二
「……どこからお話し致しましょう? やっぱりずっと最初からお話しした方がよさそうです――先月十日の真夜中でした。午前二時頃ででもございましたでしょうか、突然良人の居間の方から呻くような声が聞こえましたので、しばらく聞き澄ましておりましたところ、それっきり物音が致しません。きっと夢でも見たのだろうと、そのまま眠ろうと致しますと、庭の方へ向いた室の窓が不意に明るくなりましたので吃驚して起きようと致しました。さようでございますね、その光は銀のような光でございました――ところが窓のその光も次の瞬間には消えましたので、起きかかった床へまたはいり夜の明けるのを待ちました。朝のお茶の時に食堂で良人の顔を見ましたところ、大変蒼いじゃございませんか。どこかお体でもお悪くて? 私が訊きますと首を振って、いいやと一言云ったきり、黙ってお茶をのむのでした。そこへ新聞が来ましたので何気なく取り上げて見ましたところ、思いあたる記事がございました。燐光を放す巨大な獣が、昨夜市中にあらわれて、府庁官邸の宅地まで来ると消えてしまったという記事です。私はハッと思いました。それでは昨夜窓に映った銀色をしたあの光は、さては怪獣の光だったのかと……。
『あなたは昨夜変な光を窓からごらんになりませんでして?』私は良人に訊いてみました。すると良人はひどく顫えて蒼白になったじゃありませんか! けれど変化したその表情は、すぐに良人の強い意志で抑えられてしまったのでございますね。良人は冷静にこう云ったものです。
『いいや、そんな光は見なかったよ』
それで私は新聞の記事を良人の方へ向けまして、
『昨夜二時頃この町へ怪獣が出たそうでございますね』
『ふうむ、怪獣? どんな怪獣?』良人は益冷静に、『町の人達の錯覚だろう。燐光を放す獣なんかこの世にある筈はないからな』
『でもねあなた、その光を、昨夜私も見たのですよ』
『お前が見たって、その光を? それじゃお前も錯覚党の仲間入りをしたって云うものさ』
こう云って良人が笑いましたので、私もそのまま安心して黙ってしまったのでございます。
けれどどうやらそれからというもの、良人の様子が沈んでしまって、考え込むようになりました。そんな時私が話しかけましても、ろくろく返辞さえ致しません。そうかと思うと何んでもない時に、お前今何んとか云わなかったかい、などと訊く事がございます。一体の様子が何かこう遠い昔の思い出事に耽ってでもいるように見えまして、気味が悪いのでございます――こんな塩梅でつい昨日まで日を送って来たのでございます……ところが昨夜、いえ今朝です、それも午前の二時頃です、私は再度室の窓が燐の光に反射して、銀色に輝くのを認めました。そこで私は飛び起きて窓の側まで走って行って、首を出して戸外を覗きましたところ……」
夫人はここで声を呑んだ。
「恐ろしい恐ろしい何んて恐ろしいんでしょう! 私は今でも思い出すと夢ではないかと思いますの。どうでしょうほんとに眼の縁だけ燐のような光に輝いている大きな犬のような動物が、良人の居間の窓の枠へ前足を二本しっかりと掛けて、硝子戸越しに主人の居間を覗き込んでいるではございませんか。あやうく叫び声をあげようとしてやっと私は声を呑み、狂人のように手を揉みながら、じっと聞き耳を立てました。良人の室から嗄れた良人の言葉が洩れましたからで……
―― ROV! 湖! ――埋もれた都会! ……帰ってくれ帰ってくれ恐ろしいコ……マ……イ……ヌ――。
嗄れた良人の声の中から私に聞き取れた言葉と云えばただこれだけでございました。それとて私には何んのことだかちっとも意味が解りませんでしたけれど――主人が喋舌っている間中、怪獣は身動き一つせず、じっと聞き澄ましているのでした。主人の声が途切れた時突然怪獣は飛び上がりました。そうして一本の前足を硝子戸の枠へ掛けたかと思うと、どうでしょうスルスルと硝子戸が、横へ開いたではございませんか。良人は叫び声をあげました。そうして床へ倒れたと見えて、ドシンという音が聞こえて来ました。その後の記憶はございません。私も気絶致しましたので」
