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書院へ帰って来た日置正次は、あッとばかりに驚かされた。蒔絵の燭台に燈火がともり、食机の上に盆鉢が並び、そこに馳走の数々が盛られ、首長の瓶子には酒が充たされ、大盞が添えられてあり、それらの前に刺繍を施した茵が、重々と敷かれてあったからである。
「ほう」と正次は声を洩らした。
「これは一体どうしたことだ?」
しかし直ぐに感づいた。
(さっきの女性と老人とが、この館に住む人々で、その人々がこの身に対し、心尽くしをしたのであろう)
「忝けのう[#「忝けのう」は底本では「恭けのう」]ござる、頂戴仕る」
どこにも人影は見えなかったが、いずれどこかでこっちの進退を、仔細に観察しているだろうと、こんなように考えられたところから、こうつつましく礼を云い、それから瓶子を取り上げて、酒を注ぎ盞を取った。で、悠々と酒を飲み、数々の料理に箸をつけた。その間も館内は寂然としていて、全く人の気勢はなく、人家に離れているところから、他に物音も聞こえなかった。充分に腹を養ったため、とみに正次は精気づき、心ものびのびと展がって来た。で、のんびりと部屋を見廻した。
「ほう」とまたも正次は、思わず声を洩らしてしまった。
見れば背後の床ノ間に、倍実筆の山水の軸が、大きくいっぱいに掛けられてあり、脇床の棚の上には帙に入れられた、数巻の書が置かれてあり、万事正式の布置であって、驚くことはなかったが、ただ一つだけ床ノ間に、陰陽二張の大弓と、二十四條の箭を納めたところの、調度掛が置いてあったことが、正次の眼を驚かせた。しかも定紋は菊水であった。
「ム――」と何がなしに正次は唸って、調度掛の前へいざり寄った。
その同じ夜のことであった。異装の武士の大衆が、京の町を小走っていた。人数は三十五人もあったが、いずれも一様に裸体であり、髪は散らして太い縄で、結び目を額に鉢巻し、同じく荒縄を腰に纏い、それへ赤鞏の刀を差し、脚には黒の脛巾を穿き、しかも足は跣足であった。が、その中のは脛へばかり、脛当をあてた者があり、又腕へばかり鉄と鎖の、籠手を嵌めたものがあり、そうかと思うと腰へばかり、草摺を纏った者があった。手に手に持っている獲物といえば、鉞、斧、長柄、弓、熊手、槍、棒などであった。先へ立った数人が松明を持ち、中央にいる二人の小男が、蛇味線を撥で弾いていた。
頭領と見える四十五六の男は、さすがに黒革の鎧を着、鹿角[#ルビの「かづの」は底本では「かずの」]を打った冑を冠り、槍を小脇にかい込んでいた。
この一党は何物なのであろう? いわば野武士と浪人者と、南朝の遺臣の団体なのであった。応仁の大乱はじまって以来、近畿地方は云う迄もなく、諸国の大名小名の間に、栄枯盛衰が行なわれ、国を失った者、城を奪われた者が、枚挙に暇ないほど輩出した。その結果禄に離れた者が夥しいまでに現われた。すなわち野武士浪人が、日本の国中に充ちたのである。それ以前から足利幕府に、伝統的に反抗し、機会さえあったら足利幕府に、一泡吹かせようと潜行的に、策動している南朝方の、多くの武士が諸方にあった。すなわち新田の残党や、又、北畠の残党や、楠氏の残党その者達である。で、そういう武士達は、時勢がだんだん逼塞し、生活苦が蔓延するに従い、個人で単独に行動していたのでは、強請、押借というようなことが、思うように効果があがらなくなったのと、いうところの下剋上――下級の者すなわち貧民達が、上流の者を凌ぎ侵しても、昔のようには非難されず、かえって正当と見られるような、そういう時勢となったので、そこで多数が団結し、何々党、何々組などと、そういう党名や組名をつけて、紳の館や富豪の屋敷へ、押借りや強請に出かけて行くことを、生活の方便とするようになった。
ここへ行く一団もそれであって、「あばら組」という組であり、頭目は自分で南朝の遺臣、しかも楠氏の一族の、恩地左近の後統である、恩地雉四郎であると称していたが、その点ばかりは疑わしかったが、剽悍の武士であることは、何らの疑いもないのであった。
この一団が傍若無人に、それほど夜も更けていないのに、京都の町をざわめきながら、小走りに走って行くのであった。
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