いぎりすもふらんすも皆里言葉たびたび来るは厭でありんす
和泉守の狂歌であるがこんな洒落気もあった人物で、そうかと思うと何かの都合で林大学頭が休講した際には代わって経書を講じたというから学問の深さも推察される。
「さあ方々部署におつきなされ」
和泉守は命を下す。
「はっ」と云うと与力同心一斉にバラバラと散ったかと思うと闇に隠れて見えなくなり、後には和泉守と紋太郎と和泉守を守護する者が、四五人残ったばかりである。
「藪氏、此方へ」
と云いながら和泉守は歩き出した。
「ここがよろしい」と立ち止まったのはさっき紋太郎が身を忍ばせた門前の大榎の蔭である。
と、その時、空地の彼方、遙か西南の方角にあたって一点二点三点の灯が闇を縫ってユラユラ揺れたが次第にこっちへ近寄って来た。
近付くままによく見れば一挺の駕籠を真ん中に囲んだ二十人余りの武士の群れで、写山楼差して進んで行く。やがて門前まで行き着くとひたとばかりに止まったが、二声三声押し問答。ややあって門がギーとあく。駕籠も同勢も一度に動いてすぐと中へ吸い込まれた。
後は森閑と静かである。
と、和泉守が囁いた。
「上州安中三万石、板倉殿の同勢でござるよ」
「ははあ、さようでございますかな」紋太郎はちょっと躊躇ったが、「それに致しても何用ござってそのように立派な諸侯方がこのような夜陰に写山楼などへおいで遊ばすのでござりましょう」
「それか、それはちと秘密じゃ」
和泉守は笑ったらしい。「見られい。またも参られるようじゃ」
はたして遙かの闇の中に二三点の灯がまばたいたがだんだんこっちへ近寄って来る。やはり同じような同勢であった。真ん中に駕籠を囲んでいる。門まで行くと門が開き忽ち中へ吸い込まれた。
「犬山三万五千石成瀬殿のご同勢じゃ」
和泉守は囁いた。それから追っかけてこういった。「大御所様二十番目の姫満千姫君のお輿入れについては、お噂ご存知でござろうな?」
「は、よく承知でござります」
「上様特別のご愛子じゃ」
「さよう承わっておりまする」
「お輿入れ道具も華美をきわめ、まことに眼を驚かすばかりじゃ」
「は、そうでございますかな」
「今夜のこともやがて解ろう。……おおまたどなたかおいでなされたそうな」
はたして提灯を先に立て一団の人数が粛々と駕籠を囲繞いて練って来たが、例によって門がギーと開くとスーッと中へ消え込んだ。
「あれこれ柳生但馬守様じゃ」
云う間もあらず続いて一組同じような人数がやって来た。
塀へ掛けた縄梯子
「信州高島三万石諏訪因幡守様ご同勢」
「ははあさようでござりますかな」
おりからまたも、一団の人数闇を照らしてやって来たが百人あまりの同勢であった。
「藪氏、あれこそ毛利侯じゃ」
「長門国萩の城主三十六万九千石毛利大膳大夫様でござりますかな」
「さよう。ずいぶん凛々しいものじゃの長州武士は歩き方から違う」
間もなく毛利の一団も写山楼の奥へはいって行った。
追っかけ追っかけその後から幾組かの諸侯方の同勢が、いずれも小人数の供を連れ、写山楼差してやって来た。
五万八千石久世大和守。――常州関宿の城主である。喜連川の城主喜連川左馬頭――不思議のことにはこの人は無高だ。六万石小笠原佐渡守。二万石鍋島熊次郎。二万千百石松平左衛門尉。十五万石久松隠岐守。一万石一柳銓之丞。――播州小野の城主である。六万石石川主殿頭。四万八千石青山大膳亮。一万二十一石遠山美濃守。十万石松平大蔵大輔。三万石大久保佐渡守。五万石安藤長門守。一万千石米津啓次郎。五万石水野大監物。そうして最後に乗り込んで来たは土居大炊頭利秀公で総勢二十一頭。写山楼へギッシリ詰めかけたのであった。
やがて全く門が締まると、ドーンと閂が下ろされた。
後はまたもや森閑として邸の内外音もない。
「いったいこれからどうなるのかしら?」
紋太郎には不思議であった。町奉行直々の出張といい諸侯方の参集といい捕り物などでないことはもはや十分解っていたが、それなら全体何事がこの邸内で行われるのであろう? こう考えて来て紋太郎は行き詰まらざるを得なかった。
「上は三十七万石の毛利という外様の大名から、下は一万石の譜代大名まで、外聞を憚っての深夜の会合。いずれ重大の相談事が執行われるに相違あるまいが、さてどういう相談事であろうか? 密議? もちろん! 謀反の密議?」