市長夫人は沈黙した。室がにわかに寂然となった。
「大体事情は解りました」レザールがその時静かに云った。「そこで奥様のご心配は――何よりも奥様のご心配は、市長閣下の健康が以前からあまり勝れていず、現在あまり質のよくない心臓病にかかられている、その点にあるのでございましょうね? ところで閣下のご容態はどんな塩梅でございましょう?」
「おや!」
と夫人はまた呆れて、
「どうしてそんな事ご存知でしょう? 良人の心臓のよくないことは、私以外どなたも知らない筈ですのに」
「しかし探偵というものはこれと思う人と逢った時、ただぼんやりとその人を見守っているものではございません――顔の特徴、体の様子、そしてまた握手などする場合には、その人の脈膊をさえ計ります……市長閣下にお目にかかった時、さすがは有名な探検家として阿弗利加を初め印度、南洋、中央亜細亜、新疆省と、蕃地ばかりを経巡ぐられて太陽の直射を受けられたためか、お顔の色の見事さは驚くばかりでありましたが、さてかんじんの脈膊はというと、どうやら乱れ勝ちでございました。ハハア心臓がお悪いな。その時私は思いましたので」
「おっしゃる通りでございます」夫人は憂わし気に云ったものである。「印度から故郷へ帰りましたのも、その病気のためでございました」
「ところで目下のご容態は?」
「危険というほどではございませんけれど……医者が私に申しますには、もう一度こんなような驚愕を――神経と心臓とをひどく刺戟する病気に大毒な驚愕を最近に経験するとなると、生命のほども受け合われないなどと――あるいは脅かしかも知れませんけれど……」
「ははあそのように申しましたかな?」
レザールは黙って考え込んだ。わずかに開けられた窓の隙から春の迅風に巻きあげられた桜の花弁が渦を巻いて、洋机の上へ散り乱れていたが、ふたたび吹き込んだ風に飛ばされどこへともなく舞って行った。
隣室で時計が十一時を報じ、なま暖かい春陽の光が洪水のように室に充ち窓下の往来を楽隊が、笛や喇叭を吹きながら通って行くのも陽気であった。
夫人は深い吐息をして、
「そういう訳でございますので、燐光を放す怪獣が二度と窓の辺へ来ないように、致したいのでございますけれど、しかしこれを警視庁へ届け、警官の方に来て戴いて邸宅を守ってなどいただいては、事があんまり大仰になり、世間一般に知れましたら良人が意気地なしに見えますし……」
「いかにもさようでございますね――世間一般に知れますより、敵党の連中に知られることが閣下にとっては不得策の筈で」
レザールは片眼をつむりながら、少し皮肉に云ったものである。
「はいその通りでございます……良人が市長になるに付いては大分反対者がございまして、選挙も苦戦でございました……ですから良人が今になって心臓の悪い病人だなどと敵党の人達に知られましたら、乗ぜられないものでもなし、それに犬のようなそんな獣に脅かされたなどと思われましたら、市長の威厳に関しますので」
「それで私達民間探偵にご依頼なさろうとなすったので? いやよく事情はわかりました。出来るだけお力になりましょう」
「どれほど費用はかかりましても、その点はご心配くださいませんように」
夫人は云って口ごもった。レザールは頷いたばかりである。でまた二人は黙り込んだ。
「それで」とレザールは重々しく、「ご依頼の件は怪物が今後一切窓の側へ現われないように警戒する――ただそれだけでございましょうか?」
夫人はちょっと躊躇したが、
「はい、ただそれだけでございます」
「怪物の正体は何であるか? 何故窓の側へあらわれたか? 閣下が怪物を見られた時、何故独り言を洩らしたか? そして何故卒倒なされたか? 調べる必要はございますまいか?」
