四
忍術も支那から来たものである。六門遁甲が根本である。「武備志」遁用術も其一つだ。
しかし忍術は日本に於て、支那以上に発達した。それは日本人が体が小さく、敏捷であったが為である。
忍術の根本は五遁にある。即ち水火木金土だ。
ところで葉迦流は水遁を主とし、葉迦良門の開いたもので、上杉謙信の家臣である。
「滴水を以て基となす」
こう極意書に記されてある。
一滴の雨滴が地面に落ちる。それをピョンと飛び越すのである。二滴の雨滴が地面へ落ちる。それを復ピョンと飛び越すのである。
雨滴はだんだん量を増す。地面の水域が広くなる。それをピョンピョン飛び越すのである。
しまいには池となり沼となる。もう其頃には人間の方も、それを平気で飛び越す程の力量が備わっているのである。
これ葉迦流の跳躍術の一つ。
その他水を利用して、さまざまの忍びを行うのが、葉迦流忍術の目的なのである。世の勝れた忍術家なるものは、勿論、科学者ではあったけれど、更に夫れ以上忍術家は、心霊科学で云う所の、「霊媒(ミイジャム)」であったのであった。
霊媒とは霊魂の媒介者である。
人間は現在活きている。だが人間はいずれ死ぬ。さて死んだら何うなるか? 勿論肉体は腐って了う。しかし霊魂は存在する。これ霊魂不滅説だ。その霊魂は何処にいるか? 霊魂の世界に住んでいる! そうして夫れ等の霊魂は、活きている人間と通信したがる。しかし普通の人間とは、不幸にも絶体に通信が出来ない。そこで特別の器能を備えた、――霊魂の言葉が解る人間――即ち霊媒を要求する。
霊媒とは霊魂のどんな言葉をでも、解し得る所の人間なのである。
のみならず勝れた人間になれば、草木山川の言葉をも――宇宙の生物無生物の言葉。それをさえ知ることが出来るのである。
そういう人間は此浮世に、極わめて稀に存在する。その中の或者が夫れを利用し、勝れた忍術家となったのである。
由井正雪は丘を下り、どこへとも無く行って了った。
こうして深夜五更となった。
すべて忍術家というものは、五更と三更とを選ぶものである。
鵞湖仙人の大館は森閑として静まっていた。
月も無ければ星も無い、どんよりと曇った夜であった。
と、竹藪から竹の折れる、ピシピシいう音が聞えて来た、風も無いのに竹が折れる、不思議と耳を傾けるのが、普通の人の情である。しかし、そっちへ耳傾けたが最後、心が一方へ偏して了う。偏すれば他方ががら空きとなる、そこへ付け入るのが忍術の手だ。
竹の折れる音は間も無く止んだ。後は寂然と音も無い。
鵞湖仙人はどうしているだろう? 由井正雪は何処にいるだろう? 勿論竹を折ったのは、正雪の所業に相違無い。
と、厩で馬が嘶いた。さも悲しそうな嘶き声である。
だが夫れも間も無く止んだ。そうして後は森閑と、何んの物音も聞えなかった。
屋敷は益々しずまり返り、人の居るような気勢も無い。
と、二階の窓が開き、ポッと其処から光が射した。
そこから一人の若い女が、夜目にも美しい顔を出した。どうやら何かを見ているらしい。仙人の屋敷に美女がいる? 少し不自然と云わざるを得ない。
と、天竜の川の上に、ポッツリと青い光が見えた。それがユラユラと左右に揺れた。そっくり其の儘人魂である。
すると窓から覗いていた、若い女が咽ぶように叫んだ。
「おお幽霊船! 幽霊船!」
五
「幽霊船だって? 何んの事だ?」
こう呟いたのは正雪であった。
彼は此時厩の背後、竹藪の中に隠れていた。
で、キラリと眼を返すと、天竜川の方を隙かしてみた。
いかにも此奴は幽霊船だ。人魂のような青い火が、フラフラ宙に浮いている。……提灯で無し、篝火で無し龕燈で無く松火で無い。得体の知れない火であった。
