四
ところが、お台所口から射し出している燈の光で、その男の地に倒れている姿が、女中衆や下男衆に見えたとみえて、飛び出して来て、
「可哀そうに」
「行き倒れだね」
「自身番へ知らせてやんな」
「何より薬を」
「水を持って来い」
などと、口々に言って、その男の介抱にかかったではありませんか。その騒がしさに不審を打ちましたものか、持田様のお嬢様と、そのお気に入りのお上女中のお柳さんというお方が、奥から出て参られ、
「気の毒だから家へ入れて介抱してあげたがいいよ」
と言われました。下男衆がその男をかかえて、家の中へ運んで行く時、その男の顔を覗き、
「好い縹緻ね」
とお嬢様のお小夜様が、お柳という女中へささやかれたのを聞いて、わたしは厭な気がいたしましたっけ。それというのも日ごろから、そのお美しさと初々しさとに、感心もし敬ってもいる、お小夜様だったからでございます。お小夜様のお年は十九歳でございましたが、すこし小柄でございましたので、十七歳ぐらいにしか眺められず、小さい口、つまみ鼻、鮠の形をした艶のある眼、人形そっくりでございました。大工の棟梁とは申しましても、尾張様御用の持田家は、素晴らしい格式を持っていまして、津田助左衛門様、倉田新十郎様、などという、清洲越十九人衆の、大金持の御用達衆と、なんの遜色もないのでありまして、その持田様のお娘御でございますことゆえ、召されておられるお召し物なども、豪勢なもので、髪飾りなどは銀や玳瑁でございました。
「ほんとに好い男振りでございますのね」
とお柳という女中も申しましたっけ。
「馬鹿め、何が好い男だ!」
とうとうわたしは腹立たしさのあまり、かなり烈しい声で、そう言ったものでございます。するとどうでしょうお柳という女は、わたしをジロリと見返しましたが、「いいじゃアないか、お嫉妬でないよ」
と、言い返したではありませんか。
それから十日ばかりの日がたちました。ある日わたしはいつものように、縄張りの諸家様を廻り、合力を受け、夕方帰路につきました。鳥にだって寝倉がありますように、乞食にだって巣はございますので。瓦町の方へ歩いて行きました。考えごとをしておりましたので。町の口へ参りましたころには、初夜近くなっておりましたっけ。ふと行く手を見ますと、一人のお侍さんが、思案にくれたように、首を垂れ、肩をちぢめて歩いて行く姿が、月の光でぼんやりと見えました。
(途方にくれているらしい)わたしはおかしくなりました。(殺生だが一つからかってやろう)というのは、そのお侍さんの誰であるかが、私にわかっていたからで。
そこでわたしはお侍さんに近より、
「討ち損じたは貴郎様の未熟、それでさがし出して討とうとなされても、あてなしにおさがしなされては、なんではしっこい江戸者などを、さがし出すことができましょう」
と、ささやくように言ってやりました。
西条勘右衛門様の驚くまいことか――そう、そのお侍様は西条様なので――ギョッとしたように振りかえられました。でも見廻した西条様の眼には、菰をまとい竹の杖をつき、面桶を抱いた乞食のほかには、人っ子一人見えなかったはずで。そうしてまさかその乞食が、今のようなことを言ったとは、思わなかったことと存じます。
はたして西条様は、自分の耳を疑うかのように、首をかしげましたが、やがて足を運ばれました。そこでわたしもしばらくの間は、無言で従いて行きました。でもまたこっそり背後へ近寄り、ささやくように言ってやりました。
五
「大工だと申したではございませんか。ではお城下の大工の棟領を――それも船大工の棟領を、おしらべなさいましたら、あの男の素性も、現在のおり場所も、おわかりになろうかと存ぜられまする」
「チエ」
もうこの時には西条様の刀が、抜き打ちにわたしの右の肩へ、袈裟がけに来ておりました。
わたしは前へつんのめりました。
「そう、あの男もこんなように、貴郎様の太刀先をのがれましたねえ」
「乞食め!」
と西条様はわたしの背を目がけ、斬りおろしました。
それを掻いくぐって左へ飛び、
「ここに庄内川がありましたら、わたしもあの男のように川へ飛び込んで、のがれることでございましょうよ。……それにしても惜しいものだ、乞食にばかりこだわらずに、素直に私という人間の言葉を聞いて、持田さんあたりを調べたら、たいした功が立てられるのに……」
言いすててわたしは露路の一つへ駈けこみましたっけ。
