洞窟の奥の神殿の前に佇んでいる男女があった。宮川茅野雄と浪江とであった。
神殿の扉がひらかれていて――開いたのは茅野雄その人なのであったが――内陣のご神体が見えていた。
六尺ぐらいの異国神の像で、左の一眼が鯖色の光を、燈明の火に反射させていた。
それだのにどうだろう、右の一眼は、盲いたままになっているではないか。眼窩は洞然と開いているが、眼球が失われているのである。
アラ神であるということは、多少とも回教を知っている人には、看取されたに相違ない。
そのアラ神を囲んでいる厨子が、宝石や貴金属や彫刻によって――アラビア風の彫刻によって――精巧に作られちりばめられてあり、厨子の前方燈明の燈に――その燈明の皿も脚も、黄金で作られているのであったが――照らされているありさまは、神々しいものの限りであった。
神殿は石段の上にあり、その石段もこの時代にあっては珍らしい大理石で作られていた。
しかし建物は神殿ばかりではなく、神殿から云えば東北の辺りに、二棟の建物が建ててあった。いずれも導師が祈祷をしたり、読経を行なう所らしい。
その中の一棟の建物の床から、泉が湧き出して流れてい、その流れの岸の辺りに、黒い色の石が据えてあった。
が、もう一棟の建物の横には、三基の墳塋が立てられてあり、その前にも燈明が点されていた。
茅野雄には解っていなかったが、それらの建物や墳塋や泉や、黒石などは回教の本山、亜剌比亜のメッカに建てられている、礼拝堂に則って作られたものであった。
すなわち泉はザムであり、また黒石はアラオであり、墳塋は教主のマホメットと、その子と、弘教者のオメルとの墳塋で、回教の三尊の墳塋なのであった。
そういう建物や墳塋を蔽うて、洞窟の壁と天井とがあったが、壁の面にも天井にも、さまざまの彫刻が施こしてあり、いろいろの装飾が施こしてあった。
そういう洞窟の一所に立って、茅野雄と浪江とは神像を眺め、言葉もなく黙っているのであった。
幾人かの人間を切ったことなど、茅野雄の考えの中にはなかった。今にも覚明を初めとして、丹生川平の郷民達が、洞窟の扉を破壊して、ここへ無二無三に殺到して来て、自分達を討って取るだろうという、そういう不安さえ心になかった。
奇怪と荘厳とを一緒にしたような、妙な気持に圧迫されて、押し黙っているばかりであった。
と、浪江の囁く声がした。
「ご神体は贋物なのでございます。ご覧の通り一方の眼だけが、見ひらかれて鋭く輝いております。でももう一方の眼は潰れております。……父上は開いている一方の眼だけを、手に入れたばかりでございました。その一つの眼を基にして、あのご神体を作ったのでした」
「…………」
茅野雄は返辞をしようともせず、その輝いている一眼へ、恍惚とした眼を注いでいた。
茅野雄は自分の心持が、抑えても抑えても抑え切れないほどに、その一眼を手に入れたいという、慾望に誘惑されるのを感じた。
(あの眼の光に比べては、名誉も身分も財産も、生命までも劣って見える)
茅野雄は深い溜息をしたが、誰かが背後から押したかのように、思わず前へ突き進んだ。
いつか茅野雄は石段を上り、神殿の前に立っていた。
と、茅野雄は腕を延ばしたが、グルグルと神像の首を捲いて、右手で刀の小柄を抜くと、神像の眼をえぐりにかかった。
「あ、茅野雄様!」と恐怖に怯えた、浪江の声が聞こえて来た。しかし夢中の茅野雄の耳には、聞こえようとはしなかった。
浪江はそういう茅野雄を見ながら、体をこわばらして佇んでいたが、うっちゃっては置けないと思ったからであろう、石段を茅野雄の方へ走り上った。
「あまりに勿体のうございます!」
浪江は茅野雄の右の腕に縋った。
が、すぐに振りほどかれた。しかし浪江は一所懸命に、再度茅野雄の腕に縋った。が、またも振りほどかれた。
超人
しかしそういう夢中になっている、茅野雄の耳へ殺到して来る、大勢の足音や喚き声や、打ち物の烈しく触れ合う音が、聞こえてきたのは間もなくであった。
そうしてその次の瞬間には、宮川覚明と郷民達とが、石段の下まで襲って来たのを迎え、神殿を背後に神像の前に、抜き身を中段に構えた茅野雄が、その足もとに仆れている浪江の、気絶をしている体を置いて、決死の姿で突っ立っていた。
