十四
「さあ今度は貴様が訊け」大男はとうとう我を折った。
「よし訊くぞよ、答えるがいい。……大きくて小さく、形あって形ない。これは何んだ? さあ答えろ!」
紋太夫は大喝した。
「むう」と云ったが大男は返辞をすることが出来なかった。
「どうだ?」と紋太夫は嘲笑い、「返辞が出来ずば関を通せい」
「仕方がねえ。通るがいい」
大男は片寄った。そこを眼がけて駈け抜ける。
「大きくて小さく、形あって形なし、――どうも俺には解らねえ。いったいこれは何者だな?」
大男は訊いたものである。
「実は俺にも解らねえのさ! そんな物は世にあるまい。アッハハハ」と駈け過ぎる。
「いやはや馬鹿な奴ではある。うまく一杯食いおったわい」
こう心地よげに呟きながら、松火の光で道を照らし先へ先へと進んで行った。
とまた遙か行く手に当って蒼白い光が見えて来た。近付くままによく見れば、肥えた傴僂の老人が岩に一人腰掛けている。背後の岩壁を刳り抜いてそこに灯皿が置いてあったが、そこで灯っている獣油の火が蒼然と四辺を照らしている態は、鬼々陰々たるものである。
と見ると老人の足もとに深い穴が掘ってある。
消え入るような悲しそうな声で何やら老人は話しかけた。しかし紋太夫には解らない。彼は手真似で訊き返した。
「足を洗わせてくださいませ」こう老人は云っているのであった。「諸人の足を洗うのが私の役目でござります。罪障消滅のそのために足を洗わせてくださりませ」繰り返し老人は云うのであった。
「変わった事を云う奴だな。これは迂濶には信じられぬ」心中怪しく思いながら、紋太夫は思案した。「岩から泉水が流れている。ははあこの水で洗うのだな。……ここに深い穴がある。穴! 穴! これが怪しい」
この時忽然彼の心へ、老人の姦計が映って見えた。「ううむそうか。よく解った。そっちがそういう心なら、こっちはその裏を掻いてやろう」
つと紋太夫は片足を老人の前へ突き出した。とたんに老人は膝を突き、その足首を掴んだが、真っ逆さまに紋太夫を穴の中へ投げ込もうとした。
「えい!」と云う裂帛の声、紋太夫の口から※[#「しんにゅう+奔」、189-5]しると見るや、傴僂の老人の小さい体は、幾十丈幾百丈、底の知れない穴の中へもんどり打って蹴落とされた。
「人を咒わば穴二つ、いい気味だ、態ア見ろ」
じっと穴の中を見込んだが、文目も知れぬ闇の底から冷たい風が吹いて来るばかり、老人の姿は見えなかった。
「なるほど巫女の云った通り、小気味の悪い悪人どもが到る所に蔓延っているわい」――油断は出来ぬと心を引き締め、松火の火を打ち振り打ち振り紋太夫は進んで行く。
奇数、偶数、奇数、偶数! ――幾百ないし幾千本、どれほど枝道が現われようと、彼は驚きはしなかった。奇数、偶数と行きさえすれば迷う心配がないからである。
今の時間にして十時間余り、道程にして十二、三里、紋太夫は歩いたものである。その時洞然と打ち開けた広い空地が現われた。それは空地と云うよりもむしろ一個の別天地であった。丘もあれば林もあり人家もあれば小川もある。蛍の光か月光か、蒼澄んだ仄かな微光が、茫然と別天地を照らしているが何んの光だか解らない。
どこからともなく人声がする。と歌声が聞こえて来た。その歌声を耳にすると紋太夫はアッと仰天した。日本の言葉で日本の歌を鮮かに歌っているからであった。
「おおここには日本人がいる! ここはいったいどこだろう?」
夢に夢見る心地と云うのはこの時の紋太夫の心持ちであろう。歌声は益はっきりと、益美しく聞こえて来る。紛れもない日本の歌だ。
「ここはいったいどこだろう」
紋太夫は感にたえ思わず繰り返して呟いた。しかり! ここはどこだろう?
壺神様を奉安した神秘崇厳の神境なのである!
