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赤格子九郎右衛門の娘(あかごうしくろうえもんのむすめ)
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誰白浪の夜働 こういうことがあってから二十日あまりの日が経った。 夜桜の候となったのである。 ここは寂しい木津川縁で、うるんだ春の二十日月が、岸に並んで花咲いている桜並木の梢にかかり、蒼茫と煙った川水に一所影を宿している。 と、パタパタと足音がして、一人の娘が来かかったが、風俗を見れば確かに夜鷹、どうやら急いでいるらしい。 「はてマアどこへ行った事か、ここまで後を追って来て、今さら姿を見失っては、せっかくの親切が行き届かぬ。と云ってこれから川下は人家もない寂しい場所、女の身では恐ろしい」 ――とたんに若い女の声で、 「あれッ」と云う声が聞こえてきた。 はっと驚いて声の来た方を、夜鷹はじっと隙かして見た。夜眼にも華やかな振袖姿、一人の娘が川下から脛もあらわに走って来たが、 「助けて!」と叫ぶ声と一緒に犇と夜鷹へ抱き付いた。それをその儘しかと抱き、 「見れば可愛らしいお娘御、こんな夜更けに何をしてこんな所においでなさんす」 「はい」と云ったがなお娘は、恐ろしさに魂も身に添わぬか、ガタガタ胴を顫わせながら、 「はい、妾は京橋の者、悪漢共に誘拐され、蘆の間に押し伏せられ手籠めに合おうとしましたのを、やっとのことで擦り抜けてそれこそ夢とも現とも、ここまで逃げて参りました。後から追って来ようもしれず、お助けなされて下さりませ」 「それはまアお気の毒な。いえいえ妾がこうやって一度お助けしたからは、例え悪漢が追って来ようと渡すものではござんせぬ。それはご安心なさりませ」 「はい有難う存じます」 こう娘は云ったものの、不思議そうに夜鷹を眺め、 「お見受けすればお前様もまだ若い娘御こんな夜更けに何をして?」 「ああその事でござんすか。……何と申してよろしいやら。……」 袖で顔をかくしたが、 「こういう寂しい場所へ出て客を引くのが妾の商売、……妾は夜鷹でござんすよ。――どうやら吃驚なされたご様子。決してご心配には及びませぬ。心は案外正直でござんす。……実は難波桜川で、はじめてのお客を引きましたところ、わたしの初心の様子を見て、かえって不心得を訓しめられ、一朱ばかり頂戴し、別れた後で往来を見れば、大金を入れた革財布が……」 「おお落ちて居りましたか?」 「中味を見れば二百両」 「え、二百両? むうう、大金!」 「はい、大金でございますとも。すぐに後を追っかけて、ここまで走って来は来ましたが……」 「見付かりましたか、落し主は?」 「いいえ、それがどこへ行ったものか、見失ってしまいました」 「それでは財布はそっくりその儘……」 「妾の懐中にござんすとも」 「おやまアそれはいい幸い、どれ妾に障らせておくれ」 グイと腕を差し延ばすと、夜鷹の胸元へ突っ込んだ。 「あれ!」と云う間もあらばこそ、ズルズルと財布は引き出された。 「それじゃお前は泥棒だね!」 「今それに気がお付きか! こう見えても女賊の張本赤格子九郎右衛門の娘だよ!」 「泥棒! 泥棒!」と喚き立てる夜鷹。 「ええ八釜敷!」とサット突く。 ドンという水の音。パッと立つ水煙り。夜鷹は木津川へ投げ込まれた。 その時、黒い人影が川下の方から走って来たが、 「そこに居るのは姐御じゃねえか」 近寄るままに声を掛ける。 「ああ忠さんかいどうおしだえ?」 「ひでえ目に逢いましたよ」 「眼端の鋭いお前さんが、酷い目に逢ったとは面白いね。何を一体縮尻たんだえ?」 「何ね中之島の蔵屋敷前で、老人の武士を叩斬り、懐中物を抜いたはいいが、桜川辺りの往来でそいつを落としてしまったんだ。つまらない目にあいやしたよ」 聞くとお菊はプッと吹き出し、 「落とした金は二百両かえ?」 「へえ、いかにも二百両で……」 「革の財布に入れたままで?」 「こりゃ面妖だ。こいつア不思議だ!」 「女を買うもいいけれど、夜鷹だけは止めたがいいね」 「…………」 「何だ詰まらないお前の金か。無益の殺生したものさね。……さあ返すよ。それお取り」
