二尺八寸の吹矢筒
「何がめでとうござりましょうぞ」
三右衛門は涙の眼を抑え、
「米屋薪屋醤油屋へ何んと弁解したものか。ああああこれは困ったことになった。それだのにマアマア旦那様は首尾はよいの上々吉だのと。これが何んのめでたかろう」
「まあ見ろ三右衛この筒を」
こういいながら紋太郎はさもさも嬉しいというように手に持っていた吹矢筒をひょいと眼の前へ持ち上げたが、
「お前も知っている鳥差しの丑、俺が吹矢を好きだと知ってか、わざわざ持って来てくれて行った。知行所の百姓は感心じゃ。俺を皆可愛がってくれる。……これは素晴らしい吹矢筒だ。第一大分古い物だ。木肌に脂が沁み込んで鼈甲のように光っている。俺は来る道々験して見たが、百発百中はずれた事がない。嘘だと思うなら見るがよい」
側に置いてある小箱をあけると手製の吹矢を摘み出した。ポンと筒の中へ辷り込ませる。それからそっと障子をあけた。
庭の老松に一羽の烏が伴鳥もなく止まっていたが、真っ黒の姿を陽に輝かせキョロキョロ四辺を見廻している。
紋太郎はろくに狙いもせず筒口へ唇を宛たかと思うと、ヒュ――ッと風を切る音がして一筋の白光空を貫きそれと同時に樹上の鳥はコロリと地面へ転げ落ちた。
いつもながらの精妙の手練に、三右衛門は感に耐えながらも、今は褒めている場合でない。重い溜息を吐くばかりであった。
「二尺八寸の短筒ながらこの素晴らしい威力はどうだ! 携帯に便、外見は上品、有難い獲物を手に入れたぞ」
「米屋薪屋醤油屋へ何んと弁解したものであろう」
「三右衛、何が不足なのじゃ?」
「何も不足はござりませぬが。……金のないのが心配でござります」
「金か、金ならここにある」
紋太郎は懐中へ手を入れるとスルリと胴巻を抜き出した。
「小判で二百両、これでも不足かな」
三右衛門の前へドンと投げる。
「あまりお前が金々というから実はちょっとからかったまでさ」
「へえ、それにしてもこんな大金を……」
三右衛門は容易に手を出さない。
紋太郎は哄然と笑ったが、
「貧乏神のいったこともまんざら嘘ではなかったわい。……何の、三右衛、こういう訳だ。実は喜撰を掠られたので俺もひどく悄気たものさ。といってノメノメ帰られもしないで、知行所へ行って見るとどうした風の吹き廻しか、いつもは渋る嘉右衛門が二つ返辞で承知をしてくれ、いい出した倍の二百両というもの融通をしてくれたではないか。その上でのいい草がいい。――今年はご出世なさいますよとな。……で、俺が何故と訊いて見ると、何故だかそれは解りませぬと、こういって澄ましているではないか。……三右衛安心をするがいいぞ。どうやら貧乏の俺の家もこれから運に向かうらしい。貧乏神めもそういったからの」
こうして春去り夏が来た。その夏も逝って秋となった。
小鳥狩りの季節となったのである。
ちょっと来かかった福の神も何かで機嫌を害したと見え、あの時以来紋太郎の家へはこれという好運も向いて来なかったので、依然たる貧乏世帯。しかしあの時の二百両で諸方の借金を払ったのでどこからもガミガミ催促には来ない。それで昨今の生活振りは案外暢気というものであった。
「おい三右衛困ったな。ちっとも好運がやって来ないじゃないか」
時々紋太郎がこんなことを云うと却って用人三右衛門の方が昔と反対に慰めるのであった。
「なあに旦那様大丈夫ですよ。米屋も薪屋も醤油屋も近頃はこちらを信用して少しも催促致しませんので。一向平気でございますよ」
「どうやら米屋醤油屋が一番お前には恐いらしいな」
「へい、そりゃ申すまでもございませんな。生命の糧でございますもの」
「腹が減っては戦は出来ぬ。ちゃんと昔からいっておるのう」
大御所家斉公
ある日、紋太郎は吹筒を携え多摩川の方へ出かけて行った。
