四
動物園は市の中央、H公園の中にあった。公園の周囲は目抜きの街路で、十二時を過ぎても尚人通りが賑やかにゾロゾロ続いていた。しかしさすがに二時となると、商店では窓々の扉を鎖ざし電車の軋りも間遠となり、時々疾走する自動車の音が、人々の眠りを醒ますばかりであった。
公園は樹木に囲まれていた。百年また数百年、年を重ねた大木が、枝を交え葉を重ね、その下を深い闇にして夜空にすくすくと聳えていた。H公園は一周するとほとんど二里にも達しよう。森に林に丘に池、所々に建物が立っていて、到る所にベンチがあった。四辺は厳重な煉瓦の壁で、壁を蔽って内と外に鬱々と樹木が繁っていた。昼間のあいだに騒ぎつかれて夜は静かな鳥や獣の深い眠りを驚かすのは、近頃阿弗利加から送られて来た二匹の牝牡の獅子であった。
檻に馴れない沙漠の王は格子の間から空を眺め、初めは悲し気な呻り声、それから次第に高くなり、やがてその声を聞いただけでも気の弱い獣は血を吐いて死んでしまうと云われている雷のような吠え声をあげるのであった。
その雷のような吠え声がだんだん嘆くような呻きとなり、そしてプッツリ絶えた時、夜は一層深くなり闇が一層濃くなったように思われる。……
今その声が絶えたばかりで、あたりは死んだように静かであった。
その時一つの人影が闇の中から産まれたようにどこからともなく現われて正面の横の潜戸の前で、戸に身を寄せて立ち止まった。内部を窺っているらしい。
すると忽然潜戸の戸が内の方から開けられて、そこから一人の園丁が上半身を突き出した。
「レザール君かい?」と園丁は闇をすかして声をかけた。
「ラシイヌさんですか? レザールです」闇の中の人影は前へ出た。
「ちょうど時計が鳴ったとこだ。確かに今は午前二時だ……さあすぐ内へはいりたまえ」
レザールは潜戸から忍び込んだ。忽ち潜戸の戸が閉まる。
二人は暗い園内をそろそろと先へ歩いて行く。ラシイヌは一言も云わなかった。それが一層レザールには物凄いことに思われた。
二人はなるたけ木下闇の人目にたたない闇の場所を、選りに選って歩いて行く。
「止まって」
と突然ラシイヌは鋭い忍び音で注意した。で、レザールは立ち止まって前方の闇をすかして見た。窓々へ鎧戸を厳重に下ろして、屋内の燈火を遮断した、小柄の洋館が立っている。園長の住んでいる官舎らしい。
闇に馴れた眼をじっと据えてレザールは官舎を注視した。すると意外にも官舎の前の芝生の上に一団の、蠢めくものの形があった。よくよく見ると人間で、十人に近い人数である。円く芝生に胡坐をかき、額を土へ押しあてて何事か祈ってでもいるらしい。ブツブツといういとも小さい呟きの声が聞こえて来る。祈祷の声ででもあるらしい。
すると突然その中から一人の男が立ち上がった。やや明瞭りと云うのを聞けば、それは回教の祈祷であった。
「アラ、アラ、イル、アラ……唯一にして絶対なる吾らの神よ……吾らをして強くあらしめたまえ! 吾らをして敵を殺さしめたまえ! ……何物をも吾らより奪うなく、何物をも吾らに与えたまう神よ!」
その男は両手を空へ上げ、手をあげたまま腰を曲げ、地面へその手の届くまで、上半身を傾むけた。それから再び腰を延ばし、両手で空を煽ぎ立てた。それからまたも腰を曲げ、地面へ両手を届かせた。そうしては延ばし、そうしては曲げ、幾十回となく繰り返した。
その時かすめた太鼓の音が――鈴の音のする手太鼓の音が、円座を作った真ん中から、夢のように微妙に聞こえて来た。とそれへ銀笛の音が混った。幽かに幽かに鉦の音も――その不思議な調和というものは! 人をして深い眠りを誘い、夢中で人を歩かせるような、また、この欧州のどこへ行ったとて、到底聞く事の出来ないような、東洋式のその調和! 単調で物憂い太鼓の音。人間の霊魂を地の底から引き出して来るような笛の音。聞く人の心をせき立てて犯罪の庭へでも追いやるような、惨酷な調子の鉦の音……小声で唱える合唱の祈祷。そうしていつまでもいつまでも同じ礼拝をつづける男! 時刻は深夜の二時である。
レザールは物凄さに身顫いした。
