右衛門は老年ではあるし脂肪太りに太ってはいるし、その上に走って来たためか、その息使いは波のように荒くて胸の鼓動も高かった。今にも仆れそうな様子なのである。
そうしてそのようにも苦しいのに、その苦しさを犠牲にして、どうでも包物を取り返そうとして、身もだえをするありさまと来ては、むしろ悲壮なものがあって、そうしていよいよ包物の価値の、偉大であるということを、証拠立てるに足るものがあった。
「よこせよこせ包物をよこせ! いやお願いだ返してくれ。怒りはしない、頼むのだ! どうぞどうぞ返してくれ!」
――で、無二無三に引ったくろうとする。
「私こそお願いいたします、どうぞ[#「どうぞ」は底本では「そうぞ」]旦那様お許しなすって! 包物はお渡しいたしません。奥様のお云い付けでございますもの。……持って参らなければなりません! はい、奥様のお云い付けの所へ!」
京助は京助でこう喚きながら、胸に抱いている包物を、どうともして取られまい取られまいとして、勘右衛門と捻じ合いひしめき合うのであった。
京助としては当然と云えよう。
こんなように京助には思ったのであるから。――
(こうも旦那が執念深く、奪い返そうとしているからには、小さいけれど包物の中には、素晴らしく大切な値打ちのある物が、入っているに相違ない。そうしてそれは奥様にとっては、一大事な物に相違ない。ひょっとかすると秘密の物かもしれない。もしも旦那に取り返されようものなら、奥様は絶望をして病気になって、京助や京助やとご機嫌よく、私を呼んでくださらないかもしれない。で、どのように頑張っても、旦那に包物は渡されない)
――で、喚きを上げながら、勘右衛門と捻じ合いひしめき合うのであった。
いかにひっそりとした町とは云っても、大家の旦那とも思われる、非常に立派な老人と、大店の手代とも思われる、綺麗なお洒落の若い男とが、衣紋を崩して喚き声を上げて、往来の中央で人目も恥じないで、一つの包物を取ろう取られまいと、捻じ合いひしめき合っているのであるから、往来の人達は足を止め、店から小僧や下女や子供や、娘やお神さんや主人までが、飛び出して来て眺めやった。
が、勘右衛門も京助も、そのようなことには感付かないかして、いつまでも捻じ合いひしめき合うのであった。
その結果はどうなったであろうか?
二人の争いを見守りながら、二人をグルリと取り巻いている、町の人達の間を分けて、痩せぎすで長身くて色が白くて、月代が青くて冴え冴えとしていて、眼に云われぬ愛嬌があって、延びやかに高くて端麗な鼻梁に、一つの黒子を特色的に付けて、黒絽の単衣を着流しに着て、白献上の帯をしめて、細身の蝋鞘の大小を、少しく自堕落に落とし目に差して、小紋の足袋に雪駄を突っかけた、歌舞伎役者とでも云いたいような、二十歳前後の若い武士が、勘右衛門と京助とへ近寄って来たが、――そして真ん中へヌッと立ったが、
「これは松倉屋のご主人で、京助などという手代風情と、このような道の真ん中などで、何をなされておいでなさる。みっとものうござる、みっとものうござる……。京助々々何ということだ。ご主人様と争うなどと! ……え、そうか、ふうん、なるほど、ご内儀の云い付けでその包物を、どこかへお届けしようというのか。ではサッサと行くがよい。行け行け行け、かまわない。……ハッハッハッ、勘右衛門殿、はしたないではござりませぬか。いかさまお菊殿はあなたにとっては、自由になるご内儀でござりましょう。が、しかしご内儀のお菊殿から云えば、自分一人だけの勝手の用事も、自らあろうというもので。そこまで掣肘をなさるのは、少しく横暴でござりますよ」
――と、このように云うことによって、京助を勘右衛門から立ち去らせ、怒って焦燥して執念深く、尚も京助を追いかけようとする、勘右衛門を抑えて動かさなかった。――で、事件は解決された。
が、この武士は何者なのであろうか?
旗本の次男の杉次郎なのであった。
根津仏町勘解由店の、一軒の家の階下の部屋で、話し合っている武士があった。
「アラの神は讃うべきかなさ」
こう云ったのは老いたる武士であった。
「もっと讃うべきものが厶」
中年の武士が皮肉そうに云った。
「さようさようアラの神よりも、もっと讃うべきものが厶。が、そいつは残念にも、容易に手には入らないようで」
「そこでいよいよ欲しくなります」
「で、貴殿にはここへ出張られて、狙いを付けておられるので」
「さよう、貴所様と同じようにな」
「誰が最初に手に入れるやら。まず愚老でござろうな」
「はてね、少しあぶないもので。某が勝つでござりましょうよ」
「愚老の方が眼が高い」
「が、某といたしましては、彼の故国を知っております」
「ほほう。亜剌比亜をご存知なので」
「いかにも某存じております」
「ふうむ」と老武士は呻き声を上げたが、すぐに、そいつを引っ込ませると、別のことを云い出した。
「愚老の方が財力がある」
すぐに中年の武士が答えた。
「健康はいかがで健康はいかがで? 某の方が健康で厶」
「が、愚老には権勢がある」
「某にも権勢はござりますよ」
「どのような種類の権勢やら」
「命知らずの部下がおります」
「浪人であろう。食い詰め者であろう」
「もっともっとあくどい奴らで」
「ほほうさようか、何者かな?」
「放火、殺人、誘拐、詐欺――と云ったような荒っぽいことを、日常茶飯事といたしている、極めて善良な正直者たちで」
「なるほど」と老武士は苦笑いをしたが、
「愚老の背後楯は少しく違う。大名衆や旗本衆で」
「大名衆や旗本衆?」
中年の武士は迂散くさそうに、老年の武士の顔を見たが、
「失礼ながらご老人には、いかようなご身分でありますかな?」
少し慇懃にこのように訊ねた。
「よろしかったらご姓名なども、承りたいものでござりますな」
すると老武士は顎を撫でるようにしたが、
「そう云われる貴殿の素性と姓名とが、愚老には聞きたく思われますよ」
「拙者は醍醐弦四郎と申して、浪人者でござります」
「愚老は雲州の隠居だよ」
「…………」
醍醐弦四郎は仰天して、改めてつくづくと老武士を見たが、
「それでは松平碩寿翁様で。……が、それにしてはこのような醜悪極まる勘解由店の、刑部屋敷などへおいでなさるとは、心得ぬ儀にござりますな」
――で、碩寿翁の返辞を待った。
それにしても勘解由店の刑部屋敷とは、どういう性質の屋敷なのであろうか?
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 下一页 尾页