しかしその次の瞬間には、切りかかって来た郷民の二人を、石段の上へ切り仆した茅野雄の、物凄い姿が見受けられた。
全く物凄いと云わざるを得ない。
乱れた髪、返り血を浴びた衣裳、はだかった胸、むきだされた足、そうして構えている刀からは、鍔越しに血がしたたっている。が、そういう茅野雄の肩の、真上にあたる背後の方から、例の神像の一眼が、空から下りて来た星かのように、鋭い光を放っているのが、わけても凄く見えなされた。
しかもそういう茅野雄の前には、無数の郷民が打ち物を揃えて、隙があったら切り込もうと、ひしめき合っているのであった。
そういう郷民達の群の中に、ひときわ背高く見えている、妖精じみた老人があったが、他ならぬ宮川覚明で、杖を頭上にかかげるようにすると、
「神殿の扉を無断で開け、アラ神を曝露した涜神の悪人、茅野雄は教法の大敵でござるぞ! 神も虐殺を嘉納なされよう! 何を汝ら躊躇しておるぞ! 一手は正面からかかって行け! 一手は左からかかって行け! そうして一手は右からかかれ!」と、狂信者特有の狂気じみた声で、荒々しく叫んで指揮をした。
それに勇気をつけられたのであろう、三方から郷民達は襲いかかった。
その結果行なわれたことと云えば、正面から襲って行った一手の勢が、茅野雄のために切り崩され、なだれるように下りたのに引かれて、茅野雄も下へ下りた隙に、左右から襲って行った二手の勢が、段上を占めたことであった。
下へ下りた茅野雄を引っ包んで、郷民達の渦巻いている姿が、こうしてその次には見受け[#「見受け」は底本では「身受け」]られたが、しかしその次の瞬間には、渦巻が左右に割れていた。
と、その割れ目を一散に走って、黒石の方へ行く者があり、やがて黒石の上へ、片足を掛けて休んだ者が見られた。
数人の郷民を切り斃して、そこまで行った茅野雄であった。
「黒石を土足で穢した逆賊!」
すぐに覚明の喚く声がした。
「躊躇する汝らも逆賊であろうぞ!」
またも茅野雄を取り囲んで、人間の渦が渦巻き返った。
しかしその次には全く意外の、驚くべき事件が演ぜられた。
老人の声ではあったけれど、底力のある威厳のある声で、
「極東のカリフ様がおいでなされたぞ! 謹んでお迎えなさるがよろしい!」
つづいて威厳と清浄と、神々しさと備えたような声が、若さをもって聞こえてきた。
「覚明殿、殺生はお止めなされ!」
一同の者は声の来た方を見た。
一ツ橋慶正卿の高朗とした姿が、老将軍のような碩寿翁を連れて、此方へ歩いて来るのが見られた。
大森林の中で野馬を捕らえ、丹生川平へ駛らせて来た、慶正卿と碩寿翁とが、この時到着したのであった。
超人には常人などの、及びもつかない神性がある。駕籠に乗って歩かせていたばかりで、碩寿翁ほどの人物を、目的の長崎へやろうとはせず、飛騨の地へ来させてしまったことなどは、神性のしからしむるところであり、茅野雄と浪江との恐ろしい危難を、洞察したのもそれであり、飛騨の地に回教を密修している、二つの郷のあることと、回教にとって重大の価値ある、ある「何か」が多くの人の、さまざまの手を通したあげく、この飛騨の地で「あるべき所へ帰る」――そういうことを洞察して、そうしてこの地へ出て来たことも、神性のしからしむるところであった。
いやいやむしろこの飛騨の地で、従来散失していたものを、一所に集めようと心掛けて、その神性を働かせて、それに関係ある一切の人を、この地へ集めたと云った方が、中っているように思われる。
そういう超人の慶正卿であった。
その神々しい風采は狂信者の覚明や郷民達をさえ、恭謙の心へ導いてしまった。
で、にわかに洞窟の内は、静粛となり平和となった。
と、そういう洞窟の内を、一応見廻した慶正卿は、神殿の方へゆるゆると進んだ。
右手を前へ差し出している。その掌から鯖色[#「鯖色」は底本では「錆色」]の光が、矢のように鋭く、射し出ていたが、その光は神像の一眼の光と、全く同じものであった。
