七
その笑った男の顔を見て、わたしはヒヤリといたしました。竹田街道の立場茶屋で、「おいどうだった?」とお綱という女に向かい、声をかけたところの男だったからです。
「何か用ですかい」とその男が云って、もう笑顔を引っ込ませ、怪訝そうに訊きかえしました。
「いいえ……ナーニ……なんでもないんですが……お見受けしましたところあのお屋敷から……」
「あの屋敷がどうかしましたかな?」
「いいえ、ナーニ、何んでもないんですが……空家だと思っておりましたところが、あなた様が潜門から出て来られたので。……それに綺麗な手が見えたりしましたので……」
「綺麗な手? なんですかそいつは?」
「千木の立ててある建物から――建物の二階の雨戸から、綺麗な上品な手が出ましたので……」
「ナニ、千木のたててある建物から、綺麗な上品の手が出たんだって」と、その男はひどく驚いたように云って、その建物を振りかえって眺めましたが、「何を馬鹿らしいそんなことが。……お前さんあそこはあらたかな所でね、ある一人の女の他は、誰だってはいれねえところなのさ。……はいったが最後天罰が……だが待てよ、そこから手が出た? とするとあの女の手なんだろうが、俺らあの女とは今しがたまで、別棟の主家で話していたんだ」
後の方はまるで独言のように云って、もう一度その男は振りかえって、その建物を眺めましたが、
「馬鹿な、そんなことがあるものか! ……それはそうとオイ重助さん、五反麻の生活面白いかね」
「え?」とわたしはギョッとしましたが、「へい……何んでございますか」
「あのお方たっしゃかい」
「え? へい……あのお方とは?」
「ご上人様のことよ、しらばっくれるない」
「…………」
「アッハッハッ、まあいいや。……おっつけお眼にかかるから」
云いすてるとその男は飛ぶような早さで、町の方へ走って行きました。
道々考えにふけっておりましたので、斗丈様の庵室へ行きついた時には、初夜近い時刻になっていました。小門をくぐろうといたしました。
と、どうでしょう手近のところから、呼子の音が聞こえて来たではありませんか。
「おや!」と思わず云いましたっけ。
と、生垣と植え込みとによって、こんもり囲まれている庵室を眼がけて、数十人の人影がどこからともなく現われ、殺到して行くではありませんか。
(捕吏だ!)と私は突嗟に思いました。(ご上人様を捕えに来た捕吏たちだ!)
そう思った私を裏書きするように、
「方々捕吏だ、捕吏でござるぞ!」と叫ぶ、斗丈様の狼狽した声が聞こえて来ました。
それに続いて聞こえて来たのは、戸や障子の仆れる音、捕吏たちの叫ぶ詈り声などで、その捕吏たちが庵室へ駈け上がり、奥の方へ乱入して行く姿なども、影のように見えました。わたしは夢中で走って行きました。
でも庵室の縁の前まで行った時、抜き身を揮って喚く北条右門様や、鞘のままの大刀を左手に提げ、右手で捕吏たちを制するようにしている、わたしの見知らない若いお侍さんや、顔色を変えている斗丈様、そういう方々によって警護され、しかし大勢の捕吏たちによって、奥の部屋から引き出されたらしい、ご上人様の法衣姿が、勿体なく痛々しく現われて来ました。
(ああとうとうお捕られなされた?)
と、私は眼をクラクラさせ、地面へ膝をついてしまいました。
そういう眩んだわたしの眼にも、ご上人様の片袖を握っている男が、竹田街道の立場茶屋で逢い、そうしてたった今しがた、怪しい屋敷の前で逢ったところの、例の男であることがわかりました。
何んという無礼な男なのでしょう、その男は不意に手をあげて、ご上人様の冠っておられた黒の頭巾を、かなぐりすてたではありませんか。
「あっ」
わたしも驚きましたが、捕吏たちもすっかり胆をつぶし、叫んだり喚いたり詈ったり、座敷から庭へ飛び下りたりしました。
突然笑い声が爆発しました。
右門様が抜き身を頭上で振りまわし、躍り上がりながら笑ったのでした。
「ワッハッハッ、思い知ったか!」
「だから拙者申したのじゃ」と、右門様の笑い声に引きつづき、総髪の大髻に髪を結い、黒の紋附きに白縞袴を穿いた、わたしの見知らないお侍様が凛々しい重みのある澄んだ声で、そう捕吏たちに云いました。
「人違いじゃ、粗相するなと。……平野次郎国臣は嘘言は云わぬよ。……月照上人など当庵にはおられぬ。……これなるお方は野村望東尼殿じゃ。……福岡において誰知らぬ者とてはない、女侠にして拙僧の野村望東尼殿じゃ。……和歌の会催そうそのために、望東尼殿も拙者も参会したものを、月照上人召し捕るなどと申して、この狼藉は何事じゃ」
内外森然としてしまいました。
