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大鵬のゆくえ(おおとりのゆくえ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-2 6:23:32  点击:  切换到繁體中文



    奇怪な迎駕籠

 ある夜、奥医師専斎の邸へ駕籠が二挺横着けされた。一つの駕籠は空であったが、もう一つの駕籠から現われたのは儒者風の立派な人物であった。
大学頭だいがくのかみ林家より、参りましたものにござりまするが、なにとぞ先生のご来診を得たく、折り入ってお願い申し上げまする」
 これが使者の口上であった。もうこの時は深夜であり、専斎は床にはいっていたが、断わることは出来なかった。同じ若年寄管轄でも、林家は三千五百石、比較にならない大身である。
 で、専斎は衣服を整え薬籠を持って玄関へ出た。
「深夜ご苦労にござります」儒者風の使者つかいはこういって気の毒そうに会釈したが、「駕籠を釣らせて参りましてござる。いざお乗りくだされますよう」
「さようでござるかな、これはご叮嚀」
 専斎はポンと駕籠へ乗った。と、粛々と動き出す。眠いところを起こされた上、快よく駕籠が揺れるので専斎はすっかりいい気持ちになりうつらうつらと眠り出した。すると、急に駕籠が止まった。
「おや」といって眼を覚ます。「もう林家へ着いたのかな。それにしてはちと早いが」
 その時、バサッと音が駕籠の上から来た。
「何んの音かな? これは変じゃ」
 すると今度は、サラサラという、物の擦れ合う音がした。
「何んの音かな? これはおかしい」
 こう口の中で呟いた時、ひそひそ話す声がした。
「どうやら眠っておられるようじゃ。ちょうど幸い静かにやれ」――儒者風をした使者の声だ。
「へいよろしゅうございます」――こういったのは駕籠舁きである。駕籠はゆらゆらと動き出した。
「こいつどうやら変梃だぞ。どうも少し気味が悪くなった」そこで「エヘン」と咳をした。
「おお、お眼覚めでござるかな。ハッハッハッハッ」と笑う声がする。儒者風の男の声である。馬鹿にしたような笑い方である。
「まだ先方へは着きませぬかな?」専斎は不安そうに声を掛けた。
「なかなかもって。まだまだでござる。ハッハッハッ」とまた笑う。
 専斎は引き戸へ手を掛けた。戸を開けようとしたのである。
「専斎殿、戸は開きませぬ。外から錠が下ろしてござるに。ハッハッハッ」とまたも笑う。
 専斎はゾッと寒気がした。
「こいつはたまらぬ。誘拐かどわかしだ」
 彼はじたばたもがき出した。
 そんなことにはお構いなく駕籠はズンズン進んで行く。そうして一つグルリと廻った。
「おや辻を曲がったな」
 専斎は駕籠の中で呟いた。とまた駕籠はグルリと廻った。どうやら右へ曲がったらしい。
「さっきも右、今度も右、右へ右へと曲がって行くな」専斎はそこで考えた。「いったいどこへ連れて行く気かな? こんなじじいを誘拐したところでたいしていいにも売れまいにな。……精々せいぜいのところで別荘番。……おや今度は左へ廻った。……じたばたしたって仕方がない。生命いのちまで取るとはいわないだろう。……まあまあおとなしくしていることだ。……そうして、そうだ、どっちへ行くかおおかたの見当を付けてやろう」
 ほぞを固めた専斎はじたばたするのを止めにした。じっと静かに安坐したまま駕籠舁きの足音に気を配った。
 駕籠はズンズン進んで行く。右へ曲がったり左へ折れたり、そうかと思うと後返りをしたり、ある時は同じ一所を渦のようにグルグル廻ったりした。俄然駕籠は走り出した。どうやら坂道でも駈け上るらしい。と、不意に立ち止まった。
「やれやれどうやら着いたらしいな」こう専斎の思ったのは糠喜びという奴でまた駕籠は動き出した。
「どうもいけねえ」と渋面を作る。
 それから駕籠は尚長い間冬の夜道を進むらしかった。儒者風をした人物は依然駕籠側かごわきにいるらしかったが、一言も無駄言を云わないので、いよいよ専斎には気味悪かった。