壺神様とは何物ぞ? それには一場の物語がある。
十五
昔々遙かの昔に、墨西哥の国ガイマスの地にガイマス王という国王があった。その王子を壺皇子と云ったが、早く母上と死に別れ、継母の手で育てられた。多くの継母がそうであるようにこの継母も継子を憎みどうぞして壺皇子を殺そうとした。
壺皇子八歳の時であったが、天変地妖相継いで国内飢餓に襲われた。その時継母は国王に云った。
「神のお怒りでござります。神様が何かを怒らせられ飢餓を下されたのでござります。大事な宝を犠牲として、お怒りを和めずばなりますまい」
「犠牲には何を捧げような?」
「一番大切な宝物を」「一番大切な宝物とは?」「壺皇子をお捧げなさりませ」
「なるほど俺の身にとって皇子より大事なものはない。皇子を捧げずばなるまいかな」
「皇子を犠牲となされずば神の怒りは解けますまい」
「人民のため国家のため、それでは壺皇子を捧げる事にしよう」
王は悲しくは思いながらも継母の甘言に心迷い壺皇子を犠牲にすることにした。
祭壇が築かれ薪木が積まれ犠牲を焚く日がやって来た。八歳の壺皇子がそれとは知らず嬉々として祭壇へ上った時火が薪木へ掛けられた。しかし神は非礼を受けず忽ち奇蹟を現わされた。忽然巨大な一振りの剣が雲の中から現われ出たが、まず継母の首を斬り、次いで壺皇子を束へ乗せ、どことも知れず翔け去ったのである。
剣は皇子を乗せたままチブロン島まで翔けて来たが、そこで一旦地上へ下り、さらに虚空を斜めに飛び窟の中へ飛び込んだ。
この神秘境へ来たのである。
活ける剣は窟の中で壺皇子を人知れず養育した。皇子の寂寥を慰めるために人界から人間を連れて来た。その人間は次第に殖え、ここに部落を形成った。
そこで壺皇子はその部落の帝王として君臨した。
部落は平和に富み栄え、壺皇子は数百年活き延びたが、天寿終って崩御するや、人民達はその死骸を林の中へ埋葬し神に祀って壺神様と云った。御神体は活ける剣である。
その後部落は一盛一衰、幾多変遷はあったものの、今に及んで絶えることなく、不思議な国家として存在した。――以上は島の土人によって、今も語られる伝説なのである。
それはそれとして、部落の中から、日本の歌の聞こえるのは何んと解釈したものであろう?
「何んという不思議なことだろう?」
小豆島紋太夫は佇んでしばらく歌声に耳を澄ました。
「歌の主を探し当てよう。それが何よりの急務である」
――で、紋太夫は足を早め、声のする方へ辿って行った。
行くに従って歌声は次第にハッキリ聞こえて来た。歌の文句も聞き取れた。
「あれは万葉の古歌ではないか。これはどうでも歌の主は日本の人間に相違ない」
こう考えて来て紋太夫は怪しく心の躍るを覚えた。彼はとうとう駈け出した。
林の中へはいった時、石に腰かけた土人老婆が、無心に歌をうたっているのを、微光の中に見て取った。
「や、日本の人間ではない!」
紋太夫は叫んだものである。と、老婆は歌を止め、紋太夫をつくづく眺めたが、流暢な日本語で話しかけた。
「おおあなたは日本人ですね」
「さよう、私は日本人」
「助けてください助けてください!」
老婆は大地にひざまずき、日本流に合掌した。
「助けてやろうとも助けてやろうとも、しかし何を助けるのです」
「妾は聖典を盗まれました」
「何、聖典! 聖典とは?」
「それには諸の尊い智恵が記されてあるのでございます」
「そうして誰が盗んだのだ?」
「旅籠屋の主人でござります」
「その旅籠屋はどこにある!」
「林の奥でござります」
「では俺が取り返してやろう」
「どうぞお願い致します。どうぞお願い致します」
「それにしても不思議だな。どうして日本語を知っておるな?」
「それには訳がございます。いずれお話し致します。聖典をお取り返しくださいませ」
「心配するな。取り返してやる」
紋太夫は林を分け奥へ奥へと進んで行った。
「重ね重ね不思議なことだ。いろいろの事件にぶつかるわい」
行っても行っても深い林は容易に尽きようとはしなかった。
十六
建物の様子でそれと知れる土人旅籠の前まで来た時、その戸口から一人の土人が、笑いながら現われた。筋骨逞しい若者である。