こう思って来て紋太郎はゾッとばかりに身顫いしたが、
「いやいや治まれるこの御世にめったにそんな事のある訳はない。その証拠には町奉行和泉守様のご様子が酷く悠長を極わめておられる」
その時、和泉守が囁いた。
「藪氏、藪氏、こちらへござれ」
裏門の方へ歩いて行く。
裏門まで来て驚いたのは、さっきまで闇に埋ずもれていた高塀の内側が朦朧と光に照らされていることで、その仄かな光の色が鬼火といおうか幽霊火といおうか、ちょうど夏草の茂みの中へ蝋燭の火を点したような妖気を含んだ青色であるのが特に物凄く思われた。
「梯子を掛けい」
と和泉守が、与力の一人へ囁いた。
「はっ」というと神谷というのがつかつかと前へ進んだが、手に持っていた一筋の縄を颯と投げると音もなくタラタラと高塀へ梯子が掛かる。いうまでもなく縄梯子だ。
「よし」というと和泉守はその縄梯子へ手をかけたが、身を浮かばせてツルツルと上がる。
しばらく邸内を窺ったが、やがて地上へ下り立つと、
「藪氏、ちょっとご覧なされ、面白いものが見られます」
「は、しかし拙者など。……」
「私が許す。ご覧なさるがよい」
「それはそれは有難いことで。しからばご好意に従いまして」
「おお見られい。がしかし、驚いて眼をば廻されな」
「は」といったが紋太郎、無限の好奇心を心に抱き一段一段縄梯子を上の方へ上って行った。
間もなく塀頭へ手が掛かる。ひょいと邸内を覗いて見て「むう――」と思わず唸ったものである。
百鬼夜行
まず真っ先に眼に付いたのは、数奇を凝らした庭であったが、無論それには驚きはしない。第二に彼の眼に付いたは見霞むばかりの大座敷が、庭園の彼方に立っていた。
「うむ、これこそ百畳敷……」と、こう思ったそのとたん、百畳敷の大広間に奇々怪々の生物があるいは立ちあるいは坐りあるいはキリキリと片足で廻りあるいは手を突いて逆立ちし、舌を吐く者眼を剥く者おどろの黒髪を振り乱す者。――そうして、それらの生物のそのある者は三つ目でありまたある者は一つ目でありさらにある者は醤油樽ほどの巨大な頭を肩に載せた物凄じい官女であり、さらにさらにある者は眉間尺であり轆轤首であり御越入道である事を驚きの眼に見て取ったのであった。……そうしてそれらの妖怪どもは例の蒼然たる鬼火の中で蠢き躍っているのであった。化物屋敷! 百鬼夜行!
で、思わず「むう――」と唸ったのである。
「藪氏、藪氏、お下りなされ」
下から呼ぶ和泉守の声に、はっと気が付いて紋太郎は急いで梯子を下へ下りた。
「どうでござったな? あの妖怪は?」
和泉守は笑いながら訊いた。
「不思議千万、胆を冷しました」
「アッハハハさようでござろう」
「彼ら何者にござりましょうや?」
「見られた通り妖怪じゃ」
「しかし、まさか、この聖代に。……」
「妖怪ではないと思われるかな」
「はい、さよう存ぜられますが」
「妖怪幾匹おられたか、その辺お気を付けられたかな?」
「はい私数えましたところ二十一匹かと存ぜられまする……」
「さようさよう二十一匹じゃ」
「やはりさようでございましたかな。……ううむ、待てよ、これは不思議!」
「不思議とは何が不思議じゃな?」
「諸侯方も二十一人。妖怪どもも二十一匹」
「ははあようやく気が付かれたか。……まずその辺からご研究なされ」
和泉守はこう云うとそのままむっつりと黙ってしまった。話しかけても返事をしない。
こうして時間が経って行く。
と、射していた蒼い光が忽然パッと消えたかと思うと天地が全く闇にとざされ木立にあたる深夜の嵐がにわかに勢いを強めたと見えピューッピューッと凄い音を立てた。
「表門の方へ」
といいすてると和泉守は歩き出した、一同その後について行く。
榎木の蔭に佇んで表門の方を眺めているとギーと門が八文字に開いた。タッタッタッタッと駕籠を守って無数の同勢が現われたが、毛利侯を真っ先に二十一頭の大名が写山楼を出るのであった。
再び闇の空地を通い諸侯の駕籠の町に去った後の、写山楼の寂しさは、それこそ本当に化物屋敷のようで、見ているのさえ気味が悪かった。
「もう済んだ」
