二
「そうそう旦那は与力衆でしたわね」
「今後は殿様と呼ぶがいい」
「結城ぞっきのお殿様ね」
「文句があるなら唐桟でも着るよ」
「いいえ、殿様と云わせたいなら、黒羽二重の紋服で、いらせられましょうとこう申すのさ」
「そういう衣装を着る時もある。が、その時には同心が従く」
「目明し衆も従くんでしょうね」
「お前なんかすぐふん縛る」
「おお恐々!」と大仰に云ったが、妾のお蔦は寄り添うようにした。「でも殿様に似合うのは、そういう風じゃアありませんわね」
「河東節の水調子 二人が結ぶ白露を、眼もとで拾うのべ紙の――などと喉をころがして、十寸蘭洲とどっちがうまい? などと云っている俺の方が仁にあうと云うのだろう」
「そうよ」とお蔦はトロンコの眼をした。「梛の枯れ葉の名ばかりにさ。……殿様、今夜は帰しませんよ」
「まてまて」貝十郎は大小を取った。「与多は与多、仕事は仕事だ。……俺はちょっくら行って来る」
「どちらへ?」
と驚いて止めるお蔦を、ちょっと尻眼で抑えるようにし、「お前を相手に割白か何んかで、茶化したことばかり云っていて、それで暮らして行けるなら、とんだ暮らしいい浮世なんだが、まるっきり逆の世間でな」
「遊んでおいでなされても、役目は忘れないとおっしゃるのね」
「それくらいなら御の字だ。遊びを役目の助けにしている――と云う荒っぽい時世なのさ」
妾宅を出ると貝十郎は、露路の突きあたりの家の前まで行った。が、そのまま姿が消えた。
「手頼りない身でございますの、これをご縁にどうぞ再々、お遊びにおいでくださいましてお力におなりくださいますよう」
お蝶はこう云って京一郎の顔を、艶めいた眼でながしめに見た。年は二十一、二でもあろうか高い鼻に切れ長の眼に、彫刻的の端麗さをそなえた、それは妖艶な女であった。
「はい、有難う存じます。妙なことからお目にかかり、飛んだおもてなしにあずかりまして、何んと申してよろしいやら。……ご迷惑でなければこれからも、ちょいちょいお伺いいたします」
京一郎は恍惚とした心で、こう云って頬を掌で撫でた。五人の男に追いかけられ、それが因になって飛び込んだ家の、女主人にこんなに愛想よく、迎えられようとは思わなかった。
茶を出され酒を出され、身の上話さえされたのである。両親のない身の上ながら、親が残して行った金があるので、女中と婆やとを二人ほど使い、男気のない女世帯を、このようなひっそりした町の露路で、しばらく前から張り出したが、その男気のないということが、何より寂しいと云うのであった。
父は生前は長崎あたりの、相当名を知られた海産問屋で、支那や和蘭とも貿易をし、盛大にやった身分であった。――などとお蝶は話したりした。しかしお蝶は身の上については、多く語ろうとはしなかった。隠すというのではなかったが、目下の生活が華やかでない、それだのに過去の華やかであった生活を、今さらになって話すのは、面はゆくもあれば笑止でもあると、そんなに思う心から、語らないというような態度を見せた。そういう態度が京一郎には、床しく思われてならなかった。
表構えは粋であり、目立たぬ様子に作られてあったが、家の内は随分豪奢であり、それに調度だの器具だのが、日本産というより異国産らしい、舶来の品で飾られてあり、お蝶の締めている帯なども、和蘭模様に刺繍されてある――そういう点などがお蝶という女の、父だという人の身分や生活を――昔の身分や生活を、それらしいものに想像させた。
「風変わりの楽器でございましょうが……」
こう云ってお蝶は手を伸ばして、床の間に置いてある異風の楽器を、取りよせてそっと膝の上へ据えた。胴が扁平で三角形で、幾筋かの絃で張られていた。
「象牙の爪で弾くのですけれど……」云い云いお蝶は四辺を忍ぶように、指の先で絃を弾いた。
「バラードという楽器でございますの。和蘭の若い海員などが甲板の上などで弾きますそうで」
バラードの音色は聞く人の心を、強い瞑想に誘って行った。
聞いている京一郎の心の中へ、海を慕う感情が起こって来た。海! 海外! 自由! 不覊! ……そういうものを、慕う感情が、京一郎の心へ起こって来た。不意にお蝶はうたい出した。
三
かすかに見ゆる
やまのみね
はれているさえなつかしし
舟のりをする身のならい
死ぬることこそ多ければ
さて漕ぎ出すわが舟の
しだいに遠くなるにつれ
山の裾辺の麦の
小田 いまを季節とみのれるが
苅りいる人もなつかしし
わが乗る船の行くにつれ
舟足かろきためからか
わが乗る船の行くにつれ
色も姿もおちかたの
ふかき霞にとざされぬ
われらの舟路! われらの舟路!