庄内川の岸で、職人風の男を討ちそこなって逃がし、西丸様からお叱りを受け、どうあろうとその男をさがし出し、討ってとれとの厳命を受け、さがし廻っているがわからない。そのムシャクシャしている腹の中へ、グッと棒でも突っ込んだように、わたしの言葉がはいったのですから、わたしに対する憎しみは烈しく、あくまでも斬りすてようと、わたしの後を追って、西条様が、露路へ駈け込んで来たのは、当然のことかと存ぜられます。でも露路には枝道が多く、こみいっておりましたので、わたしがどこへかくれたか、西条様にはわからなかったようです。
その西条様がぼんやりした様子で、一軒の家の前に佇んだのは、それから間もなくのことでした。
平家だての格子づくりの、粋な真新しい家の前でした。
と、格子戸の奥の障子が、土間をへだてて明るみ、やがて障子が開き行燈をさげた仇っぽい女が、しどけない姿をあらわしました。睫毛の濃い大型の眼、中だるみのない高い鼻、口はといえばこれも大型でしたが、受け口めいておりましたので、色気にかけては充分でした。空いている左手を鬢へ持って行き、女のくせで、こぼれている毛筋を、掻きあげるようにいたしましたが、八口や袖口から、紅色がチラチラこぼれて、男の心持を、迷わせるようなところがありました。及び腰をして格子戸の方を隙かし、
「どなた、宅にご用?」
と、含みのある水っぽい声で言ったものです。
「いや」
と西条さんは狼狽したような声で、
「狼藉者が入り込んだのでな」
「狼藉者? 気味の悪い……どのような様子の狼藉者で?」
「乞食じゃよ、穢ない乞食じゃ」
「お菰さん、おやおや……お菰さんでございましたら、もうこの辺へは、毎日のように、いくらでも立ち廻るのでございますよ」
「それが怪しからん乞食でな」
「旦那様に失礼でもなさいましたので?」
「うむ、まあ、そういったことになる」
「息づかいがお荒うございますのね。お水でも……」
「水か、いや、それには及ばぬ」
「ではお茶でも、ホ、ホ」
その女は、プリプリしているお侍さんを、からかってやろうというような様子を、見せはじめましてございます。
「戸じまりなど充分気をつけるがよいぞ」
西条様はテレかくしのように言って、歩き出されました。
女は持田様の女中お柳でございました。そうしてそのお柳は少したったのちには、この家の奥の茶の間にすわって、丹前を着た三十五、六の、眼の鋭い、口元の締まった武士と、砕けた様子で話していました。長火鉢の横には塗り膳があって、それには小鉢物がのせてあり、燗徳利などものせてあるという始末で。お柳がその男を旗さんと呼んだり、頼母さんと呼んだりするところを見ると、それがその男の姓名であり、二人の間柄は、情夫情婦のようでありました。
そうして、その旗頼母という武士こそ、勢州と呼ばれているこの乞食の私なのでございます。どうして武士の私が乞食などになっているかと申しますに、ある重大な計画の秘密を探るためなので。つまり私は乞食に身をして隠密をしているのでございます。庄内川の岸に寝ていたのも、持田家の周囲を立ち廻ったのも、そのためなので。それにしてもどうして露路へ逃げ込んだ私が、そんな家で、お柳と、取膳で、酒など飲んでいたのかと申しますに、私は、露路へ逃げ込むや、その家――それは私の隠れ家なのですが、その家の前のしもた家の蔭に隠れて、お柳と西条様との会話を聞いていたのでしたが、西条様が立ち去るやすぐに私は、自分の家の裏口から台所へはいって行き、持田家の秘密を探らせるために、持田家へ、女中として入り込ませておいたお柳が、持田家の秘密を持って、この夜来合わせていたのに手伝わせ、乞食の衣裳を脱ぎ、行水を使い、茶の間で、そんなように、取膳で……と、いうことになったのでありまして、さてそれからは、私とお柳との会話になるのでございます。――
「今夜は泊まって行ってもいいのだろう」これは私で。
「というわけにもいかないのさ。……何しろお嬢様があんなだからねえ」
「惚れるのに事を欠いて、あんな野郎に惚れるとはなア」
「鶴吉と宣っているあの江戸者、女にかけちゃア凄いものさ」
「そこへもって来てお小夜坊が、初心の生娘ときているのだからなあ」
「ころりと参って無我夢中さ」
「駆け落ちの相談ができ上がったとは、呆れ返って話にもならない」
「世間知らずの娘だからだよ」
「男の素性に気もつかずか」
「男の心にも気がつかずさ」
「まったくそうだ、だから困るのさ。本当の恋からの所業ならいいのだが、そうでないのだから恐ろしい」
「江戸へうまうま連れ出されてから、どうされるかってこと、知らないんだからねえ」
「生き証拠にされるってこと、ご存知ないからお気の毒さ」
お柳の注いだ猪口を私は口へ持って行きました。
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