二十八
平和の月日が過ぎて行った。
それは蒸暑い夏の陽が、平和な島の草や木に、キラキラあたっているある日であったが、ジョン少年と日出夫とは、海岸の岩へ腰を掛け、愉快な会話に耽けっていた。
「……で、僕には不思議なのだ」ジョン少年がこう云った。
「ナーニ、ちっとも不思議じゃないよ」日出夫は笑って反対した。「要するにそれは蜃気楼さ」
「蜃気楼だって? そんな筈はない。確かに僕は見たんだからね」
「でも、上陸はしなかったんだろう」
「ああ上陸はしなかった。少し先を急いだものだから」
「では確かに島があったと断言することは出来ないじゃないか」
「しかし、確かに見たんだからね」
「人間の眼というものは、案外アテにならないものでね」
「それに僕は歌声を聞いたよ。沢山の子供達が輪を作って、『いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい、夢の島絵の島お伽噺の島、いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい』ッてね、声を揃えて唄っているのを、僕はハッキリ聞いたんだが、これもやはり蜃気楼かしら?」
「いやそれは空耳だよ。でなけれは聞き間違いだよ。潮の音か風の音かが、そんなように聞こえたのさ」
「でも繰り返して聞こえたがな」
「人間の耳というものは案外アテにならないものでね」日出夫は自説を曲げなかった。
ややあってジョンはまた云った。「君は伝説を信じるかね?」
「それは伝説の性質によるね」
「では烏の伝説は?」
「烏の伝説? 聞いたことがないね」
「一本足の大烏が、隠されてある宝の島へ、案内するという伝説だがね」
「で、誰が話したね?」
「土人司祭のバタチカンがね」
「いや僕は信じないね。……だって君そうじゃないか、一本足の烏なんてものはどこの国にだってありゃしないからね」
「ところがあったから面白いじゃないか、僕はこの眼で見たんだよ。僕はその烏に案内されて、島の表から裏側まで、つまり君の家へまで、やって行くことが出来たんだよ」
「なるほど」と日出夫は鹿爪らしく、「ほんとに君が見たのなら、そうして僕が君のように、その烏を見ることが出来たら、そうしたら、伝説を信じよう」
この言葉の終えないうちに、一羽の烏が林の中から二人の方へ翔けて来たが、すぐ前面の岩の上へ静かに止まって羽根を畳んだ。
「一本足の烏! 一本足の烏!」
ジョンは飛び上がって叫び出した。見ればいかにもその烏は、一本の足しか持っていない。
「ああ本当に一本足だ!」
日出夫も驚いて飛び上がった。
と、烏は悠々とこの時岩から舞い上がったが、一つの大きな円を描き、それからいかににも緩やかに海の方へ翔け出した。
「ジョン君、僕は信じるよ! 君の話した伝説をね! さあアノ烏を追っ駈けよう!」
そこで日出夫とジョン少年とは、纜いであった小舟に乗り、海上遙かに漕ぎ出した。
風もない夏の海は、蒼く平らにトロリと澄んで、魚の影さえ透いて見える。
烏は二人を誘うかのように、時々こっちを振り返って見ては悠々翼を羽摶いた。そうして千切れるように時々啼いた。
烏と舟とは空と海とで永い間競争した。二時間の余も競争した。
その時、舟の行く手に当たって、例の浮き岩が見えて来た。
「日出夫君、日出夫君、浮き岩だよ」
ジョン少年は注意した。
「ああ本当に浮き岩だね」
日出夫は櫂の手を止めた。
二つの浮き岩は唸りながら、互いに相手を憎むかのように、力任せに衝突り合っていた。飛び散る泡沫は霧を作り、その霧の面へ虹が立ち、その虹の端の一方は、陸地の断崖に懸かっていた。
その陸地はチブロン島の南の側に当たっていた。
その断崖は岩で畳まれ、諸所に欝蒼と大木が繁り、上りも下りも出来そうもないほど、険しい様子を備えていたが、しかしどことなく人工的であった。
この人工的の断崖の下の、深い深い海上で浮き岩が衝突り合っているのであった。
ここまで翔けて来た一本足の烏は、この時にわかに千切れるように幾度も幾度も啼き声を立てたが、スーッと低く舞い下がって来た。おや! と思う暇もなく、断崖の裾まで下り切ると、フッと姿が消えてしまった。
二十九
「やッしまった、烏が消えた!」ジョンは驚いて叫び声を上げた。
「まあ待ちたまえ、考えがある」
日出夫少年は腕を組み何やらじっと考えこんだが、
「ねえ、ジョン君、こう思うのだよ、理由なしに烏が消える筈がない。消えるには消えるだけの理由があろう。いや理由がなければならないとね」
「ああ、そうとも、理由がなければならない」
「で、僕は思うのだがね、あの断崖の裾の辺に、何か秘密があるのだろうとね」
「ああなるほど、そうかもしれないね」
「恐らく洞窟でもあるのだろう」
「ああなるほど、そうかもしれないね」
「しかも普通の洞窟ではない」
「そんな事までは解らないよ」
「いや僕は断言してもいい。きっと普通の洞窟ではない。非常に価値のある洞窟だよ」
「どうしてそんな事云えるだろう?」
「云えるだけの理由があるからさ」
「僕にはちっともわからない」
「君は浮き岩をどう思うね」日出夫少年は真面目に云った。
「天工と思うかね? 人工と思うかね?」
「それはもちろん天工だろう」
「ところが、あいつは人工なのだ」
「どういうところから発見したね?」ジョン少年は不思議そうに訊いた。
