9
「なるほど」と私は心の中で云った。
「従来の美学から云う時は、これは将しく非審美的の顔だ。女や子供には喜ばれまい。だがしかしこの顔こそ、本当の人間の顔ではないか」
基督の肖像と並べて見た。洵に面白い対照であった。信仰、柔和、愛、忍従、これが基督の肖像に、充ち溢れている特徴であった。全体が細身で美しく、古典的に調っていた。力が非常に弱かった。虚無、憤怒、憎悪、反抗、これがユダの肖像に、行き渡っている特色であった。全体が野太く荒削りで、近代的に畸形であった。力が恐ろしく強かった。
「これは極端と極端だ、両立すべきものではない。師弟となるべきものではない。相克するのは当然だ。基督といえどもユダの上へ、君臨することは出来ないだろう。ユダといえども基督の上へ、君臨することは出来ないだろう。互いに領分をもっている。で、基督へ行きたい人は、行って安心をするがいい。で、ユダへ行きたい人は、行って何かを掴むがいい。[#「掴むがいい。」は底本では「掴むがいい、」]だが基督へ行った人は、去勢されるに相違ない。奴隷根性になるだろう。その代わり安心は出来るだろう。しかしユダへ行った人は、革命的精神を動られるだろう。そうして世間から迫害されるだろう。一生平和は得られないだろう」
基督とユダとを比べることによって、私はちょっと瞑想的になった。
一つ一つ紋章を調べて行った。その結果私は十二使徒と、耶蘇基督との肖像を、三十枚の貨幣のその中から、苦心して選択をすることが出来た。まだ後十七枚残っていた。どれにも肖像が打ち出されてあった。それも間もなく知ることが出来た。
モーゼ、アブラハム、ヨブ、ソロモン、ダビデ、サムソン、ヨシュヤ、サムエル、エリヤ、その他の人々で、いずれも旧約聖書中の、大立者の肖像であった。肖像の下に有るか無い程の小さい小さい横文字で、署名書きがしてあったからで。
「猶太の古代貨幣なら、猶太文字で署名がしてあるはずだ。ところが英語で署名してある。これ一つでもこの銀貨の、贋物ということが証明できる」
私は思わず呟いた。
「いいえ」とその時妻が云った。
「え?」と私は顔を上げた。
紋章の研究に心を奪われ、彼女の事を忘れていた。
「お前何とか云ったかい」
彼女は返事をしなかった。彼女の表情には変なものがあった。眼が銀貨に食い付いていた。燃えるような熱のある眼であった。頬が病的に充血していた。ふっと彼女は私を見た。疑惑に充ちた眼であった。
「貴郎」と彼女は叱るように云った。
「何人からお借りしていらしったの? こんな妙な気味の悪いものを」
「気味が悪いって? どうしてだい?」
いわゆる唖然とした心持で、聞き返さざるを得なかった。
「贋金なんだよ、古代猶太のね」
「ねえ貴郎」と彼女は云った。
「何人からお借りしていらしったの? 聞かせて下さいよ。さあ直ぐに」
厳粛と云いたいような声であった。彼女にそぐわない声であった。
「佐伯って人だ。佐伯準一郎」
何だか私は不安になった。
「立派な紳士だよ、蒐集家なんだ」
「佐伯準一郎? 聞かない名ね。だって貴郎のお友達の中には、そんな名の方はなかったじゃアないの?」
私は急に厭になった。
「また何かを嗅ぎ付けやがったな、ほんとに仕方のない目っ早小僧だ! だが今度はお生憎様さ、ちょっとも引け目なんかないんだからな」
こんなように考えた。
で、私はやっつけるように云った。
「これから俺の人名簿へ、新しく記けようっていう友人なのさ」
「ねえ貴郎」と彼女は云った。
「どうしてどこでお友達になって?」
「公園でだよ。鶴舞公園でね」
「いつ?」と彼女は追っかけて訊いた。叱るような声であった。
危うく反感を持とうとした。しかし私は差し控えた。不安どころか悲しみをさえ、彼女の顔に見たからであった。
「今日の昼さ。病院の帰りにね。……何だかひどく心配そうだなあ。その可愛い凸ちゃんを、心配させちゃア可哀そうだ。よし来た詳しく話してやろう」
――私はバセドー氏病の患者であった。毎週一回病院へ通って、かなり強いレントゲンの、放射を受けなければならなかった。その往復に公園を通った。鶴舞公園はいい公園で、日比谷以上に調っていた。一つのロハ台へ腰を掛け、好きなラ・ラビアを喫かすのが、夏以来の習慣であった。
冬も冬、一月中旬、冷たい風が吹き迷っていたのに、この習慣は止められず、その日も私はロハ台に倚って、ラ・ラビアを喫かしていた。
10
その時毛皮の外套を着た、四十五六の立派な紳士が、私の横へ腰を掛け、ゆるやかに葉巻を喫かし出した。
「あの大変失礼ですが、貴郎は美術家ではいらっしゃいませんか?」
紳士が卒然話しかけた。
「いえ」と私は素っ気なく云った。
私は私の趣味として、商売のことを訊かれるのと、年齢のことを訊かれるのとを、好まないばかりか嫌っていた。そうして私はそんなように、見知らない人から話しかけられるのを、これまた趣味として好まなかった。