何か紋太夫へ話しかけたが、土人語で要領を得ない。
そこで、度々の経験で、今はすっかり熟達している、例の手真似で紋太夫はその若者へ話しかけた。
「お前の所は旅籠屋かな?」「はいさようでございます」
「どうだ俺を宿めてくれぬか?」「どうぞお宿まりくださいますよう」
「どんな物を食わせるな」「いろいろご馳走致します」
「で、上等の部屋はあるか」「聖典の間へお宿めしましょう」
「聖典の間? おおそうか」紋太夫は頷いた。
「では俺を宿めてくれ」「さあ、おいでなさりませ」
若者の後に従って紋太夫は家内へはいって行った。はいった所に部屋があり、部屋には無数の土人がいた。ガヤガヤ喚きながら酒を飲んでいる。残忍酷薄な表情をした見るから恐ろしい土人どもである。
それからさらに二つ三つ大きな部屋を通ったが、やがて通された部屋を見ると、別に変わったこともない。床と天井とが石で出来ている。床に巌丈な寝台がある。寝台の側に卓があり、その上に書物が載せてある。羊皮紙で作った厚い書物で、表紙には漢文字で「明智篇」と記されてある。
「はてな」と呟くと紋太夫はまず寝台へ腰を下ろし、それから書物を取り上げた。書かれてあるのは漢文であった。
「范邸は浚儀の令たり。二人絹を市に挟み互いに争う。令これを両断し各一半を分ちて去らしめ、後人を遣わして密かにこれを察せしむ。一人は喜び、一人は慍る色あり。ここにおいて喜ぶ者を捕らう。はたして賊也」
「魏の李恵、雍州に刺史たり、薪を負う者と塩を負う者とあり。同じく担を弛めて樹蔭に憩う。まさに行かんとして一羊皮を争う。各背に藉ける物と言う。恵がいわく、これ甚だ弁じ易しと。すなわち羊皮を席上に置かしめ、杖をもってこれを撃つ。塩屑出ず。薪を負う者すなわち罪に服す」
「相伝う、維亭の張小舎、善く盗を察すと。たまたま市中を歩く。一人の衣冠甚だ整いたるが、草を荷う者に遭うて、数茎を抜き取り、因って厠にゆくを見る。張、その出ずるをまって、後ろよりこれを叱す。その人惶懼す。これを掬すれば盗なり」
「またかつて暑月において一古廟の中に遊ぶ。三、四輩あり。地に蓆して鼾睡す。傍らに西瓜あり。劈開して未だ食わず。張また指さして盗と為して擒う。はたしてしかり。ある人その術を叩く。張がいわく、厠に入るに草を用う。これ無頼の小人。その衣冠も必ず盗み来たるもの。古廟に群がり睡るは、夜労して昼疲る。西瓜を劈くはもって蠅を辟くるなりと」
「なるほど」と紋太夫は呟いた。
「支那の昔の賢人の逸話を書き集めた書物と見える。昔の人は利口であった。……老婆の話しの聖典とは恐らくこの書物のことであろう。この書物をさえ手に入れればここに止どまる必要はない」
紋太夫は立ち上がった。それからツカツカと戸口へ行った。戸には錠が下ろされてある。外から下ろされているのである。見廻すと一つ窓があった。
彼は窓へ飛んで行った。窓にも錠が下ろされてある。外から下ろされているのである。彼は捕虜にされたのだ。完全に監禁されたのである。
彼は思わず唸ったが、どうする事も出来なかった。再び寝台へ腰を下ろし、心を静めて考えようとした。その時、石の天井が徐々として下へ下がって来た。
「あっ」と紋太夫は声を上げた。「南無三宝! 計られた! さては圧殺すつもりだな」
石の天井はきわめて静かに下へ下へと下りて来る。間もなく天井は下りきるであろう。彼は圧殺されるであろう。どこからも遁がれる道はない。手を空しゅうして殺されなければならない。
十七
陰気な、鈍い、気味の悪い、キ――という軋り音を立てながら、一刻一刻、徐々として、釣天井が下がって来る。重い重い釣天井だ。それに圧されたら命はない。平目のように潰されなければならない。
豪勇小豆島紋太夫もどうすることも出来なかった。「俺の命もここで終えるか」――こう思うと残念ではあったが、遁がれ出ることも出来そうもない。床は部厚の石畳であり四方の壁も石である。たった一つの戸口の扉には外から閂がおろされてある。……キー、キー、キー、キー、天井は央まで下りて来た。