「見たまえ、鎖が見えるじゃないか」
こう云いながら日出夫少年は、二つの岩に挟まれている蒼い水を指差した。
なるほど、そう云えば鎖が見える。すっかり錆びて赤くなり、そこへ海草がまとっているので、一見岩と見紛うけれどもまさしく太い鎖であった。
「ああなるほど、太い鎖だ!」ジョン少年は感動した。
「鎖で繋いであるのだからこの浮き岩は人工だよ」日出夫はさらに説明した。「こんな大掛かりの浮き岩を人工で作ったというのは、決して冗談や好奇心からではあるまい。きっと必要があったからさ」
「その解釈は胸に落ちるね」
「そこで僕はこう思うのだよ、人工の浮き岩を作ったのは、何かを防禦するためだとね」
「ははあなるほど、そうかもしれない」
「つまり、洞窟が大事だからだ。洞窟に価値があるからだ。で、その洞窟へ泥棒どもを侵入させないそのために、浮き岩なる物が作られたのさ」
「そうだそうだ、それに違いない!」ジョン少年は手を拍った。
「では早速行って見ようや」
「よかろう」
と云うと日出夫少年は、櫂へグイと力をこめた。
随分危険ではあった。けれど冒険に慣れている二少年はそれでもとうとう断崖の裾へ、自分達の小舟を寄せることが出来た。
はたして想像をした通りそこに洞窟の口があった。
二人はすっかり元気付き、その口から舟を入れた。と二人の眼の前へ、狭い水路が現われた。水路は遠くまで続いていた。
二人はズンズン舟を進めた。舟が進むに従って水路は次第に広くなり、やがて一つの湾へ出た。
湾の円周五丁もあろうか、その中央と思われる辺に小さな島が浮き出ていた。
「やあ小ちゃい島があらあ」
「おやおや烏があんな所にいるよ」
一本足の大烏が、島の頂の木の枝で、羽根を畳んで休んでいた。
二少年は舟を出て、島の渚へ下り立った。
島は美しく可愛らしく周囲一町もなさそうであった。
「これが伝説の宝島だろう」
「そうだそれに違いない」
「大急ぎで宝を目付けようぜ」
「よしきた、目付けよう、競争だ!」
そこで二人は走り廻った。
日出夫少年は頂上を目がけ兎のように駈け上がった。そうしてそこで目付けたのは巨大な鉄の箱であった。腐蝕した穴から黄金の光が燦然と彼の眼を射た。
「目付けた!」
と彼は歓喜の声を湾一杯に響かせた。そうだ、彼は目付けたのであった。それこそ伝説に語られてある「チブロン島の宝庫」なのであった。
そこで二人は舟へ乗り、急いで外海へ出ようとした。
「おや、あんな所に階段があるよ!」
こう云いながらジョン少年は、湾をグルリと囲繞いていた洞窟の内壁を指差した。
洞窟の内壁を上の方で斜めに階段が出来ていた。その上層は闇に鎖ざされほとんど見ることが出来なかった。
好奇心の強い二少年がこれを見遁がす訳がない。二人は舟を岸へ着けると揃って階段を上へ登った。
三十
やがて二人は登り尽くし、不思議な神秘的な平原へ出た。蒼白い光が充ち満ちていた。丘もあれば林もあり、人家もあれば人声もした。
これぞ地下の世界であった。
眼の前にこんもりとした森があり、一宇の神社が建っていた。
活き剣を祀った社であった。
と、忽ち松火の火がこっちを目がけて走って来た。土人が二人を目付けたのであった。
「それ大変だ、逃げろ逃げろ!」
二人は急いで引き返した。階段を下り湾岸へ出、小舟の中へ逃げ込んだ。
「ヨイショヨイショ、ヨイショヨイショ」
二人は夢中で櫂を使った。
二人の少年の報告を聞くと、一同は驚喜して躍り上がった。
にわかに海軍が編成され、宝島征伐が行なわれた。
地下人どもを平らげて、完全に宝島を占領するには、それでも二十日の日数がかかった。ようやく手に入れた宝庫の中には、大和節斎が洞察した通り、黄金の貨幣や高価な器具が今の金にして五億円余あった。
日英合同の植民地は、こうして益繁昌した。種々の設備が行なわれ、まことに暮らしよい土地となった。政治も円満に行なわれた。
しかるにある日紋太夫は、こんな変なことを云い出した。
「俺は最近にお暇するぜ」
「お暇ですって? 何のことです?」
来島十平太が不思議そうに訊いた。
しかし紋太夫はそれには答えず、
「首にさわっちゃいけないよ、首にさわっちゃいけないよ」
「ええええ、首になんかさわるものですか」
「ところで」紋太夫はまた云った。「人間の意志っていう奴は、実に生命より強いものだね」
「ははあ、さようでございますかな」十平太は怪訝そうに答えた。
「どうも近来首が痛い」
「それはどうも困りましたな」
「ナーニ、ちっとも困りゃしないよ。所期の目的はとげたんだからな」
「所期の目的とおっしゃると?」
「チブロン島の宝庫発見よ」
「それなら充分にとげられましたとも」
「で、首が痛くなったのさ」
「あなたの云うことは解らない」
「本来俺は住吉の浜で首を切られた人間だよ」
「…………」
「意志は強し! 生命より強し!」
彼は愉快そうに哄笑した。
それから間もなくのことであったが、彼の首がポッカリ外れた。しかし一滴の血も出なかった。その切り口もスベスベしていた。
その顔もひどく愉快そうであった。島中の同志達もついに悲しむのを忘れてしまった。こうして紋太夫は死んだけれど、彼の精神は残っていた。
「意志は強し、生命より強し」こういう言葉によって残っていた。
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