怪しの男
でもお蘭にはそんなことは気が付かないらしく、
「どうしたって変な人ね、湯治に来たくせに、湯へはいっていいかいなんて。……おはいりなさいよ」
「じゃアはいろう」
男は湯槽の中へ下りて来た。すぐ沈んだ。
「湯の中へ頬冠りしたままではいるなんてことないわ。おとりなさいよ」
「取らねえ方がいいようだ」
「何故よ」
「恐がるといけねえ」
「誰がよ」
「娘っ子が」
「あたし? フーッ。……湯屋の娘が男の顔見て恐がっていたのでは商売にならないわ。フーッ。明日は雨よ、今夜のお湯とても湯気が濃いんだもの。匂いだって強いし。……こうと、あんたきっと猟師さんね」
「猟師?」
と男は吃驚りし、
「何故だい?」
「いい体しているもの。……骨太で、肉附きがよくて、肩幅が広くて……」
「猟師じゃアねえ」
「じゃア樵夫さんね」
「樵夫だって」
吃驚りして、
「違う」
「そう」
「お前さん何んていう名だい?」
と今度は男が訊いた。
「お蘭ちゃん」
「ふうん。そのお蘭ちゃん幾歳だい?」
「十七」
「年頃だ」
「そうよ。だから妾来月お嫁に行くんだわ」
「どこへ?」
「進一さんの所へ」
「親しそうに云うなア。以前から知ってる男かい?」
「幼な馴染なの」
「お前さんを可愛がっているかい?」
「雪弾丸投げつけてよく泣かせたわ」
「ひどい野郎だな」
「あたしの泣き顔が可愛いのでそれが見たかったんだって」
「負けた」
と男ははじめて笑った。好意ある笑い方だった。
この時、また鋭い笛の音が谷の方から聞こえて来た。と、それに答えて、山の方からも同じような笛の音が聞こえて来た。
「チェ」
と男は舌打ちをした。
「取巻きゃアがったな」
「何よ?」
とお蘭は聞き咎めた。
「取巻いたって?」
「猛々しいケダモノを取巻いたというのさ」
「猪? ……だって、季節じゃアないわ」
「猪よりもっと恐ろしいケダモノだ」
「何んだろう?」
「邪悪――そうだ、女をとりわけ憎んだっけ。……強盗、放火、殺人、ありとあらゆる悪業を働いた野郎だ」
「じゃア『三国峠の権』のような奴ね」
「知ってるのか?」
「三国峠の権の悪漢だってこと、誰だって知ってるわ。でも、その権、ご領主様に捕えられたじゃアないの」
「うん、沼田のお城下で、土岐様の手に捕えられたよ」
「お牢屋へ入れられたっていうじゃないの」
「その牢を破ったんだ」
「まア。いつ?」
「昨夜」
「まア」
「そいつがこの土地へ逃げ込んだらしい」
「どうして解るの?」
「捕り手がこの家を取巻いたからさ」
「じゃアこの家の中に?」
「うん。……恐いか!」
「恐いわ」
「だから俺はさっき恐かアないかと云ったんだ! 俺が権だ!」
ヌーッと男は、湯から、巨大な柱でも抜き上げたように立ち上がった。
「フーッ」
とお蘭は湯気を吹いた。
「あたし思いあたったわ、あんたきっと役者ね」
「何んだって?」
「あんたきっと旅役者だわ」
「…………」
「とても芝居うまいものね」
男は湯の中へ沈んでしまった。
三国峠の権
「そうかい、俺を役者だというのかい」
と男は溜息をしながら云った。頬冠りの顔は俯向いて、湯の面に見入っていた。
「三国峠の権の真似上手だものね。お役者さんよ」
「どうして物真似だってこと解るんだい?」
「そりゃア眼力だわ。……あたし客商売の温泉宿の娘でしょう。ですから、悪い人かいい人か、贋物か本物かってこと一眼見ればわかるわ」
「なるほどなア、それで俺らを……」
「いい人だと睨んだのよ。だってそうでしょう、女と一緒にお風呂にはいるの恥ずかしがったり、顔見られるの恥ずかしがって、頬冠り取らなかったりするあなたですものね。恥ずかしがり屋に悪人ってものないわ」
「恥ずかしがり屋に悪人はないとも。……だが俺ら恥ずかしがり屋かなア」
「あたしの眼に狂いないわ」
「それならいいが」
「フーッ。狂いないわ」
「俺らア初めてだ」
と男はしみじみとした声で云った。
「冒頭から善人だと女に云われ、何んの疑がいもなくぶつかって来られたなア、今夜のお蘭ちゃんが初めてだ。……礼云うぜ」
烈しい呼笛の音がこの温泉宿の表と裏とから聞こえ、遙かに離れている主屋の方から、大勢の者の詈しり声や悲鳴や、雨戸や障子の仆れる音が聞こえて来た。