物凄さはそれだけではすまなかった。次の瞬間に起こった事件の物凄さと不思議さとはレザールにとって生涯忘れられないものであった。
見よ、正面の石造りの、洋館の扉が徐々に開いて、そこから静々とあらわれた、燐光を纒った動物を! 動物の全身は白金が朝の太陽に照らされたようにカッと凄まじく輝いている。怪獣は石段を一飛びに飛んで、回教徒の円座へ近寄って来た。そうして四本足を折り、彼らの前へ蹲まった。
教徒の唱える讃美の声はその時ひときわ高くなり、深沈と寂しい音楽の音は次第に急速に鳴り渡った。空間に手を上げ手を下げて何物かを熱心に招いていた彼らの中の一人が、その時その手を怪獣の背へ、電光のように触れたかと思うと、燐光の怪獣は一躍しちょうど火焔の球のように、広大な園内を一文字に門のある方へ走り出した。とその門が大きく開いて怪獣はそのまま街の方へ矢よりも速く走って行き見る見るうちに見えなくなった。
怪獣の姿が見えなくなるや音楽の音色は急に止み、十人の教徒は立ち上がった。そして動物の檻の方へ足を早めて歩き出した。手を上げて何物かを招いていたその男が先頭に立ちながら。
ラシイヌは急にしっかりとレザールの手を握ったものである。
「見たまえ、先頭のあの男を! 女中に化けて市長の家へ住み込んだのが彼奴だよ」
「それでは女ではないのですね?」
レザールは驚いて訊き返した。
「なんの彼奴が女なものか。それに決して西班牙人でもない」
「ではいったい何者なので?」
「長く欧羅巴にはいたらしいが、たしかに彼奴は東洋人だよ。回鶻人という奴さ」
「回鶻人ですってあの男が? しかし現代の社会には回鶻人という奴はいない筈じゃありませんか」
「歴史上では滅びているが、しかしあの通りいるのだよ」
「いったいどこから来たのでしょう?」
「新疆省の羅布の沙漠、羅布湖のある辺の流沙に埋められた昔の都会! そこから彼奴らはやって来たのだ!」
「で、どこへ行くのでしょう?」
「檻を開放しに行くのだよ。猛獣や毒蛇を檻から出して、マドリッドの市中へ追い放し、深夜の市中を騒がすためにね」
「いずれ理由があるのでしょうな?」
レザールは髪を掻きむしった。
「理由はつまり復讐だ!」
「マドリッドへ復讐するのですか?」
「マドリッドの住人のある一人が、彼らを憤怒させたからさ」
「どんな悪いことをしたのでしょう? そうしてそれは何者です?」レザールは益いらいらした。
「マドリッド市長が彼らの宝の、経文の一部を取ったのだ――つまり発掘したんだね。そこで彼らはその経文を取り返すために出て来たのさ」
「ふうむ」とレザールは呻くように、「市長の書斎を掃きながら、贋物の女中が掃きすてたという、例の紙屑という奴が、その経文の一部ですな?」
「その紙屑を取り返すために、女中に化けて住み込んだり、燐光を放す狛犬を、人工で拵えておっ放し、市長を脅したってものさ」ラシイヌは悠々と説明した。
「私も贋物だと思いました」レザールはいくらか昂奮したが、「……つまり私はこの事件を、こんなように解釈しましたので……」
「話はゆっくり後で聞くが……君はいったい怪物を――燐光を放す怪獣を――何の贋物だと思ったかね?」
「恐らく犬か狼へ、燐光を放す薬品類を塗ったものだと思いました」
「犬か狼かいずれ直きに彼奴の正体は解るだろう。……見たまえ見たまえ回鶻人が、猛獣の檻を開いたから」
見ると彼らは四方に分かれ五つの檻の前へ立ち、パッと一斉に戸を開けた。そして烈しく叱咤した。
「シーッ、シーッ、シーッ、シーッ、シーッ、シーッー」
しかし猛獣は――獅子も虎も、容易に現われては来なかった。
が、その次の瞬間には、五つの檻から猛獣が――猛獣のような真っ黒のものが、吼えながら一時に現われて、回鶻人を取り囲み、彼らを捕えようとひしめいた。
園内は回教徒と警官との格闘の庭と一変した。檻から出たのは警官であった。
「帰ろう」
とラシイヌはゆっくりと門の方へ足を向けた。
「これでもう万事片づいた。後は警官に任せて置こう」
レザールは何んとも云わなかった。ただ黙々と蹤いて歩く。
警官の叱咤、回教徒の怒号、鳥獣の吠え声や啼き声で戦場のような動物園を、見返りもせず二人の者は正面の門から街へ出た。街には何んの異状もない。市民は眠っているらしい。
