正金で五十両
「やかましいやい! へぼ医者め!」
振り返って睨んだ眼の凄さに専斎はペッタリ尻餅をついた。
「態ア見やがれ!」
と貧乏神は床の間へ上ると手を延ばし六歌仙の軸をひっ握んだ。
その時襖がサラリと開いて以前の覆面の老人が部屋の中へはいって来たが、「曲者!」
と掛けた鋭い声は、武道で鍛えた人でなければ容易のことでは出せそうもない。
「ええ畜生、いめえましい!」身を飜すと貧乏神は庭へ向かって走り出した。
ヒューッと小束が飛んで来る。パッと渋団扇で叩き落す。次の瞬間には貧乏神の姿は部屋の中には見られなかった。
「方々出合え! 賊でござるぞ!」
忽ち入り乱れる足音が邸の四方から聞こえて来たが、庭の方へ崩れて行く。
障子を締め切った覆面の老人。
「驚かれたでござろうな」……打って代わって愛相よく、「寸志でござる。お納めくだされ」
紙包みを前へ差し置いた。
「もはや用事はござりませぬ。……駕籠でお送り致しましょう。……さて最後に申し上げたいは、今夜のことご他言ご無用。もし口外なされる時は御身のためよくござらぬ」
謝礼といって贈られたすっくり重い金包みを膝の上へ置きながら専斎はうとうと睡りかけた。
同じ駕籠に打ち乗せられ同じ人に附き添われ同じ夜道を同じ夜に自宅へ帰って行くところであった。
「今夜のことご他言無用。もし口外なされる時は御身のためよくござらぬ」と、いざお暇という時に例の覆面の老人によって堅く口止めされたことを心から恐ろしく思いながらも、襲って来る睡魔はどうすることも出来ず、彼はうとうと睡ったらしい。
こうして彼が目覚めた時には日が高く上っていた。自分の家の自分の寝間に弟子や家人に囲まれながら楽々と睡っていたものである。
「金包みはあるかな? 金包みは?」
これが最初の言葉であった。
「はいはい金包みはございますよ」
「いくらあるかな? あけて見るがいい」
「はい、小判で五十両」
「木葉であろう? 木葉であろう?」狐に魅れたと思っているのだ。
「なんのあなた、正の金ですよ」
「どうも俺にはわからない」
「今朝方お帰りでございましたが、やはり昨夜は狩野様で?」
「いやいや違う。そうではない。狩野の邸なら知っている。昨夜の邸とはまるで違う」
「まあ不思議ではございませんか。どこへおいででございましたな?」
「それがさ、俺にも解らぬのだよ」
……で専斎は気味悪そうに渋面を作らざるを得なかった。
こういうことのあったのは、この物語の主人公旗本の藪紋太郎が化鳥に吹矢を吹きかけた功で西丸書院番に召し出されたちょうどその日のことであったが、翌日紋太郎は扮装を整え専斎のやしきへ挨拶に来た。
「専斎殿お喜びくだされ、意外のことから思いもよらず西丸詰めに召し出されましてな、ようやくお役米にありつきましてござるよ」
こういってから多摩川における化鳥事件を物語った。
「で、今日では日本全国、その化鳥を発見けたもの、ないしは死骸を探し出した者には、莫大なご褒美を授けるというお伝達が出ているのでございますよ。……何んと世の中には不思議極まる大鳥があるものではござらぬかな」
紋太郎はこう云って専斎を見た。いつもなら喜んでくれる筈のその専斎が今日に限って、あらぬことでも考えているようにとほんとしてろくろく返辞さえしない。
紋太郎熟慮
これはおかしいと思ったので、
「専斎先生どうなされましたな? お顔の色が勝れぬが?」
「いや」と専斎はちょっとあわて、「実に全くこの世の中には不思議なことがござりますなア」
取って付けたようにこう云ったが、
「藪殿、実はな、この私にも不思議なことがあったのでござるよ」
「ははあ、不思議とおっしゃいますと?」紋太郎は聞き耳[#「聞き耳」は底本では「聞み耳」]を立てる。
「……それがどうもいえませんて、口止めをされておりますのでな」
「なるほど、それではいえますまい」
「ところが私としてはいいたいのじゃ」
「秘密というものはいってしまいたいもので」
「一人で胸に持っているのがどうにも私には不安でな。――昨夜、それも夜中でござるが、化物屋敷へ行きましてな、不思議な怪我人を療治しました。……無論人間には相違ないが、肌が美しい桃色でな。それに産毛が黄金色じゃ。……細い細い突き傷が一つ。そのまた傷の鋭さときたら。おおそうそうそっくりそうだ! 藪殿が得意でおやりになるあの吹矢で射ったような傷! それを療治しましたのさ。……ところで私はその邸で珍らしいものを見ましたよ。六歌仙の軸を見ましたのさ。……見たといえばもう一つ貧乏神を見ましてな。いやこれには嚇かされましたよ。……邸からして不気味でしてな。百畳敷の新築の座敷に金屏風が一枚立ててある。その裾の辺に老人がいる。十徳を着た痩せた武士でな。その陰々としていることは。まず幽霊とはあんなものですかね」