おおおおそれにしても何んということなのでしょう、ご上人様と思っていたそのお方は、さっき方怪しい屋敷の前で、わたしが物を訊ねましたところの、尊げな尼僧様でありましたとは。
八
這々の態で捕吏たち一同が、斗丈庵から立ち去った後、わたしたちは奥の部屋へ集まりました。野村望東尼様や平野国臣様が、この夜斗丈庵へ参りましたのは、お二人ながら勤王の志士女丈夫なので、同じ勤王家のご上人様を訪ね、国事を論じようためだったそうです。このことはよいといたしまして、わたしたちにとりましてどうにもわからない、一大事件の起こっておりますことを、庵主斗丈様の口から承わり、わたしたちは驚いてしまいました。というのはこの日の昼頃から、ご上人様のお姿が、庵から消えてしまったことなのです。
「庵の内は申すに及ばず、庵の外の心あたりを、くまなくおさがしいたしましたが、どこにもおいでござりませぬ」
こう斗丈様はおっしゃるのでした。
誰もが一言も物を云わず、不安と危惧とを顔に現わし、溜息ばかり吐いておりました。
とうとうわたしは我慢出来ずに、思っていることを云ってしまいました。
「お城下外れにある犬神の屋敷に、どうやらご上人様は監禁あそばされておると、そんなように思われるのでござります」
――それからわたしは出来るだけ詳しく、例の屋敷の建物の一つから、ご上人様の手だと思われる手が、雨戸の隙から出たということを、四人のお方に申しました。四人のお方は半信半疑、まさかと思われるようなお顔をして、黙って聞いておりましたが、
「ああそれだからあの時重助さんは、あんなことをわたしに訊いたのですね」と、望東尼様が仰せになり、「まさかそのような犬神の屋敷などに、ご上人様がおいでになろうとは思われませぬが、といってここに思案ばかりして、無為におりますのもいかがなものか。……せっかく重助様がああおっしゃることゆえ、ともかくもそこへ行って探ってみては?」
「それがよろしい」と平野国臣様が、すぐにご賛成なさいました。
「疑がわしきは調べた方がよろしい」
「では拙者も参るとしましょう」こう右門様もおっしゃいました。
斗丈様ばかりを庵へ残し、わたしたち四人が五反麻を立って、犬神の屋敷へ向かったのは、それから間もなくのことであり、後夜をすこしく過ごした頃には、屋敷の前に立っていました。
「まず拙者が」と云いながら、北条右門様が土塀を乗り越し、内側から潜り戸をあけましたので、わたしたちは構内へ入り込みました。
「静かに! ……いる、誰かいる。……それも大勢いるらしい」
植え込みの間を分けながら、千木の立っている建物の方へ、わたしたちが数間歩きました時、囁くような声で国臣様は云われ、にわかに足を止められました。
「北条氏、北条氏、貴殿には望東尼様を警護されて、ゆるゆる後からおいでくだされ。……重助おいで、わしと先駆じゃ」
そこでわたしは国臣様とご一緒に、先へ進んで行きました。手入れをしないからでありましょう、植え込みは枝葉を林のように繁らせ、雑草は胸まで届くほどにも延び、それが夜露を持ちまして、手や足に触れる気味の悪さは、何んともいいようがありませんでした。
「重助、あぶない、伏せ、地へ伏せ!」
国臣様が小さいお声で、でも叱なさるかのように、振りかえってそうわたしにおっしゃいましたのは、十間ほど進んだ時でした。
わたしはすぐに地へ寝ました。
寝たまま見ている私の眼の前を掠めて、二人の男が木蔭から飛び出し、左右から豹のように国臣様を目がけて、組みついて行くのが見てとられました。
つづいてわたしの眼に見えましたのは、飛鳥のように国臣様が飛び退き、瞬間片足を蹴上げたことと、それに急所を蹴られたのでしょう、一人の男が呻き声をあげて、あおのけざまに仆れたことと、しかしもう一人の男の方が、もうその時は国臣様の体へ、背後からしっかり組みついたことと、でもその次の瞬間に、その男は振りはなされ、振りはなされたとたんに国臣様によって、おそらくあて身をくわされたのでしょう、これも呻き声をあげながら、地に仆れたことでした。
「重助来い!」
「へい」
「向こうだ!」
木立のあなた遙かの向こうに、ぽっと火の光が射していましたが、その方へわたしたちは走って行きました。
千木のたててある建物が立っていて、その門の戸があいていて、そこから火の光が射していて、その前に十数人の人影がいて、何やら叫んでおります姿が、わたしたちの眼に見えました。
そうしてそれらの人々の背後に、丘のような蘇鉄の植え込みがあり、その蔭へわたしたちは走り込み、彼らの様子をうかがいましたが、屋内の様子に気をとられていたからか、彼らはわたしたちに気づきませんでした。
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