「捕手どもとうとう猟立てに来やがったな! ようし!」
こう云った時にはもう男は湯槽から躍り上がっていた。
「おいお蘭ちゃん、済まないがお前の着物貰って行くぜ、……着物どころかお前の体も貰うつもりだったが、裸身で――そうよ、心も体も綺麗な裸身でぶつかって来られたので、俺らにゃア手が出せなかった。……お前のためにも幸福だったろうが、俺らにも幸福だった。将来は俺らは女だけは。……それもお前のおかげで女の観方変わったからよ。世間にゃお蘭ちゃんのような女もあると思やアなア。……それにしても、俺らに最初にぶつかって来た女が、お前のような女だったら、俺らこんな身の上にゃアならなかったんだが……」
頬冠りを取り、手拭いで体を拭き拭き、
「それにしても進一さんて人は幸福だなア、お蘭ちゃんのような可愛らしい人を嫁さんにするなんて。……おいお蘭ちゃん、俺らお前さんに餞別するぜ。どうかまア今のような綺麗な裸体の心で、進一さんに尽くしてくんなと。……男なんてもなア女のやり方一つで、どうにでもなるんだからなあ」
男は手早くお蘭の着物を纒った。
「アッハッハッ、この風で捕手どもの眼を眩しとっ走るのよ! ……おかげで湯にもはいれた。……心と一緒に体も綺麗になったってものさ」
お蘭は驚愕した大きな眼で男の顔を見詰め、
「あ、あんたの耳! ないわないわ、一つしかないわ!」
男はこの時もう階段を上がっていたが、振り返ると云った。
「三国峠の権は片耳なのだよ」
三国峠の権が女装をし頬冠りをして湯殿から飛び出し、廊下づたいに主屋の方へ走り出した時には、沼田藩の捕り手たち数十人が、この温泉宿へ混み入って、部屋部屋を探し廻っていた。上野、下野、武蔵、常陸、安房、上総、下総、相模と股にかけ、ある時は一人で、ある時は数十人の眷属と共に、強盗、放火、殺人の兇行を演じて来た、武士あがりのこの大盗が、破牢して逃げたということだけでも、沼田藩は、捕り手組子を押し出して捕縛に大わらわにならなければならないのであったが、そればかりでなく、三国峠の権は、破牢するとその夜、藩の蔵奉行五百枝将左衛門の屋敷へ押し入り、主人将左衛門の片耳を切り落とし、「汝の娘、松乃の嫁入り先、長岡の牧野家の槍奉行、坂田方へ押し入り、松乃の片耳を切り取るぞよ」と威嚇して立ち去ったのであった。一藩が震駭し、数十人の捕り手を繰り出し、逃げ込み先の猿ヶ京の温泉をおっとり囲んだのは当然といえよう。
権は今廊下を走って行く。と、行く手に四、五人の捕り方が現われた。権は素早く廊下添いの部屋の襖を開けて飛び込んだ。
「それ」
と捕り方たちは走って来た。襖をあけて覗くと、若い女が俯伏しに寝て、両袖で顔をかくしていた。
「女だ」
「恐いことはないぞ。アッハッハ」
と、捕り方たちは走り去った。権はしばらくじっとしていたが、やがて起き上がると廊下へ出、主屋の方へ小走り出した。廊下が丁字形になっている所へ来た。左へ曲がったとたん、二人の捕り方にぶつかった。顔を見られた。
懺悔の妻
「曲者!」
と一人の捕り方が正面から組付いて来た。
「わッ」
と捕り方は悲鳴をあげて仆れた。脇腹から血が流れ出ている。
「汝!」
ともう一人の捕り方が横から躍りかかった。権の匕首が捕り方の咽喉へ飛んだ。権は、仆れてノタウチ廻る捕り方を見すてて走った。
「お頭アーッ」
と呼ぶ声がした。行く手の降り口から、囲炉裡側で、片耳のない武士の話をしていた絹商人が、顔を出していた。
「七五郎か、他の奴らは?」
「さっきまで囲炉裡側で、五人揃って、お頭のおいでになるのを待っていましたが、捕方どもが飛び込んで参りましたのでチリヂリバラバラ、この家のあちこちに……」
「集めなけりゃアならねえ。……一つに集まって三国を越して越後境いへ!」
主屋と離れ、崖の中腹に、懸け作りになっている別館が一棟、桜や椿や朴の木に囲まれ、寂然として立っていた。主屋と別館とをつないでいるものは、屋根を持っている渡り廊下で、真珠のような月の光が、木の間を洩れて廊の欄干へ、光の斑を置いていた。別館の一間に寝ているのは、耳を病んでいる松乃であった。枕もとには水を張った小桶が置いてあり、その横には良人の内記が、心配そうにして坐っていた。