紳士は外套の内衣兜から、ゆっくり名刺入れを取り出した。一揖すると名刺を出した。
「私、佐伯と申します。最近欧羅巴から帰りましたもので」
これは益々私にとっては、好ましくない態度であった。洋行帰りがどうしたんだ! あぶなく心で毒吐こうとした。しかしそいつをしなかったのは、その佐伯という紳士の態度が、よい意味における慇懃で、こしらえた所がなかったからであった。
私も名刺を手渡した。
「おやそれでは一條さんで。よくお名前は存じて居ります。たしかお作も見たはずです。いや私は最初から、芸術家でいらっしゃると思っていました。それでお言葉を掛けましたので。全く芸術家の方々には、一つの型がございますのでね」
この言葉は中っていた。芸術家には型があった。たいして愉快な型ではないが。
「はなはだ突然で不作法ですが、ご迷惑でなかったら拙宅へ、これからおいで下さるまいか。お見せしたい物がありますので、恐らくお気にも入りましょう。実は私は好事家でしてな、その方面ではかなり広く、海外へも参って居りますので。相当珍品も集まって居ります。宅は公園の直ぐ裏で。ええそうです××町です。ナーニご遠慮にゃア及びません。私の方から見て頂きたいので。訳の解らない骨董屋などより、芸術家のお方に見て頂いた方が、どんなに有難いか知れません。物を集めるということは、自分の趣味性を充たすと同時に、やはり具眼者に見て頂いて、その批評を承わるのが、目的の一つでございますからね」
佐伯準一郎氏はこんなことを云った。
慇懃で如才なくて魅力的で、断わりかねるような云い方であった。そこで私は行くことにした。こうして私の見せられたのは、伝説の銀三十枚であった。
11
私の話を聞いてしまうと、妻は一層不安そうにした。
「それでお借りしていらっしゃったのね。まあ本当に仕方のない方!」
バタバタと階下へ下りて行った。
箪笥を引き出す音がした。
彼女は書斎へ帰って来た。
「さあ比べてご覧なさい」
彼女は指環を投げ出した。
「ね、白金じゃアありませんか」
指環は白金に相違なかった。それが白金であるがために、彼女はそれを虎の子のように、奥深く秘蔵していたものである。私は二つを比べてみた。銀三十枚と指環とを。
私は変に寒気立った。二つは全く同じであった。
「おい、こいつア同じだ」
「贋金でなくて白金よ」
「この大きさでこの重さ……」
「数にして三十枚よ。さあお金に意もったら[#「意もったら」はママ]? ああ妾にゃア見当がつかない」
「おい、自動車を呼んで来い!」
一人で行くのは怖かった。と云うよりも妻の方で、うっそり者のこの私を、一人でやるのが不安だったらしい。
で、自動車へは二人で乗った。
私の両手と彼女の両手とが、革財布を抑えていた。
考え込まざるを得なかった。
「これは何かの間違いなのだ。でなかったら陰謀だ。どうぞ陰謀でないように。俺は問題にならないとしても、聡明らしい佐伯氏が、贋金と白金とを見分けぬはずはない。知っていて俺に借したのだ。しかしあんな猪牙がかりに、借せるような物じゃアないはずだが。金銭に直して幾万円? 箆棒めえ借せられるものか! だが借したのは事実なのだ。……曰くがなけりゃアならないぞ……」
私達のタクシは駛っていた。彼女は物を云わなかった。夜は十二時を過ごしていた。何という町の冬霧だ。とうとうタクシは公園へ来た。その公園を突っ切った。××町まで遣って来た。こんな飛んでもない贋金は、早く早く返さなければならない!
「停めろ!」と私は呶鳴るように云った。
徐行し、そうして停車した。
「どのお家! 佐伯さんのお家は?」
妻が私に呟いた。私は窓から覗いて見た。
「ご覧」と私は唾を飲んだ。
「赤い警察の提燈が、チラツイているあの屋敷だ」
妻も唾を飲んだらしい。運転手が扉を開けようとした。
「待て」と私は嗄声で制した。窓のカーテンを掻い遣った。妻の鬢の毛が頬に触れた。
佐伯家の厳めしい表門が、一杯に左右に押し開けられていた。赤筋の入った提燈が、二つ三つ走り廻っていた。遠巻きにした見物が、静まり返って眺めていた。門の家根から空の方へ、松の木がニョッキリ突き出していた。遥かの町の四つ角を、終電車が通って行った。
刺すような静寂が漲っていた。
「おい、運転手君、引っ返しておくれ」
――で、タクシは引っ返した。
彼女は何とも云わなかった。彼女の肩が腕の辺りで、生暖かく震えていた。
何か捨白が言いたくなった。
「捕り物の静けさっていうやつさね。旅行しますと云ったっけ。ははあ刑務所のことだったのか。佐伯君、警句だぞ」
勿論腹の中で云ったのであった。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 下一页 尾页