碩寿翁の持っていた小箱の中の物品! それと全く同じ物で、碩寿翁から慶正卿が、横取ったものに相違ない。
石段を上ると慶正卿は、敬虔に神像の前に立ち、右手を神像の方へ差し出したが、ややあって神像から立ち離れ、神殿の横手へ佇んだ。
片眼であった神像の眼が、二つながら今は明いている。例の鯖色の素晴らしい光が、両眼から燦然と輝いている。
と、歓喜の高い声が、洞窟の内へ響き渡った。これは覚明を初めとして、集まっていたほどの郷民が、両眼を備えた神像に対して、思わず上げた歓声なのであった。
しかしこの時意外の意外として、洞窟の外とも思われる辺りから、素晴らしく高い大勢の讃歌の声が聞こえてきた。
ここは洞窟の外である。
六尺ぐらいのアラ神の像を、神輿に舁きのせた数百の男女が、洞窟の入り口に屯していた。
数人の武士がその中にいたが、何と高手小手に縛られているではないか。醍醐弦四郎とその部下とであった。
そうして群衆は白河戸郷の、郷民達に他ならなかった。
その証拠には群衆の中に、以前に宮川茅野雄へ向かって、道を教えたことのある、また、同じ宮川茅野雄を、暗夜に襲って殺戮しようとした、老樵夫のような人物が――もっとも今は威厳と信仰とを、具現したような風采をしている――白河戸将監その人が、娘の小枝を側に立たせ、自身も神輿の横に立って、郷民達と讃歌をうたっていた。
見れば大勢の郷民の中に、巫女の千賀子も雑っていれば、刑部老人も雑っており、松倉屋勘右衛門も雑っていれば、杉次郎も弁太もお菊なども、同じように雑っていた。
一ツ橋慶正卿の言葉に従い、まず将監は白河戸郷の山岳宗教境を破壊した上、千賀子の元から奪い取り白河戸郷の神体としたアラ神の像を神輿に納め、「神像の完璧」を行なうために丹生川平へ進んで行こうとした時、醍醐弦四郎とその部下とが白河戸郷へ入り込んで来て小枝を奪い取ろうとしたのですぐに捕らえて縛り上げ、道々勘右衛門の一行と千賀子と刑部老人とを収容してここまで来たのであった。
勿論彼らは丹生川平と、戦いをするために来たのではなくて、和睦するために来たのであった。
やがて彼らの一団は、洞窟の入り口から中へ進み、間もなく神殿の前まで来た。
行なわれたことは何であったか?
この物語に関係のある、一切の人物と物品とが、一所に揃ったことであった。
もうこれで物語は終えたと云ってよかろう。が、しかしながら極めて簡単に、――スチブンソンの「ニュウアラビヤンナイト」式に、説明を加える方がよいとならば、説明をすることにしよう。
(一)大金剛石を両眼に持った、アラ神の像は千賀子のもとに代々伝わっていたものであったが、その一眼を覚明が奪い、他の一眼を何らかの手段で、松倉屋勘右衛門が手中に入れ、神像その物は白河戸将監が奪い、各々勝手に保存した結果が、事件の基となったのであった。
(二)一ツ橋慶正卿が回教における、カリフの尊号を得たことについては、作者の調べた文献の中に、その詳細がないところから、ここで説明することは出来ない。
(三)大金剛石の両眼は、白河戸郷から持ち来たされた、真のアラ神の眼窩の中へ、あらためて納められたということであるが、そのアラ神は慶正卿の意見――メッカへ返せという意見のままに、遥々亜剌比亜へ送り返されたとも、元の持主の千賀子のもとで、保存されたとも云われている。
(四)丹生川平と白河戸郷とが、和睦したことは云うまでもないが、「山岳の奥にとじこもって、密修をするよりも都会へ出て、市井の間に布教した方が、宗教として効果がある」という、慶正卿の意見に従い、二郷の人達が江戸へ出て、千賀子を昔通り教主に立て、回教弘通に努力したと、こう文献に記されてあるが、詳細のことは作者も知らない。
(五)醍醐弦四郎はその以前に、長崎辺りにゴロツイていた、某大名の浪人であったが、この出来事のあった頃には、浪人組の頭として、強請りや盗賊もしていたそうで、悪人には相違なかったが、物解りのよい男だったので、慶正卿に許されて、放逐されたということである。
(六)松倉屋勘右衛門はお菊を離縁し、真面目な大商人に帰ったそうな。
ではお菊や杉次郎や、弁太などの連中はどうしたか?