この優しい親切な良人は、寝もしないで妻の介抱をしているのであった。
「だんだん騒ぎが烈しくなるが、何んだろう?」
長岡藩の槍奉行、坂田内蔵之丞の総領内記は、妻が眠るようにと、わざと燈を細めた行燈を無心に見詰め、耳をかしげながら呟いた。
松乃は、痛む左の耳を上にし、反対の頬を枕にうずめ、夜具の襟から、蒼白の顔を覗かせ、眼を閉じていた。さっき、鋭い呼笛の音がし、つづいて主屋の方から、悲鳴や、襖、障子を蹴ひらく音や、走り廻る音が聞こえて来、僕の三平翁が、あわただしく様子を見に行ったがまだ帰って来ない。――これらのことも心にかかっていたが、しかし彼女には、もっと心にかかることがあった。
それは、この部屋そのものであった。
彼女がまだ娘であった頃、同藩――沼田藩の槍奉行、斉藤源太夫の息子源之進と結婚することになり、婚礼の席へ臨んだ。ところが源之進が余りの醜男なのに厭気がさし(長いこれからの浮世を、こんな男と一緒にくらさなければならないとは。厭だ厭だ)と思い詰め、生一本の娘の、前後見ない感情からその席を遁がれ、実家へ逃げ帰り、居合わせた若党の井口権之介というのを連れ、夢中で家出し、駕籠で山越えをし、この猿ヶ京の、この桔梗屋の、この別館の、この部屋で一夜を明かしたが……
(その因縁の部屋へ泊まるとは)
松乃は眼を開き、いまさらに部屋の中を見廻した。辺鄙の山の温泉の宿は、部屋の造作も装飾も以前と変わらなかった。天井の雨漏りの跡さえそのままであった。
(主家の娘を誘惑したというかどで、権之介は、お父様に片耳を剃がれて放逐されたが、その後どうしたことやら。……噂によれば、身を持ち崩したあげく、恐ろしい大賊になったということだが……三国峠の権という大賊に。……それもこれも元はといえば妾の不注意から。……あの人には罪はなかったのだ)
「痛い!」
と松乃は思わず悲鳴をあげた。耳の痛みが烈しくなったからである。
実父の将左衛門から、久しく逢わないから逢いたい、婿殿ともども逢いに来るようにと伝言があった。そこで松乃は良人と一緒に里帰りの旅へ出たのであったが、昨夜、浅貝の旅宿あたりから耳が痛み出し、次第に烈しくなって来た。今は堪えられないほどに痛むのであった。
(片耳を切られた権之介の怨み! それで妾の耳が!)
こんなことも思われた。
(恐ろしい因縁の部屋で、痛む耳の手あてをするとは)
ゾッとするような思いもした。
そっと良人を見た。妻の過去の過失など知らないで、ただただ松乃を愛している内記は、気づかわしそうに妻の顔を見詰め、
「痛むか、困ったのう。この辺には医者はなし……」
と云った。
主屋の方でのけたたましい物音は、いよいよ烈しくなった。
と、渡り廊下をこっちへ走って来る足音がした。
内記は思わず刀を引きつけた。
あわただしく襖をあけて走り込んで来たのは僕の三平であったが、
「大変でございます。お捕り物で! ……昨夜、沼田様のお牢を破りました三国峠の権という大泥棒が……」
「あッ」
と松乃は起き上がった。
「三国峠の権が?」
「はい。……破牢したばかりか、……奥様、旦那様、決してお驚きなさいますな、……それに致しても何んと申してよいやら……その権という泥棒、奥様の実家、五百枝様のお屋敷へ忍び入り、将左衛門様の片耳を切り取り……」
「あッ」
と松乃は立ち上がった。
「お父様の片耳を! ……権が!」
「はい。……そうしてここへ、この猿ヶ京へ逃げ込みましたそうで。……それで沼田様からお捕り方が出……」
「権! 権之介よ! ……無理はない、さあ妾の耳も切っておくれ! ……みんな妾が悪かったからじゃ! ……切って怨みを晴らしておくれ! ……おお痛む! 痛む痛む耳! いっそ切られた方が! ……あげまする、この耳あげまする! 権よ権よ切っておくれ! ……昨夜から痛む訳じゃ! お父様がお切られなされたのじゃもの! ……同じ時刻から痛み出した耳! ……親の苦痛が娘へ伝わったのじゃ! ……それもこれも権の怨み! ……権よ、さあこの耳を切っておくれ!」
松乃は廊下へ走り出た。
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