夫人はまたも躊躇したが、
「いいえ必要はございません」
レザールはその眼をグルグルと廻し、彼独特の悪戯児のような、無邪気だけれど意地の悪い、微妙な笑いを洩らしたものの、夫人の悄れた様子を見るとすぐその笑いを引っ込ませた。
彼は母指の爪を噛み――彼の一つの癖である――天井の方へ眼をやりながら、かなり長い間考えていた。それから夫人へ質問した。
「奥様、あなたはご良人といつ頃結婚なさいましたな?」
「はい、今から一年前、印度に主人がおりました時に……私も印度におりましたので」
「それでは奥様はそれ以前の閣下の行動に関してはご存知ないわけでございますな?」
「良人が話してくれませんので」
「そこでもう一つ最近において――先月十日以前において、誰か様子の怪しいような訪問客はございませんでしたかな? 閣下に対する訪問客で……」
「いいえ、一人もございませんでした。素性の解った方達ばかり他にはどなたも参りませんでした」
「そこでもう一つ閣下におかれては、どなたと一番お親しいので?」
「私と違いまして良人は誰とでも快よく逢いますので来客も多うございますが、探検好きでございますから、やっぱりこれも探検好きのエチガライさんとは特別に親しいようでございます」
「ははあエチガライさんでございますか? 動物園長のエチガライさん?」
「はい、さようでございます」
三
「これは重大のことですが」レザールはにわかに重々しく、「エチガライさんが来られた場合の閣下の態度はどんなようでしょう?」
「大変親しいのでございます。すぐと書斎へ引っ込んで内から扉へ錠を下ろし、一時間でも二時間でも話し合うのでございます。良人がこれまで探検したいろいろの地方から発掘した動物の骨とか瓦とかそんなものを二人で研究したり、それについて二人で議論したり、そしてどうやら二人して著述にでもかかっておりますようで」
「いいことを聞かしてくださいました。大変参考になりそうで」
レザールは親しそうにこう云ったが、
「ところで園長のエチガライさんは、たしか閣下のご周旋で今の位置につかれたということですが?」
「さようでございます。私達が印度を引き揚げて当地へ参り、ものの一月と経たない頃訪ねていらしったのでございまして……」
「どちらから来たのでございましょうな?」
「あの方は良人の友人で、私とは関係がございませんし良人も私にあの方については何とも話してくれませんので、どちらから参られたか存じません――けれど良人にとりましては、大事な人と見えまして、ただ今の地位も見つけてあげるし、金銭上の援助なども、時々するようでございます」
「もう一つお訊ね致しますが、印度から当地へ参られてから、盗難とかまたは紛失とか、そういう種類の災難におかかりなすったことはございますまいか?」
「さあ」と夫人は首を傾げ、しばらくじっと考えていたが、「いいえ、なかったようでございます……けれど、たった一度だけ――いいえ恐らくこんな事は参考になんかなりますまい」
「それはいったいどんなことで?」レザールはかえって熱心に訊いた。
「先月の初めでございましたが、新米の女中が誤まって良人の書斎を掃除しながら、捨ててはならない紙屑を掃きすててしまったとかいうことで、良人が大変な権幕で叱りつけたことがございました」
「すててはならない紙屑を女中が掃きすてたというのですな? ハハアこいつは問題だ! 閣下が憤慨なさる筈だ! そして女中はどうしました? もちろんお宅にはおりますまいが?」
「短気な女中でございまして、叱られたのが口惜しいと云って暇を取って帰ってしまいました」
「行衛は不明でございましょうな?」
「女中の行衛でございますか。いいえ判っておりますので」
「え、何んですって? わかっている? そうしてどこにおるのですかな?」
「エチガライ様のお宅ですの――エチガライ様がその女中を最初にお世話してくださいましたので」