「殿様、今夜は漁れましょうぜ。潮の加減でわかりまさあ」 ギーギーと櫓を漕ぎながら漁師は元気よく云うのであった。 「おお漁れそうかな。それは有難い網の上らぬほど漁りたいものだ」 船の中から老武士が髯を撫しながら悠然と云った。それは志摩卜翁であった。 「殿様、塩梅が悪いそうだね」 「どうも体がよくないよ」 「若い女子ばかり傍へ引き付け、あんまり不養生さっしゃるからだ」 「アッハハハこれは驚いた。すこし攻撃が手酷どすぎるぞ。とは云え確かに一理はあるな。実は俺も考えたのじゃ。どうも運動が足りないようだとな。そこで投網をやりだしたのさ」 「投網結構でございますよ。いい運動になりますだ。……おおもうここは木津川口だ。そろそろ網を入れましょうかな。あッ、畜生! これは何だ!」 「どうした?」と卜翁は膝を立てた。 「お客様だア! 土左衛門でごわす!」
不思議な邂逅 「なに、水死人だ? それ引き上げろ!」 卜翁は烈しく下知をした。そうして自分も手伝って若い女の死骸を上げた。 「漁は止めだ。船を漕いで一刻も早く陸へ着けろ」 「へえへえ宜敷うござります」 漁師はすっかり狼狽してただ無闇と櫓を漕いだ。 卜翁は女の鳩尾の辺りへじっと片手を当てて見たが、 「うむ、有難い、体温がある。手当てをしたら助かるであろう。まだ浦若い娘だのに殺してしまっては気の毒だ。爺々もっと漕げ!」 「へえへえ宜敷うござります」 船は闇夜の海の上を矢のように陸の方へ駛って行く。
その翌日のことであった。 落花を掃きながら忠蔵はそれとなく亭の方へ寄って行った。亭の中にはお菊がいる。とほんとしたような顔をして当てもなく四辺を眺めている。 「姐御、変なことになりましたぜ」 忠蔵は窃っと囁いた。 「昨夜の女が死にもせず、旦那に命を助けられてここへ来ようとはコリャどうじゃ」 「お釈迦様でも知らないってね、……お前さんはそれでもまだいいよ。妾の身にもなってごらん。本当に耐ったものじゃないよ。とにかく妾はあの女を川へ蹴落したに相違ないんだからね。これが旦那に暴露ようものなら妾達の素性も自然と知れ、三尺高い木の上で首を曝さなけりゃならないんだよ」 「姐御、逃げやしょう。逃げるが勝だ」 「そうさ、逃げるが勝だけれど、親の敵を討ちもせず、あべこべに追われて逃げるなんて妾は癪でしかたがないよ」 「と云ってみすみすここにいてはこっちのお蔵に火が付きやすぜ」 「とにかくもう少し様子を見ようよ。と云って妾は行かれない」 「へえそれじゃこの私に様子を見ろと仰有るので? どうもね、私にはその悠長が心にかかってならないのですよ。いっそこの儘突っ走った方が結句安全じゃありませんかね」 お菊は返辞をしなかった。 陽が次第に暮れて来る。
こういうことがあってから二十日あまりの日が経った。三日見ぬ間に散るという桜の花は名残なく散り、昔のことなど思い出される、山吹の花の季節となった。 この頃水死から助けられた辻君のお袖は元気を恢復し、卜翁の好意ある進めに従い、穢わしい商売から足を洗い、一つは卜翁への恩返し、小間使いとして働くことになり、病気と云って誰にも逢わず離れ座敷に引き籠もっている妾のお菊の代理として今では卜翁の身の廻りまで手伝う身分となっていた。 日向りのよい離れ座敷の丸窓の下で出逢ったのは、そのお袖と忠蔵とである。 「おや忠さん、いい天気だね」 「そうさ、莫迦にいい天気だなあ。そうそう夏めいたというものだろう」 云いすてて忠蔵は行き過ぎようとした。 「ちょいと忠さん、待っておくれよ。