どうやら帆柱のてっぺんに、その光物は在るらしい。正雪は何時迄も見詰めていた。次第に闇に慣れて来た。幽霊船の船体が、朧気ながらも見えて来た。
天竜川は黒かった。闇に鎖ざされて黒いのである。時々パッパッと白い物が見えた。岩にぶつかる浪の穂だ。その真黒の水の上に、巨大な船が浮かんでいた。それは将しく軍船であった。二本の帆柱、船首の戦楼矢狭間が諸所に設けられている。
そうして戦楼にも甲板にも、無数の人間が蠢いている。人魂のような青い火が、船を朦朧と照している。
人々は甲冑を鎧っている。手に手に討物を持っている。槍、薙刀、楯、弓矢。……
おお然うして夫れ等の人は、鵞湖仙人の屋敷の方へ、挙って指を指している。何やら罵っているらしい。しかし話声は聞えない。
彼等はみんな痩せていた。
と、続々甲板から、水の中に飛び込んだ。十人、二十人、三十人。……しかも彼等は溺れなかった。彼等は水の上に立っていた。
飛ぶように水面を走り乍ら、続々と岸へ上って来た。彼等は岸へ勢揃いした。それから颯っと走り出した。
鵞湖仙人の屋敷の方へ!
近寄るままによく見れば、彼等はいずれも骸骨であった。眼のある辺には穴があり、鼻のある辺には穴があり、口のある辺には歯ばかりが、数十本ズラリと並んでいた。
甲冑がサクサク触れ合った。骨と骨とがキチキチと鳴った。
竹藪の方へ走って来る。
流石の正雪もウーンと唸った。すっかり度胆を抜かれたのである。
彼は地面へ腹這いになった。
サーッと彼等は走って来た。彼等の或者は正雪の背中を、土足のままで踏んで通った。しかし少しの重量も無い。彼等には重量が無いらしい。大勢通るにもかかわらず、竹藪はそよとの音も立て無い。一片の葉さえ戦がない。彼等には形さえ無いと見える。
いやいや併しハッキリと、恐ろしい形が見えるでは無いか! 甲冑をよそった骸骨の形が! そうだ、それは確かに見える! だが夫れは見えるばかりだ。物質としての容積を、只彼等は持っていないのだ!
即ち彼等は幽霊なのだ!
幽霊船の幽霊武者! そいつが仙人の屋敷を目掛け、まっしぐらに走って行くのである。
物凄い光景と云わざるを得ない。
幽霊武者は一団となり、土塀の裾へ集まった。
と、彼等は土塀をくぐり、サッと屋敷内へ乱入した。勿論土塀には穴が無い。それにもかかわらず潜ったのだ。
湧き起ったのは女の悲鳴!
「ヒーッ」という魂消える声! つづいて老人の呶鳴り声! 鵞湖仙人の声らしい。討物の音、倒れる音、ワーッという閧声! ガラガラと物の崩れる音。
「お爺様! お爺様! お爺様!」
「おお娘、しっかりしろ!」
ドッと笑う大勢の声。
「ヒーッ」と復も女の悲鳴。
意外! 歌声が湧き起った。
武士のあわれなる
あわれなる武士の将
霊こそは悲しけれ
うずもれしその柩
在りし頃たたかいぬ
いまは無し古骨の地
下ざまの愚なる
つつしめよ。おお必ず
不二の山しらたえや
きよらとも、あわれ浄し
不二の山しらたえや
しらたえや、むべも可
建てしいさおし。
訳のわからない歌であった。しかし其節は悲し気であった。くり返しくり返し歌う声がした。そうして歌い振りに抑揚があった。或所は力を入れ或所は力を抜いた。
由井正雪は腹這ったまま、じっと歌声に耳を澄ました。
くり返しくり返し聞える歌!
深夜である。
山中である。
その歌声の物凄さ!
六
復も土塀から甲冑武者が、恰も大水が溢れるように、ムクムクムクムクと現れ出た。
彼等は何物かを担いでいた。
数人が頭上に担いでいた。女である! 女の死骸だ! 窓から顔を差し出して「幽霊船!」と叫んだ女だ! その死骸を担いでいる。
走る走る甲冑武者が走る。
竹藪を通って天竜の方へ!