多摩川に曝す手作りさらさらに何ぞこの女の許多恋しき。こう万葉に詠まれたところのその景色のよい多摩川で彼は終日狩り暮した。
「さてそろそろ帰ろうかな」
こう口へ出して呟いた頃には、暮れるに早い秋の陽がすっかり西に傾いて、諸所に立っている森や林へ夕霧が蒼くかかっていた。そうして彼の獲物袋には、鶸、鶫、などがはち切れるほどに詰まっていた。
林から野良へ出ようとした時彼は大勢の足音を聞いた。見れば鷹狩りの群れが来る。
その一群れは足並揃えて粛々とこっちへ近寄って来る。同勢すべて五十人余り、いずれも華美の服装である。中でひときわ目立つのは狩装束に身を固めた肥満長身の老人で、恐ろしいほどの威厳がある。定紋散らしの陣帽で顔を隠しているので定かに容貌は解らないものの高貴のお方に相違ない。五人のお鷹匠、五人の犬曳き、後はいずれもお供と見えてぶっ裂き羽織に小紋の立付、揃いの笠で半面を蔽い、寛いだ中にも礼儀正しく老人を囲んで歩を運ぶ。
「さては諸侯のお鷹狩りと見える。肥後か薩摩かどなたであろう。いずれご大身には相違ないが」
紋太郎は心中審りながら、逢っては面倒と思ったので林の中に身を隠し木の間から様子を窺った。
鷹狩りの群れは近寄って来る。
近づくままよく見れば、老人の冠られた陣帽に、思いも寄らない三葉葵が黄金蒔絵されているではないか。疑がいもなく将軍ご連枝。お年の恰好ご様子から見れば、十一代将軍家斉公。西丸へご隠居して大御所様。そのお方に相違ない!
紋太郎はハッと呼吸を呑んだ。持っていた吹筒を地へ伏せる上自分もそのままピタリと坐り両手をついて平伏した。見る人のないことは承知であるが、そこは昔の武士気質、まして紋太郎は礼儀正しい。蔭ながら土下座をしたのであった。
鷹狩りの一行は林の前を林に添って行き過ぎようとした。
と、忽然西の空から、グーン、グーンという物の音が虚空を渡って聞こえて来た。
家斉公は足を止めた。で、お供も立ち止まる。
「何んであろうな、あの音は?」
こういいながら笠を傾け、日没余光燦然と輝く西の空を眺めやった。
「不思議の音にござります」
こう合槌を打ったのは寵臣水野美濃守であった。さて不思議とは云ったものの何んの音とも解らない。しかしその音は次第次第にこの一行へ近づいて来た。やはり音は空から来る。
「おお、鳥じゃ! 大鳥じゃ!」
家斉公は手を上げて空の一方を指差した。
キラキラ輝く夕陽をまとい、そのまとった夕陽のためにかえって姿は眩まされてはいるが、確かに一羽の巨大な鳥が空の一点に漂っている。
何んとその鳥の大きいことよ! それは荘子の物語にある垂天の大鵬と云ったところで大して誇張ではなさそうである。大鷲に比べて二十倍はあろうか。とにかくかつて見たことのない奇怪な巨大な鳥であった。
グーン、グーン、グーン、グーン、かつて一度も聞いたことのない形容を絶した気味の悪い声! そういう啼き声を立てながら悠然と舞っているのであった。
家斉公はまじろぎもせず大鵬の姿を見詰めていたが、
「聞きも及ばぬ化鳥のありさま。このまま見過ごし置くことならぬ! 誰かある射って取れ!」
「はっ」と返辞えて進み出たのは近習頭白須賀源兵衛であった。
「おおそちなら大丈夫じゃ。矢頃を計り射落とすがよいぞ」
「かしこまりましてござります」
近習の捧げる重籐の弓をむずと握って矢をつがえたが、二間余りつと進むと、キリキリキリと引き絞った。西丸詰めの侍のうち、弓術にかけてはまず源兵衛と人も許し自分も許すその手練の引き絞った弓、千に一つの失敗もあるまいと、供の一同声を殺し、矢先に百の眼を集めたとたん、弦音高く切ってはなした。その矢はまさに誤たず大鵬の横腹に当ったが、こはそもいかに肉には通らず、戞然たる音を響かせて、二つに折れた矢は地に落ちて来た。