こんな調子に専斎は、恐ろしかった昨夜の経験を悉く紋太郎に話したものである。
紋太郎は黙って聞いていたが、彼の心中にはこの時一つの恐ろしい疑問が湧いたのであった。
彼は自分の家へ帰ると部屋の中へ閉じ籠もり何やら熱心に考え出した。それから図面を調べ出した。江戸市中の図面である。
それから彼は暇にまかせて江戸市中を歩き廻った。
今夜のことご他言無用、もし他言なされる時は御身のためよろしくござらぬと、痩せた老人に注意されたのを、その翌日他愛なく破り、一切紋太郎にぶちまけたので、その祟りが来たのでもあろうか、(いや、そうでもないらしいが)とにかく専斎の身の上に一つの喜悲劇が起こったのはそれから間もなくのことであった。
その日、専斎は六歌仙のうち、手に残った黒主の軸を床の間へかけて眺めていた。
「うむ、いつ見ても悪くはないな。それにしても惜しいのはお菊に盗まれた小野小町だ」
いつも思う事をその時も思い、飽かず画面に見入っていた。もうその時は点燈頃で、部屋の中は暗かったが、彼は故意と火を呼ばず、黄昏の微光の射し込む中でいつまでも坐って眺めていた。
と、あろう事かあるまい事か、彼の眼の前で大友黒主が、次第に薄れて行くではないか。
「おやおや変だぞ。これはおかしい」
驚いて見ているそのうちに黒主の絵は全く消え似ても似つかぬ異形の人物が朦朧とその後へ現われたが、よく見ればこれぞ貧乏神で、ニタリと一つ気味悪く笑うとスルスルと画面から抜け出した。見る見るうちに大きくなり、ニョッキリ前へ立ちはだかった。
それが横へ逸れるかと思うと、庭の方へ歩いて行く。
「泥棒!」
とばかり飛び上がり、恐さも忘れて組み付いた。ひょいと飜した身の軽さ。フワリと一つ団扇で煽ぎ、
「これこれ何んだ勿体ない! 俺は神じゃぞ貧乏神じゃ! 燈明を上げい、お燈明をな! 隣家の藪殿を見習うがよい。フフフフ、へぼ医者殿」
禍福塀一重
お菊に軸を盗まれて以来、家族の者は一様に神経質になっていたが、「泥棒」という専斎の声が主人の部屋から聞こえると共に一斉に外へ飛び出した。出口入り口を固めたのである。
「庭へ出た! 裏庭へ廻れ!」専斎の声がまた聞こえた。
その裏庭には屈強の弟子が三人まで固めていたが、薄穢いよぼよぼの老人が築山の裾をぐるりと廻り此方へチョコチョコ走って来るので、不審の顔を見合わせた。
「まさか彼奴じゃあるまいね」佐伯と云うのが囁いた。
「そうさ、あいつじゃあるまいよ。泥棒にしちゃ威勢が悪い」本田と云うのが囁き返す。
「しかし」と云ったのは山内というので、「変に見慣れない爺じゃないか」
その見慣れない変な爺はスーッとこの時走り寄って来たが、
「へい、皆様ご苦労様で」ひょこんと一つ頭を下げ、「泥棒なら向こうへ行きやしたぜ」主屋の方を指差した。
「うん、そうか」と行きかかる。とたんに聞こえて来る専斎の声。
「その爺を捕まえろ! その爺が泥棒だ!」
あっと云って振り返った時には、爺の姿は遙か向こうの塀の裾に見えていた。それっと云うので追っかける。その後から専斎が喘ぎ喘ぎ走る。
貧乏神は塀際に立ち、一丈に余る黒板塀をじっとその眼で計っていたが、若々しい鋭い元気のよい声で「ヤッ」と一声かけたかと思うと手掛かりもない塀の面をスーッと頂上まで駈け上がったがそこでぐるりと振り返り、きわめて劇的の身振りをすると、
「馬鹿め! アッハハ」と哄笑し、笑いの声の消えないうちに隣家の庭へ飛び下りた。
ようやく駈け付けた専斎は、
「藪殿! 藪殿! ご隣家の藪殿!」涸れ声を絞って呼びかけた。「賊がそちらへ逃げ込んでござる! 取り抑えくだされ取り抑えくだされ! それ一同表へ廻り藪殿お邸へ取り詰めるがよい!」
この時紋太郎は部屋にいたが、「泥棒!」という声を聞くとすぐ縁側へ出て行った。
「また賊がご隣家へはいったそうな。よくよく泥棒に縁があると見える」
呟きながら佇んでいると、庭を隔てた黒塀の上へ突然人影が現われた。
「さてこそ賊」と庭下駄を穿き庭を突っ切り追い逼ったが奇妙にも賊は逃げようともしない。
「藪殿か。私じゃ私じゃ」