紋太夫は切歯したものの、坐っていることが出来ないので、ぴったり石畳へ横臥した。間もなく天井は部屋の高さの三分の二まで下がって来た。しかも尚も下がり止まない。やがて紋太夫は背の辺へ天井の重さを感じるようになった。とうとう天井が彼を殺すべく背まで下がって来たのである。
「もういけねえ」と紋太夫は観念の眼を堅く閉じた。「大日本国の武士が、異国も異国南米の蛮地の、しかも不思議な窟の中の日の目を見ない妖怪国で、野蛮人どもの姦計に落ち、釣天井に圧殺されようとは! 無念も無念、残念ではあるが、これも、天命のしからしむるところか。――あ、苦しい! 息詰まるわい!」
もう一押し押されたなら、紋太夫の体はひとたまりもなく、粉微塵になろうと思われた。と、その時、彼の寝ている厚い石畳の真下に当たって、コツコツコツコツと音がした。
こういう危険の場合にも、紋太夫は正気を失わない。「はてな?」と耳を傾むける。
コツコツコツコツとその音は、次第次第に高くなったが、ザーッと土でも崩れるような騒がしい音が聞こえたとたん、グラグラと、石畳は左右に揺れ、そのままドーンと下へ落ちた。あっ! と思う暇もない、紋太夫の体は宙を飛んで、どっと床下へ落ちたものである。
「ああ助かった!」
と紋太夫は、思わず歓喜の声を上げ、忙がしく四辺を見廻すと、石畳の外れた跡の穴から、仄々射し込む光に照らされ、朦朧と四方は明るかったが、見れば自分のすぐ側に一人の男が立っている。
土人でもなければ日本人でもない。長崎あたりでよく見掛ける、それは西洋の人間であったが、いかにも意外だと云うように紋太夫の顔を見守っている。これぞ他ならぬジョージ・ホーキン氏で、同氏が酋長オンコッコのため神殿の床下へ押し込められたことは、すでに説明した筈であるが、その後同氏はその床下に地下道のあることを発見し、死中に活路を得ようものと無二無三に突き進んだ結果、ほとんど一昼夜を費したところで、その地下道がこの地点で行き詰まったことを発見した。そこでふと天井を眺めて見た。と、平石が並べてある。長い年月を経たものと見えて石と石とのその間にわずかながらも隙間があって、そこから光が洩れていたのでさては地上へ出られようも知れずと、饑えと、乾きと疲労とで、弱っているにも拘らず夢中で土を掘ったのであった。果然平石が落下して、穴の開いたのはよいとして、それと一緒にいとも凛々しい立派な人間が落ちて来ようとは思い設けないことであった。
その落ちて来た人間が、土人でもなければ自分の味方でもなく、東洋の武士だということが一層彼を驚かせた。
紋太夫はつと進んだ。
「これはどなたか存じませぬが、あぶないところをお助けくだされ何んとお礼を申してよいやら、私事は日本の武士小豆島紋太夫にござります」
こう恭しく云いながら丁寧に腰をかがめたけれど、英国人のホーキン氏にそれが解ろう筈がない。でホーキン氏は当惑してただ黙って立っている。しかし人間の感情は、日本人であれ英国人であれ、大して変わるものではない。で、ホーキン氏は手真似を加え、それで和蘭語や西班牙語や、知っている限りの言葉を雑え、
「私は英国の探険家ジョージ・ホーキンと申すもの、お見受けすれば何事か恐ろしい事件の起こられた様子、事情お話しくだされますよう」
ところが、小豆島紋太夫は、かつて長崎の和蘭人から、久しく和蘭語を学んだことがあって、会話ぐらいには事を欠かなかった。そこで忽ち二人の者は、お互いの遭難を語り合うことが出来た。話し合って見れば同じような境遇、親しくならざるを得なかった。
「釣天井で圧殺とは、聞いただけでも身が縮む。無残なことをする奴らだ」
ホーキン氏もさもさも驚いたように歎息しながらこう云ったが、「これは捨てて置かれない。是非とも復讐をしなければならぬ」
「さよう、復讐をしなければならぬ」紋太夫は頷いて、「石畳が落ちた後の穴から、屋上へ二人躍り出て土人どもを撫で切りにするか。それともきゃつらが結果を案じ、いずれ地下道へ下りて来るであろうが、そこを待ち受けて討ち果たすか、さあどっちがよかろうな」
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