    桃色の肉に黄金色の毛

 こうしておよそ今の時間にして四時間余りも経った頃、駕籠の歩みがのろくなった。そうして足音の響き工合でどうやらこの辺が郊外らしく専斎の心に感じられた。と、にわかに駕籠が止まった。ギーと大門の開く音。と、また駕籠がゆっくりと動いた。がしかしすぐ止まる。
「ご苦労でござった」「遅くなりまして」「しからば乗り物をずっと奥まで」「よろしゅうござる」
 というような、ひそひそ話が聞こえて来た。
 突然駕籠が宙に浮いた。ゆらゆらと人の手で運ばれるらしい。畳ざわりのかすかな音。ス――と開けたりピシリと閉じる襖や障子の音もする。宏大な屋敷の模様である。トンと駕籠が下へ置かれた。紐や桐油をける音。それからピ――ンと錠の音がした。
「よろしゅうござるかな?」「逃げもしまい」「もし逃げたら?」「叩っ切るがよろしい!」
 などと凄い話し声がする。と、ス――とがあいた。
「いざ専斎殿お出くだされ」
「はっ」
 と専斎は這い出した。朦朧もうろう四辺あたりは薄暗い。見霞むばかりの広い部屋で、真ん中に金屏風が立ててある。
 その金屏風の裾の辺に一人の武士が坐っていたが、
「ここへ」と云って膝を叩いた。語音の様子では老人であったがスッポリ頭巾を冠っているので顔を見ることは出来なかった。鉄無地の衣裳に利休茶の十徳、小刀ちいさがたなを前半に帯び端然と膝に手を置いている。肉体枯れて骨立っていたがそれがかえって脱俗して見え、云うに云われぬ威厳があった。部屋には老人一人しかいない。
「ここへ」と老人はまた云った。で専斎は膝で進む。
「外科の道具、ご持参かな?」その老人は静かに訊いた。
「はい一通りは持って参ってござる」
「それは好都合」と云ったかと思うと老人は金屏風をスーとあけたが渦高うずたか夜具よるのものが敷いてある。そうして誰か寝ているらしい。しかし白布で蔽われているので姿を見ることは出来なかった。
「金創でござる。お手当てを」覆面の老人は囁いた。さもしわがれた声音こわねである。
「へ――い」と思わず釣り込まれ専斎も嗄れた声を出したが、いわれるままに膝行し寝ている人の側へ寄った。ポンと白布を刎ねようとする。と、その手首を掴まれた。で、ギョッとして顔を上げたとたん頭巾の奥から老人の眼が冷たく鋭くキラリと光った。専斎はぞっと身顫いをする。その時老人は手を放しその手を腰へ持って行ったがスッと小刀を抜いたものである。
「あっ」と専斎は呼吸いきを呑んだが老人は見返りもしなかった。白い掛け布を一所ひとところスーと小刀で切ったものである。
「お手当てを」と引き声でいった。で、専斎は覗いて見た。裂かれた布の間から桃色の肉が見えていたが肉はピクピク動いている。神経の通っている証拠である。産毛うぶげが一面に生えていたが色はあざやか黄金色こがねいろであった。人間の肌には相違ない。が、しかし、その人間が……肉の一所が脹れ上がり見るも恐ろしい紫色に変色してるばかりでなくその真ん中と思われる辺に一つの小さい突き傷があり突き傷は随分深そうであった。細い鋭利な金属性の物で深く刺されたものらしい。
 この時までの専斎は見るも気の毒な臆病者であったが、怪我人の傷を一眼見るや俄然態度が緊張ひきしまった。つまり医師としての自尊心が勃然湧き起こったからであろう。彼は片手をズイと差し込みそろそろと肌にさわって見た。
「……第一あばら。……第二肋。……うむ別に異状なし。……肺の臓? ええと待てよ…… ふむ、なるほど。ちとあぶなかったな。……しかし、まずまず危険には遠い。……あっ、しまった! 肺尖はいせんが! ……」
 心の中で呟きながら専斎はズンズン診て行った。
「……一分、いやいや五厘の相違で、幸福にも生命を取り止めたわい。……」
「専斎殿、お診断みたては?」
 覆面の老人が囁くように訊いた。
「大事はござらぬ。幸いにな……」
「さようでござるかな。それで安心。……」老人はホ――ッと溜息をしたが、その様子でその老人がどんなに心配をしていたかが十分想像出来そうである。