いや物語の傍流にいる、こういう人達の運命にまで、立ち入って語るのは無駄なことで、勝れた作家のやることではない。――だからうっちゃって置くことにしよう。
それから数カ月経った時であった。
慶正卿の館の奥で、慶正卿と碩寿翁とが長閑そうに話していた。
「どうだ碩寿翁、感ずるところがあったか?」
「はい、何でございますか?」
「もちろん今回の事件でだよ」
「はい、一つだけございました。……大金剛石の光を見た時、名誉も身分も財産も、生命もいらないと思いましたことで」
「どういうところからそう思ったかな?」
「ただ、そんなように思ったまでで。……つまり、思うに、あの光が、私の良心を眩ましたもののようで」
「その答えは俺には気に入った」
慶正卿は意を得たように云った。
「ああいう素晴らしい品物だから、売ったら大金になるだろう――と云うそういう心持から、誘惑されたのでなさそうだからな」
「はい、その通りでございます。理由は無く誘惑されましたので」
「それはこういうことになるのだ。大金剛石のあの光は、『美』その物の最上的具現で、芸術的であったので、それで誘惑されたのだと。……金銭の事に関しても、勿論人は罪悪を犯す。が、そのための罪悪は、俗で非芸術的で不愉快だ。……ところで人間というものは、『美』のためにも罪悪を犯す。この方の罪悪は芸術的だ。……そこでこういうことが云われる。完全の美とか最大級の美とかは、阿片のように罪なものだ。と」
その時一人のお小姓が、恭しく天目を捧げながら、襖をあけて入って来た。
小姓を見ると碩寿翁は「おやッ」とばかりに声を上げた。
と、すぐに一人の小間使いが、菓子盆を恭しく持って来て、二人の間へしとやかに置いた。
「碩寿翁」と笑いながら慶正卿が云った。
「京助はあの通りピンピンしている。今は俺の小姓になっている。……菓子を持って来た小間使いには、お前は覚えはなかろうが、声には覚えがあるはずだ。……お前が京助を殺そうとした時、一軒のみすぼらしい家の中で、俺と話していた娘なのだ。……今、あの二人は夫婦になっている。夫婦にしたのはこの俺さ。……が、俺はもう二人の男女を、ほんの最近に夫婦にしてやった」
そういう言葉の終えない内に、小姓の京助が再度あらわれて、慶正卿に囁いた。
「待っていたのだ、通すがよい」
間もなく部屋へ入って来たのは、宮川茅野雄と浪江とであった。浪江は丸髷に結っていた。
つづいてもう一人の若く美しい、無邪気らしい乙女が入って来た。
将監の娘の小枝であった。
――が、俺はもう二人の男女を、ほんの最近に夫婦にしてやったと、慶正卿の云った男女が、この茅野雄と浪江なのであった。
そうして小枝と茅野雄夫婦とは、いずれも仲のよい友達であり、三人ながら慶正卿の館へ、伺候することを許されている、そういう身の上になっていた。
「何か珍らしい話はないか?」
慶正卿が三人へ訊いた。
と、小枝があどけなく云った。
「刑部老人の蒐集室へ参り、このような物を買うて参りました」
取り出して見せたのは宝玉をちりばめた、美しい異国風の簪であった。
慶正卿はとりあげたが、
「碩寿翁、これを値踏みしてごらん」
こう云って笑って簪を渡した。
と、碩寿翁は苦笑をしたが、
「どうやら依然としてあの老人は、贋物を売っておりますようで。……この宝玉は硝子のかけらで」
「さようさよう硝子のかけらだ」
で、二人は哄笑した。
これで刑部という老人が、例の屋敷で勿体らしく、贋物の古物や異国産の品を、売っているということが読者諸君にも、諒解されたことと思う。
これで書くことはないはずである。
では大団円とすることにしよう。
が、しかし一言云いたいことがある。
それは茅野雄の心持のことで、彼はこのように思っていた。
「千賀子という巫女が俺を占い、『山岳へおいでなさいまし、何か得られるでございましょう』と、こんなようにあの晩云ってくれたが、その何かは浪江のことだった。……あの晩以来生死の境いを、卍巴と駈け巡ったが、しかし浪江を手に入れたのだから、無駄であったとは云われない」
●表記について
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