その時、一台の自動車が、突然横手からあらわれた。警官が数人乗っている。
「とまれ!」とラシイヌは立ち止まって、片手を上げて合図をした。
「どこで怪獣は捕らえたな?」
ラシイヌが笑いながらこう云うと、警官達も笑い出し、
「府庁へ行く道の中央で。……いや飛んでもない怪獣だ」
「レザール君、見るがいい。これが怪物の正体よ」
ラシイヌはレザールを押しやった。
自動車の中には東洋犬の毛皮を冠った人間が、昏々として眠っていた。
レザールはその顔を見詰めたが、
「こりゃ園長のエチガライだ!」
「すなわち怪獣の正体さ――よろしい、諸君、では怪獣を病院へかまわず運んでくれたまえ」
自動車は再び爆音をたて、街路を辷るように走り去った。
「行こう、レザール、じゃさようなら……明日君の家を訪問しよう。その時君の話しを聞こう。今夜は眠いから失敬する」
ラシイヌはクルリと体を向け、横町へズンズンはいって行った。
五
その翌日のことである、ラシイヌとレザールと美術家とが、レザールの室で落ち合った。やっぱり麗かな春の陽が、南欧桜の香と一緒に室の中へいっぱいに射していた。
「……夫人の話を聞いているうちに、動物園長のエチガライが、疑わしいと思いましたので……」
レザールはいくらか恥ずかしそうな、思い違いを恥じるような、感激の伴なわないぼやけた声で、自分の解釈を一通り、ラシイヌに説明するのであった。
「さぐって見ようと思いましたけれど、ラシイヌさんのことですから、私より先に動物園へ行っていらっしゃるに違いないとこの友人のダンチョン君とも噂していたのでございます。するとはたしてあなたから電話がかかったというものです――しかし私はエチガライが、自分で犬の皮を着てマドリッド市中を駆け廻って市長の窓まで行ったとは夢にも想像しませんでした。私はこのように思いましたので――市長もエチガライも探検家だ。ところが市長は財産家で選ばれて市長の職にもついた。そこへエチガライが訪ねて来ると市長は熱心に周旋して園長の職につけてやった。時々金銭の援助もする。普通の友人の情誼としては少しく親切に過ぎるようだ。あるいは二人の間には他人に云われない利害関係が……つまり市長が探検先で不正財宝の発掘でもしてそれで財産家になったのを、あのエチガライが知っていて、世間へ発表しない代りに動物園の園長という立派な位置を得たのではないか? こう思っているとまた夫人が、市長の書斎の紙屑を、エチガライの世話した新米の女中が、掃き出してしまったと云ったのですから、ハハアそれではその紙屑は、不正財宝と関係のある、地図か証書かに相違ない。それを女中に盗ませたのはそれを種にしてきっと市長を脅迫して金でも取ろうとしたのだろう――そうして例の怪獣は、動物園の犬か狼へ人工で燐光を纒わせたもので、それを市長の眼前へ出して、驚かせたというのも、やっぱり脅迫の意味からで、すなわち燐光の怪獣と、不正財宝の間には何らかの脈絡があるのだろう。それを市長が見た以上厭でも応でも脅迫者の自由にならなければならないという、奇怪な弱点であるのかも知れない。そして市長が怪獣を見るや、ROV、湖、埋もれた都会と絶叫したということだから、不正財宝を発掘したのは、支那新疆の羅布の沙漠の、羅布湖のほとりに相違ない。そして市長は尚叫んで、恐ろしい狛犬といったというから、燐光を纒った怪獣はあるいは羅布湖の岸の辺に住民の尊敬する神殿でもあって、そこの社頭の狛犬と深い関係でもあるのかも知れない。とにかく事件の張本は園長エチガライに相違ないとこう睨んだのでございますが、しかしまさか園長自身が怪獣であるとは思いませんでした」
「夫人の話を聞いただけでそこまで看破したところに君の天才が窺われるね」
ラシイヌは愉快そうに頷いたが、