それはこういう歌であったが、ここまでうたって来るとうたい止めた。
「この後にもあるそうではございますが、残っていないのでございます。ええこの後にも続く歌が。……妾はどんなに後に続く歌を、知りたいと願っているでしょう。……死なれたお父様が死なれる前に、妾にこのように申しました。『後に続く歌を知ることが出来たら、お前は幸福になれるだろう。右のこめかみに大きな痣のある男が、一人知っているばかりなのだが』と……」
(右のこめかみに痣のある男? はてな?)と京一郎は首を傾げた。思いあたることがあったからである。でも(まさか!)と思い返した。あんまり莫迦気ているからである。
しかし彼はこんなように思った。(この女が幸福になることならわしは何んでもしてやりたい)その時女の云う声が聞こえた。
「お父様の遺伝なのかもしれません、大船に乗って広い海へ、妾は行きたいのでございますの、好きなお方と! わだかまりなく!」
京一郎がお蝶の家を出て、自分の家へ帰ったのは、それからしばらく経ってからであった。京一郎が出たのと引き違いのように、お蝶の家へはいって来たのは二十八、九歳の威厳のある武士で、貴人のように高尚であった。駕籠に乗って来たのである。
「どうであったか?」とその人は云った。
「はい」とお蝶は微笑したが、「大体うまく参りました」
「歌を聞かせてやったろうな」
「聞かせてやりましてございます」
「今度のことばかりは気永に構え、そろそろとやらなければ成功しがたい。暴力や権威をもってしても、歯の立つことではないのだからな」
「はい、さようでございますとも」
「直接本人にぶつかっても、口を割らない事件ではあるし」
「はい、さようでございますとも」
「それで傍流から手をつけたのが……」
こう云って来て貴人のような武士は、円行灯の黄味を帯びた光に、正しい輪郭を照らしていた顔を、にわかに傾げて聞き耳を立てたが、急に立ち上がると円窓を開けた。
窓の外は狭い坪庭であって、石灯籠や八手などがあった。その庭を囲んでいるものは、この種の妾宅にはつき物にしている船板の小高い塀であった。
「これ、誰だ!」と武士は云った。しかし坪庭には人はいなかった。ただ横手の露路へ出られる、切り戸口の傍らに立っている、満開の桜の下枝から、花が散っているばかりであった。
「どなたか?」と、お蝶が不安そうに訊いた。
「さあ、何んとなく気勢がしたが……」
この頃十二神貝十郎は、自分の妾宅へ寄ろうともせず紗を巻いたように霞んで見える、月夜の露路を本通りの方へ、考えながら歩いていた。
(館林様が関係しておられる、大きな仕事に相違ない)
本通りへ出ても人気がなかった。夜が更けているからであった。肩の辺に散っている桜の花弁を、手で払いながら貝十郎は歩いた。(京一郎という男は塩屋の伜だ。……昔の塩屋と来た日には、盛大もない家であったが……)人気がなくても春の夜は気分において賑やかであった。猫のさかっている声などが聞こえた。
(あの歌? ……あんなもの、何んでもありゃアしない。……しかしあの後を知ることが出来たら……)
(よし、俺は本流へぶつかってやろう!)
「面白いな」と声に出して云った。
「負けても勝っても面白い。大物を相手にして争うのだからな」
夜警の拍子木の音がした。
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