レザールは元気よく立ち上がった。そうして夫人へ頭を下げ、例の微妙な微笑をして、
「奥様、ご安心なさいまし――もう怪獣はこの市中へは、決して姿は出しますまい。出さないようにいたしましょう」
夫人もスラリと立ち上がった。
「それで安心いたしました」こう云って右手を差し出して、レザールにその手を握らせてから、レザールに扉口まで送られて、夫人は室から出て行った。
レザールは椅子まで帰って来たが、さっきから黙って聞いていたダンチョンへその眼をふと注いで、
「どうだなダンチョン、この事件は? 面白い事件とは思わないかな?」
「面白そうな事件だね、どうやら怪物の正体が君には解っているようだね」
「まあそういったところだろう」レザールは腕を組みながら、独り言のように云いつづけた。「市長は有名な探検家で……新疆省へも行った筈だ… ROV の沙漠……埋もれた都会……それからそうだ湖だった……エチガライという変な男……それ前に狛犬があったっけ……怪しい女中……紛失した紙片……燐光の怪獣に市長の気絶……そして市長は心臓病だ……巨万の富を有している――どうだなダンチョン、これだけの事実がこれだけ順序よく揃っていたら、君にだって真相は解るだろう?」
「ところが僕には解らない」
「よっぽど君は鈍感だよ。しかし素人だから仕方がない。……ところで夫人の話しの中で、怪しいと思った人間が君には一人もなかったかな?」
「エチガライという男が怪しいね」
「すなわち動物園長だ! 動物園長が怪しいと見たら君はどういう処置をとるね?」
「何より先に動物園へ行って、園長の様子をうかがうね」
「まずそれが順序だろう……ところで既にラシイヌさんが動物園へは行ってる筈だ……もうすぐ電話のかかる頃だ」
そういう言葉の終えないうちに、卓上電話のベルが鳴った。
「そうら見たまえ! 云った通りだ」
レザールはいそいで受話器を取った。
「モシモシ」と彼は呼びかけた。「ラシイヌさんでございますか? ……私はレザールでございます。あなたから電話のかかるのを待ちかねていたのでございますよ……え、何んですって? 市長夫人? 市長夫人でございますか? 市長夫人はさっき参って今帰ったばかりでございます。大分心配しておりました……それで、事件の真相は、解決なすったのでございましょうね? ……今まで手がけた事件のうちでこんな楽な事件はございませんので。全く一目瞭然です……ところで、ところで……え、何んですって? 私を馬鹿だとおっしゃるので?」レザールはひどく驚いて耳へあてた受話器を下へ置いた。がまたあわてて耳へあてた。ラシイヌの声が聞こえて来る……。
「……今まで手がけた事件のうちでこんな楽な事件はございませんて? 箍が弛んだぞ、おい、レザール! 君はまるっきりこの事件の性質というものを知ってないな! 表面きりしか見ていないな! だから暢気でいられるんだ! 君はほんとにおめでたいよ! 君はまるっきり赤ん坊だ! 事件の奥の奥の方をちょっとでも君が覗いたら君はおそらく恐ろしさにそれこそ気絶してしまうだろう! 君はこの事件の根本をいったい何んだと思っているんだ? 恋愛でもなければ金でもない! もっと執念深い、もっともっと破天荒な人種と人種との争いなんだぜ! そうして、いいかい、しかも今夜、僕達がうっかりしていようものなら、このマドリッドの市民達の数百人は殺されるのだ! そうして、いいかい、この市中は、猛獣毒蛇の巣になるのだ――で君に命令する! 今夜二時にどうあっても動物園まで来てくれたまえ。いいかいレザール、忘れるなよ。僕の命令と云うよりもマドリッド市民の命令なのだ! 命令というより懇願なのだ!」
ラシイヌの電話はここで切れた。レザールは両腕を組んだまま、深い疑惑に陥入った。
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