或者は正雪の頭を踏んだ。或者は彼の足を踏んだ。そうして或者は手を踏んだ。矢張り重量は感じない。
彼等は川の方へ走って行った。そうして水面を辷るように歩き、船の上へよじ上った。
と、船が動き出した。天竜川を上るのである。人魂のような光物が、ユラユラと宙でゆらめいた。上流へ上流へと上って行く。
立ち上った正雪は腕を組んだ。
「深い意味があるに相違無い。彼奴等の歌ったあの歌にはな。……今夜の忍び込みはもう止めだ。……ひとつ手段を変えることにしよう」
彼は竹藪からするすると出た。そうして何処ともなく立ち去った。
その翌朝のことである。
鵞湖仙人の屋敷を目掛け、一人の武士が歩いて来た。
余人ならぬ由井正雪。
玄関へ立つと案内を乞うた。
「頼もう」と武張った声である。
と、しとやかな畳障り、玄関の障子がスィーと開いた。婦人がつつましく坐っている。
それを見た正雪は「あっ」と云った。
これは驚くのが、尤である。幽霊武者に担がれて行った、昨夜の娘が坐っているのだ。
「どちらからお越しでございます?」
その婦人は朗かに云った。幽霊では無い、死骸では無い。将しく息のある人間だ。妙齢十八、九の美女である。ちゃんと三指を突いている。
「驚いたなあ」と心の中。正雪すっかり胆を潰した。しかし態度には現さず「拙者こと江戸の浪人、由井正雪と申す者、是非ご老人にお目にかかり度く、まかり出でましてございます。この段お取次ぎ下さいますよう」
「暫くお待ちを」と娘は云った。それからシトシトと奥へ這入った。間違いは無い足がある。どう睨んでも幽霊では無い。
正雪、腕を組んで考え込んだ。
そこへ娘が引き返して来た。
「お目にかかるそうでございます。どうぞお通り下さいますよう」
で、正雪は玄関を上った。
通されたのは奇妙な部屋だ。三間四方の真っ四角の部屋、襖も無ければ障子も無い。窓も無ければ出入口も無い。
「はてな」と正雪は復考えた。「俺はたしかに案内されて、たった今此部屋へ這入った筈だ。それだのに一つの出入口も無い。一体どこから這入ったのだろう?」
どうにも彼には解らなかった。四方同じ肉色の壁で、それが変にブヨブヨしている。そうして無数に皺がある。その皺が絶えず動いている。延びたかと思うと縮むのである。壁ばかりでは無い。天井も然うだ。天井ばかりでは無い床も然うだ。現在坐っている部屋の板敷が、延びたり縮んだりするのである。床の間も無ければ違い棚も無い。一切装飾が無いのである。
気味が悪くて仕方が無かった。
「ううむ、こいつは遣られたかな」
正雪は心を落ち着けようとした。彼は眼を据えて板敷を見た。と不思議な筋があった。その筋は三本あった。部屋の一方の片隅から、斜めに部屋を貫いていた。
それを見た正雪はブルブルと顫えた。しかし恐怖の顫えでは無く、それは怒りの顫えであった。
「巽から始まった天地人の筋、一つは坤兌の間を走り、一つは乾に向かっている。最下の筋は坎を貫く!」彼はバリバリと歯を噛んだ。
矢庭に抜いた腰の小柄、ブツーリ突いたは板敷の真中! 途端に「痛い!」と云う声がした。
その瞬間に正雪は、もんどり打って投げ出された。
飛び起きた時には其部屋は無く、全く別の部屋があった。
違い棚もあれば床の間もある。床の間には寒椿が活けてある。棚の上には香爐があり、縷々として煙は立っている。襖もあれば畳もある。普通の立派な座敷であった。
床の間を背にして坐っているのは、他でも無い鵞湖仙人、渋面を作って右の掌を、紙でしっかり抑えている。そこから流れるのは血であった。
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