と呟くと和泉守は合図をした。いわゆる引き上げの合図でもあろう、手に持っていた龕燈を空へ颯と向けたのである。それと同時に物の蔭からむらむらと[#「むらむらと」は底本では「らむらと」]人影が現われたが、人数およそ百人余り、悉く与力と同心であった。
「藪氏」
と和泉守は声をかけた。「おさらばでござる。いずれ殿中で……」
「は」
といったが紋太郎はどういってよいかまごついた。
「あまり道など迷われぬがよい。アッハハハお帰りなされ」
いい捨て部下を引き連れると町の方へ引き上げて行った。
後を見送った紋太郎はいよいよ益とほんとして茫然せざるを得なかった。
「これはこれは何という晩だ! これはこれは何ということだ!」
つづけさまに呟いたが、何んの誇張もなさそうである。
駕籠と馬
こういうことがあってからいよいよ益紋太郎は写山楼へ疑惑の眼を向けた。
「どうも怪しい」と思うのであった。
「専斎殿の話によれば、ちょうど吹矢で射られたような不思議な金創の人間を、あの写山楼の百畳敷でこっそり療治をしたというが、あるいはそれは人間ではなくて例の化鳥と関係あるもの――半人半妖というような妖怪変化ではあるまいか? それにもう一つ何んのために二十一人の大名があの夜あそこへ集まったのであろう? そうして奇怪な妖怪舞踊!」――こう考えて来ると紋太郎には、あの名高い写山楼なるものが恐ろしい悪魔の住家にも思われ、また陰険な謀叛人の集会所のようにも思われるのであった。
「そうだ時々監視しよう」
下城の途次はいうまでもなく非番の日などには遠い本所からわざわざ写山楼まで出かけて行きそれとなく様子を探ることにした。
それはあの晩から十日ほど経ったある雪降りの午後であったが、例によって下城の途次、写山楼まで行って見た。
グーングーングーングーン! 何んともいえない奇怪な音が裏庭の方から聞こえて来た。
その音こそ忘れもしない多摩川の空で垂天の大鵬が夕陽を浴びながら啼いたところのその啼き声と同じではないか。
紋太郎は思わず「あっ」といった。それから「しめたッ」と叫んだものである。
彼はじっと考え込んだ。
「ううむやっぱりそうだったのか! 俺の睨みは外れなかったと見える……もうあの音の聞こえるからは化鳥の在所はいわずと知れたこの写山楼に相違ない」
彼の勇気は百倍したが、しかしこのまま写山楼へ踏み込むことも出来なかったのでグルグル塀外を歩き廻り尚その音を確かめようとした。
しかし音は瞬間に起こりしかして瞬間に消えてしまったのでどうすることも出来なかった。
「だんだん夜は逼って来る。やんでいた雪も降り出して来た。さてこれからどうしたものだ。……うむしめた! 明日は非番だ! 今日はこのまま家へ帰り明日は朝から出張ることにしよう」
で、充分の未練を残し彼が邸へ帰り着いたのはその日もとっぷり暮れた頃であったが翌日は扮装も厳重にし早朝から邸を出た。
昨日の雪が一二寸積もり、江戸の町々どこを見ても白一色の銀世界で今出たばかりの朝の陽が桃色に雪を染めるのも冬の清々しい景色として何とも云えず風情がある。
吾妻橋を渡り浅草へ抜け、雷門を右に睨み、上野へ出てやがて本郷、写山楼まで来た時にはもう昼近くなっていた。
「おや」と云って紋太郎は思わず足を止どめたものである。
今、写山楼の門をくぐり駕籠が一挺現われた。駕籠側に二人の武士がいる。そうして駕籠の背後からはさも重そうに荷を着けた二頭の馬が従いて来る。遠い旅へでも出るらしい。
「これはおかしい」
と云いながら過ぎ行く駕籠と馬の後をじっと紋太郎は見送ったが、ハイカラにいえば六感の作用、言葉を変えればいわゆる直覚で、その奇妙な一行が紋太郎には気になった。
「……邸を見張ろうか? 駕籠を尾行ようか? どうもこいつは困ったぞ。……えい思い切って駕籠を尾行てやれ!」
彼はようやく決心し、駕籠の後を追っかけた。
日本橋から東海道を、品川、川崎、神奈川と駕籠と馬とは辿って行く。
程ヶ谷、戸塚と来た頃にはその日もとっぷりと暮れてしまった。彼らの泊まったのは藤屋という土地一流の旅籠屋であった。そこで紋太郎も同じ宿へ草鞋を解かざるを得なかった。
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