「残念!」とばかり二の矢をつがえ再びひょうふっと切って放したが、結果は一の矢と同じであった。二つに折れて地に落ちた。
心掛けある源兵衛は三度射ようとはしなかった。弓を伏せて跪座まる。
大鵬空に舞う
「源兵衛どうした。手に合わぬか?」家斉公は声をかけた。
「千年を経ました化鳥と見え、二度ながら矢返し致しましてござる」
「おおそうか、残念至極。そちの弓勢にさえ合わぬ怪物。弓では駄目じゃ鷹をかけい! 五羽ながら一度に切って放せ!」
「は、はっ」
と五人の鷹匠ども、タラタラと一列に並んだが、拳に据えた五羽の鷹を屹と構えて空へ向ける。さすがは大御所秘蔵の名鳥、プッと胸を膨張ませ、肩を低く背後へ引く。気息充分籠もると見て一度に颯と切って放す。と、あたかも投げられた飛礫か、甲乙なしに一団となり空を斜めに翔け上った。
家斉公は云うまでもなく五十人のお供の面々は、固唾を呑んで眺めている。その眼前で五羽の鷹、大鵬を乗り越し上空へ上るや一時にバラバラと飛び散ったがこれぞ彼らの慣用手段で、一羽は頭、一羽は尻、一羽は腹、二羽は胴、化鳥の急所を狙うと見る間に一度に颯と飛び掛かった。
ワッと揚がる鬨の声。お供の連中が叫んだのである。
「もう大丈夫! もう大丈夫!」
家斉公も我を忘れ躍り上がり躍り上がり叫んだものである。しかしそれは糠喜びで、五羽の鷹は五羽ながら、投げられたように弾き飛ばされ、空をキリキリ舞いながら枯れ草の上へ落ちて来た。
五羽ながら鷹は頭を砕かれ血にまみれて死んでいる。しかも大鵬は悠然と同じ所に漂っている。
物に動ぜぬ家斉公も眼前に愛鳥を殺されたので顔色を変えて激怒した。
「憎き化鳥! 用捨はならぬ! 誰かある誰かある退治る者はないか! 褒美は望みに取らせるぞ! 誰かある誰かある!」
と呼ばわった。しかし誰一人それに応じて進み出ようとする者はない。声も立てず咳もせず固くなってかたまっている。これが陸上の働きならば旨を奉じて出る者もあろう。ところが相手は空飛ぶ鳥だ。飛行の術でも心得ていない限りどうにもならない料物である。ましてや弓も鷹も駄目と折り紙の付いた怪物である。誰が何んのために出て来るものか。
忽然この時林の中から一人の若者が走り出た。すなわち藪紋太郎である。
紋太郎は遙か彼方から此方に向かって一礼したが、その眼を返すと空を睨んだ。二尺八寸短い吹筒、つと唇へ当てたかと思うと大きく呼吸をしたらしい。ぴかりと光った白い物。それが空を縫ったらしい。その瞬間に恐ろしい悲鳴が空の上から落ちて来た。と、その刹那空の化鳥が一つ大きく左右に揺れたが、そのままユラユラと落ちて来た。しかしそこは劫を経た化鳥、地へ落ちて死骸を曝らそうとはしない。さも苦しそうに喘ぎ喘ぎ地上十間の低い宙を河原の方へ翔けて行く。そうしてそれでも辛うじて広い河原を向こうへ越すと暮れ逼って来た薄闇の中へ負傷の姿を掻き消した。
どんなに大御所が喜んだか? どんなに紋太郎が褒められたか? くだくだしく書くにも及ぶまい。
「紋太郎とやら、見事見事! 遠慮はいらぬ褒美を望め!」破格をもって家斉公は直々言葉を掛けたものである。
「私、無役にござりまする。軽い役目に仰せ付けられ、上様おため粉骨砕身、お役を勤むる事出来ましたなら有難き儀に存じまする」これが紋太郎の希望であった。
「神妙の願い、追って沙汰する」
これが家斉の言葉である。
はたして翌日若年寄から紋太郎へ宛てて差紙が来た。恐る恐る出頭すると特に百石のご加増があり尚その上に役付けられた。西丸詰め御書院番、役高三百俵というのである。
邸へ帰ると紋太郎は急いで神棚へ燈明を上げた。貧乏神への礼心である。
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