良人を慕って
お力が、総司の為の薬を貰って、浅草今戸の、松本良順の邸を出たのは、それから数日後の、午後のことであった。門の外に、八重桜の老木があって、ふっくりとした総のような花を揉付けるようにつけていた。お力がその下まで来た時、
「松本良順先生のお邸はこちらでございましょうか」
という、女の声が聞えた。見れば、自分の前に、旅姿の娘が立っていた。
「左様で」
とお力は答えた。
「新選組の方々が、こちらさまに、お居でと承りましたが……」
「はい、近藤様や土方様や、新選組の方々が、最近までこちらで療治をお受けになっておられましたが、先日、皆様打揃って甲府の方へ――甲州鎮撫隊となられて、ご出立なさいました」
「まア、甲府の方へ! それでは、沖田様も! 沖田総司様も」
悲痛といってもよいような、然ういう娘の声を聞いて、お力は改めて、相手をつくづくと見た、娘は十八九で、面長の富士額の初々しい顔の持主で、長旅でもつづけて来たのか、甲斐絹の脚袢には、塵埃が滲んでいた。
「失礼ですが」
とお力は云った。
「あのう、お前様は?」
「はい、千代と申す者でございますが、京都から沖田様を訪ねて……」
「まあ、お前様がお千代さん……」
「ご存知で?」
「いえ」
と、あわてて打消したが、お力は(これが、総司さんが、眠った間も忘れないお千代という女なのか。……総司さんは、お千代は、恋患いで寝込んでいるだろうと仰有ったが、寝込んでいるどころか、東海道の長の道中を、清姫より執念深く追って来たよ。……どっちもどっちだねえ)と思うと同時に、ムラムラと嫉妬の情が湧いて来た。それで、
「はい、沖田様も新選組の隊士、それも助勤というご身分、近藤様などとご一緒に、甲府へご出発なさいましたとも」
と云い切ると、お千代を掻遣るようにして歩き出した。しかし五六間歩いた時、気になるので、振返って見た。お千代が、放心したような姿で、尚、松本家の門前に佇んでいるのが見えた。(態ア見やがれ)と呟きながら、お力は歩き出した。でも矢張り気になるので、又振返って見た。一時に痩せたように見えるお千代が、松本家から離れて、向うへトボトボと歩いて行く姿が見えた。(京都へ帰るなり、甲府へ追って行くなり、勝手にしやがれ。総司さんは妾一人の手で、介抱し通すってことさ)と呟くと、足早に歩き出した。
浅草から千駄ヶ谷までは遠く、お力が、植甚の家付近へ迄帰って来た時には、夜になっていた。
「お力」
と呼びながら、身長の高い肩幅の広い男が、大榎の裾の、藪の蔭から、ノッソリと現われて来た。その声で解ったと見え、
「嘉十さんかえ」
と云ってお力は足を止めた。
「うん。……お力、何を愚図愚図しているのだ」
「あせるもんじゃアないよ」
「ゆっくり過ぎらア」
「それで窓へ石なんか投げたんだね」
「悪いか」
「物には順序ってものがあるよ」
「惚れるにもか」
「何んだって!」
「お前の身分は何なんだい」
「長州の桂小五郎様に頼まれた……」
「隠密だろう」
「あい」
「そこで細木永之丞へ取入った」
「新選組の奴等の様子さぐるためにさ」
「ところが永之丞にオッ惚れやがった」
「莫迦お云い。……彼奴の口から新選組の内情聞いたばかりさ……池田屋の斬込へも、彼奴だけは行かせなかったよ」
「手柄なものか。……彼奴の方でも手前にオッ惚れて、ウダウダしていて、機会を誤ったというだけさ」
「そのため永之丞さん斬られたじゃないか。……新選組の奴等を一人でも減らしたなア妾の手柄さ」
「ところが手前、今度は永之丞を斬った沖田総司を殺すんだと云い出した」
「池田屋で人一倍長州のお武士さんを斬った総司、こいつを討ったら百両の褒美だと……」
「懸賞の金を目宛てにして、総司を討ちにかかったというのかい。体裁のいいことを云うな。そいつア俺の云うことだ。手前は、可愛い永之丞の敵を討とうと、それで総司を討ちにかかったのさ。……そんなことは何うでもいいとして、その手前が何処がよくて惚れたのか、総司に惚れて、討つは愚、介抱にかかっているからにゃア、埒があかねえ。……お力、総司は俺が今夜斬るぜ!」
と、佐幕方の、目明文吉に対抗させるため、長州藩が利用している目明の、縄手の嘉十郎は云って、植甚の方へ歩きかけた。
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