    ここにもある六歌仙

 専斎は懐中から紙入れを出した。キラキラ光る銀色のナイフ、同じくのこぎり、同じく槌、それから幾本かのピンセット。――外科の道具を抜き出したが、まず一本のナイフを握ると一膝膝をいざり出た。……患部へ宛ててスッと引く。タラタラと流れ出る真っ赤の血を用意のきれぬぐい眼にも止まらぬ早業で手術の手筈を付けて行く。
 もうこの時には彼の心には、陰森と寂しい部屋のさまも、痩せた覆面の老人の姿も、確かに人間ではあるけれど人間ならぬ不思議な肌の小気味の悪い患者のことも、ほとんど存在していなかった。彼の心にあるものは、危険性を持った奇怪な傷をどうしたらうまく癒せるかという医師的責任感ばかりであった。
 こうして間もなく消毒も終え、クルクルと繃帯を巻きえると、
「これでよろしい」と静かにいった。「みさえせねば大丈夫でござる」
みさえせねば?」と不安そうに、「いかがでござろう熟みましょうかな?」声は不安に充ちている。
「いや、九分九厘……大丈夫でござる」
「それはそれは有難いことで」
 いうと一緒に手を延ばしスーと金屏風を引き廻した。
「しばらく……」というと立ち上がり広い座敷を横切って行く。部屋の外れの襖を開けるとふっとその中へ消え込んだ。
 一人になると専斎はまたゾクゾク恐ろしくなったが、度胸を定めて四辺あたりの様子を盗みまなこで見廻した。部屋の広さは百畳敷もあろうか古色蒼然といいたいが事実はそれと反対で、ほんの最近に造ったものらしく木の香のするほど真新しい。横手にこじんまりとした床の間があった。二幅の軸が掛かっている。
「はてな?」と呟いて専斎はその軸へじっと眼を注いだ。「や、これは六歌仙だ!」
 それはいかにも六歌仙のうち、僧正遍昭と文屋とであった。
「同じ絵師の筆だわえ」
 また専斎は呟いた。
 それもいかにもその通り、そこに掛けてある二歌仙は、かつて専斎が持っていて小間使いのお菊に奪われた小野小町の一幅と、もう一つ現在持っている大友黒主の一幅と全く同じ作者によって描かれたものだということは一見すれば解るのであった。
「どれ寄って拝見しよう」
 腰を上げようとした時である。正面の障子が音もなく開いた。「人が来たな」とひょいと見たが、障子の向こうに、縁側があり縁側の外れに雨戸がありその雨戸が細目に開いて庭園の一部が見えているばかり人らしいものの影もない。また専斎はゾッとした。冷たい汗が背を流れる。
「わっ! たまらねえ! 化物屋敷だア」
 叫ぼうとした時、障子の隙へ奇妙な顔が現われた。
「だ、誰だア!」
 と声を掛ける。とたんに破れた渋団扇が障子の間からフワリと出た。それから素足がニョッキリと出てやがて全身を現わしたのを見ると、専斎はキョトンと眼を円くした。もちろん恐怖もあったけれどむしろそれよりはおかしかった。まずその男の風彩は僧でもあり俗でもあった。鼠の衣裳に墨染めの衣、胸に叩き鐘を掛けている。腰に下げたは頭陀袋ずだぶくろで手首に珠数を掛けている。頭は悉皆しっかい禿げていたがそれでも秋の芒のようにチョンビリと白髪しらがが残っている。そうしてひどく年寄である。それが渋団扇を持っているのだ。
「誰だ?」と専斎はもう一度いった。
「貧乏神さ。ごらんの通りね」
「貧乏神だ? どこから来た!」
「フフフフお前さんの家からさ」
 いいすてるとスルスルと床の間の方へ貧乏神は歩いて行った。
「どこへ行く!」といいながら専斎はヌッと立ち上がった。

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