ヌッと顔を突き出した。
「おおあなたは貧乏神様で?」紋太郎はすっかり胆を潰した。
「さようさようその貧乏神じゃ。……何んとその後はいかがじゃな?」
「はい、近頃はお陰をもって……」
「ふむふむ、景気がよいそうな。それは何より重畳重畳。みんな私のお陰じゃぞよ。なんとそうではあるまいかな。数代つづいて巣食っていた貧乏神が出て行ったからじゃ」
「仰せの通りにござります」
「で、私には恩がある。な、そうではあるまいかな?」
「はいはい、ご恩がございますとも」
「では、返して貰おうかな?」
「しかし、返せとおっしゃられても……」
「何んでもござらぬ。隠匿ってくだされ」
「はて隠匿うとおっしゃいますのは? ああ解りました。ではあなた様は、また当邸へおいでなさる気で?」
「うんにゃ、違う! そうではござらぬ。私は隣家に住んでおるよ」
「専斎殿のお邸にな?」
「さようさようヘボ医者のな」
「道理で近来専斎殿は不幸つづきでござります」
隣家の誼みも今日限り
「みんなこの私のさせる業じゃ」
「ははア、さようでござりましたかな」
「どうも彼奴は乱暴で困る」
「さして乱暴とも見えませぬが……」
「私を泥棒じゃと吐しおる」
「なるほど、それは不届き千万」
「今私は追われている」
「それはお困りでござりましょうな」
「で、どうぞ隠ってくだされ」
「いと易いこと。どうぞこちらへ」
――で、紋太郎は先に立ち自分の部屋へはいって行った。
おりから玄関に訪なう声。
「藪殿藪殿! 御意得たい! 専斎でござる。隣家の専斎で」
「これはこれは専斎殿、その大声は何用でござるな?」
悠々と紋太郎は玄関へ出た。
「賊でござる! 賊がはいってござる!」
医師専斎は血相を変え、弟子や家の者を背後に従え玄関先で怒鳴るのであった。
「拙者の邸へ賊がはいった? それはそれは一大事。ようこそお知らせくだされた。はてさて何を盗んだことやら」
「そうではござらぬ! そうではござらぬ!」
専斎はいよいよ狼狽し、
「賊のはいったは愚老の邸。盗んだものは六歌仙の軸……」
「アッハハハ」とそれを聞くと紋太郎はにわかに哄笑した。「専斎殿、年甲斐もない、何をキョトキョト周章てなさる。貴殿の邸へはいった賊をここへ探しに参られたとて、何んで賊が出ましょうぞ」
「いや」と専斉は歯痒そうに、「賊はこちらへ逃げ込んだのでござるよ!」
「ほほう、どこから逃げ込みましたかな?」
「黒板塀を飛び越えてな。お庭先へ逃げ込みました」
「それは何かの間違いでござろう。……拙者今までその庭先で吹矢を削っておりましたが、決してさような賊の姿など藉りにも見掛けは致しませぬ」
「そんな筈はない!」
と威猛高に、専斎は怒声を高めたが、
「お気の毒ながらお邸内を我らにしばらくお貸しくだされ。一通り捜索致しとうござる!」
「黙らっせえ!」
と紋太郎、いつもの柔和に引き換えて一句烈しく喝破した。「たとえ隣家の誼みはあろうとそれはそれこれはこれ、かりにも武士の邸内を家探ししようとは出過ぎた振る舞い! そもそも医師は長袖の身分、武士の作法を存ぜぬと思えば過言の罪は許しても進ぜる。早々ここを立ち去らばよし、尚とやかく申そうなら隣家の交際も今日限り、刀をもってお相手致す! 何とでござるな! ご返答なされ!」
提げて出た刀に反を打たせ、グッと睨んだ眼付きには物凄じいものがあった。文は元より武道においても小野二郎右衛門の門下として小野派一刀流では免許ではないが上目録まで取った腕前、体に五分の隙もない。
魂を奪われた専斎が家人を引き連れ呆々の態で、自分の邸へ引き上げたのは、まさにもっともの事であるがその後ろ姿を見送ると、さすがに気の毒に思ったか、ニヤリ紋太郎は苦笑した。
「これは少々嚇しすぎたかな。いやいや時にはやった方がいい。陽明学の活法じゃ」
……で、クルリと身を飜し自分の部屋へはいって行った。
貧乏神の姿が見えない。
「おやおやいつの間にか立ち去ったと見える」
用人三右衛門がはいって来た。
「おお三右衛、聞くことがある。貧乏神はどこへ行かれたな?」
「へ? 何でございますかな?」
「ここにおられたお客様だ」
「ああそのお方でござりますか。さっきお帰りになられました。綺麗な小粋な若いお方で」
「え? なんだって? 若い方だって?」
「はいさようでございますよ」
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