「実はね、僕も、正直のところ、動物園で調べるまでは、やっぱり君と同じようにエチガライを疑っていたものさ。あいつが犯人に違いないとね。ところで僕は君の考えより、一つだけ余分に考えたってものさ。それは燐光の怪獣だが、これには必ず何らかの迷信がからまっているだろうと――そこで図書館へ飛んで行って、回鶻辺に拡がっている土人の迷信を調べて見ると、あったあった大ありだ。あの辺にわずかに残っている、回鶻人の後裔達は――土耳古人との混血児だが――燐光を纒った狛犬を彼らの神の本尊とし、狛犬を祭った神殿に対し、もしも無礼を加えたものは恐ろしい神罰を蒙むるだろうと、こう書いてあるその後へ、神罰の例が二つ三つ記してあったというものさ。神社の財宝を盗める者――狛犬の吠え声を耳に聞き、悪性の熱病にかかるべし。神殿の経文を盗めるもの――狛犬の姿を三度認め、三度目に命を失うべし云々……。
『それでは園長のエチガライは回鶻人の後裔かな?』僕はその時疑ったものだ。とにかく僕は大急ぎで、動物園へ行ったものだ。真っ先に園長に逢って見ると、どうして立派な西班牙人だ。そして可哀そうに大病だ。しかも病気は神経病だ。脅迫観念に捉らわれている。それから女中に逢って見ると、一見土耳古の女だけれど支那人のようなところもある。しかしどのみち混血児だ。僕は何気なく遠くから金貨を一つ投げてやった。すると女中は両足を開けて、腰を曲げながら受け取った。で男だとわかったのさ。投げられた物を受ける時女なら両足を閉じるからね。それから後は君が昨夜、親しく見た通りというものだ。回鶻人という奴は――彼らだけではないけれど、一体に無智の人間ほど不思議な力を持っているもので、彼奴らはつまり妖術者なのだ。催眠術かも知れないが、とにかく一種の法力で、人間の心や体付きまで獣類に一変させるのだよ。……見込まれたのが園長だ。園長は決して悪人ではない。一個の学究に過ぎないのさ。学者という者は馬鹿のようなものだ。融通が利かないで正直だ。そこへ彼奴らはつけ込んだのさ。その上園長は市長の友で市長の家の案内を知り抜いているから好都合だった訳さ。そこで彼奴らは法術で――いわば一種の呪縛だね。園長の意志を縛ってしまって、彼奴らの意志を代わりに注ぎ込み、かねて用意をして置いた細工を凝らした獣の皮をスッポリ園長へ着せてしまって、そこでおっ放したというものだ。こうして市長を脅かしたのさ。経文を盗んだくらいだから、もちろん市長はその狛犬の迷信も知っていたに違いない。燐光を放す狛犬を見てハッと思ったのは当然さ。それに市長は心臓病だ。一度ならず二度三度、そんな狛犬を見たとすると、心臓麻痺を起こすかも知れない。そうしてほんとに死んだかも知れない……ほんとにあぶないところだったよ。それで彼奴らは昨夜を最後に、引き上げようとしていたものさ。行きがけの駄賃に猛獣を放し、憎いマドリッドの市民達を――つまり彼らは東洋人で、あらゆる欧羅巴の人間を人種的に憎んでいるのだからね――食い殺させようと計ったものさ。幸い僕が気がついてすぐ警視庁へ電話をかけ、警官をひそかに呼び寄せておいて、園丁達に云いふくめ、あらかじめ猛獣を檻の中から出しておいたからよかったものの、そうでなかったら市民達の円かな眠りは醒まされたろう」
「しかしどういう方便で回鶻人のあの男が園長と知るようになったのでしょう?」
「そんなことどうだっていいじゃないか。そこが学究の馬鹿な点さ。実はね、ここへ来る前に病院へちょっと寄ったものさ。エチガライ氏にいき逢ってその点について訊いて見ると、その説明が面白い――それはある時エチガライ氏が町を散歩していると、若い女の乞食が来て手の中を乞うたというものだ。と見ると女の容貌が微妙な雑種を呈していて氏の好奇心をそそったので、そのまま家へ連れて来て女中に使っているうちに、友人の市長に懇望され譲ってやったということだった」
「聞いてみれば何んでもありませんなあ」
レザールは思わず呟いた。
「どうです」とラシイヌは画家を見て、「あなたがもしも小説家ならよい小説が出来ますな」
「神秘でそして幽幻で大変面白い材料です。空想画として面白い。燐光を放って走って行く、獣のような人間を、一つ油絵で描きましょうかな」
「獣人というような題にしてね」
ラシイヌは笑って云ったものである。
麗かな春の午後である。
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