そう逃げないでもいいじゃないか」 「なアに別に逃げはしないが、それ諺にもある通り男女七歳にして席を同じうせずか。殊にこちらの旦那様は大変風儀がやかましいのでね」 「でもね、忠さん、立ち話ぐらい、奉公人同志何悪かろう。……ところで妾はたった一つだけ訊きたいことがあるのだよ」 「そりゃ一体どんなことだね?」 しかたなく忠蔵はこう云った。 「他でもないが二十日ほど前、それも夜の夜中にね、大阪難波桜川辺りを通ったことはなかったかね?」 ――そりゃこそお出でなすったは。こう忠蔵は思ったもののそんな気振はおくびにも出さず。 「いいや、ないね。通ったことはない」 「それでもその時のお客というのがそれこそお前さんと瓜二つだがね」 「夜目遠目傘の中他人の空似ということもある」 「それじゃやっぱり人違いかねえ」 お袖はじっと思案したが、 「なるほど、人違いに相違ない。お前さんがあの時のお客なら妾の顔を見るや否や忘れて行ったお金のことを直ぐに訊かなければならないものね」 「へえ、それではその野郎は財布でも忘れて行ったのかね!」 わざととぼけて忠蔵は訊く。 「しかもお前さん二百両という大金の入った財布をね」 「おやおや広い世間にとぼけた野郎があるものだね」 ポンと自分の額を叩き、 「夜鷹を買って財布を落とし、それを姐御に横取りされ……」 「エヘン」とこの時、丸窓の内から、咳の声が聞こえてきた。気が付いた忠蔵は苦笑をし。 「何さ、お前さんの前身が闇を世界の姐御などにはとても見えねえと云ったまでさ」
南無三宝! 絶体絶命! 「妾の前身でござんすか」 お袖はにわかに眼をしばたたき、 「卑しい夜鷹ではござんしたが、根からの夜鷹ではござんせぬ」 「そりゃ云うまでもないことさ。オギャーと産れたその時から夜鷹商売をするものはねえ」 「妾は播州赤穂産れ。家は塩屋でござんした」 「何、赤穂の塩屋だって? ふうむ、こいつは聞き流せねえ。ところで屋号は何と云ったね?」 忠蔵は急に真顔になった。 「はい、山屋と云いましたよ」 「ぷッ」と驚いた忠蔵はつくづくとお袖の顔を見たが。 「それじゃもしや本名は……」 「はい、本名でござんすか。本名はお浪と申します」 「ううむ、お浪! ではいよいよ。……もしやお前の右の腕に、蟹に似た痣はなかったかな?」 「どうして詳くそんな事まで……」 不思議そうにお袖は云いながらグイと袂を捲り上げた。むっちりと白い二の腕のあたり鮮かに見える蟹の痣。 「あッ」と驚いた忠蔵がヨロヨロと蹣跚くその途端、丸窓の障子に音がして、ヒューッと白い物が飛んで来た。それがお袖の襟上に刺さる。白糸の付いた、木綿針だ! お袖を殺せとの命令である。丸窓の内から九郎右衛門の娘、お菊が投げたに相違ない。 仲間の掟は山より重い。頭領の命令は義よりも堅い。たとえ妹であろうとも、白糸の合図があった以上、殺さなければならないのである。 「南無三宝! 絶体絶命!」 腹の中で泣きながら、呑んでいた匕首を抜いた途端、 「お袖、お袖!」と卜翁の声、母屋の縁に立って招いている。 「はい、ただ今」と云いながら、背中に白糸を付けたまま、バタバタとお袖は走って行った。 胸撫で下ろした忠蔵がホッと溜息を吐いた時、サラリと丸窓が内から開き、 「おい忠蔵!」とお菊の声。 無言で忠蔵は眼を上げた。 「因果は巡る小車の、とんだ事になったねえ。ホッホッホッホッ」と凄く笑う。 しかし忠蔵は黙っている。 「お前の妹と知ったなら川へ落としもしなかったろうに。いわば妾はお前にとっては妹の敵と云うところさね。それに反して卜翁めは、お前にとっては妹の恩人。その恩人の卜翁を妾は父の敵として嬲り殺しにしているのだよ。……遠慮はいらない明瞭とお云い! 妾に従くか卜翁に従くか? 妾は十まで数えよう。その間に決心するがいい。一つ、二つ、三つ、四つ」 「姐御」と忠蔵は冷やかに云った。 「もう数えるには及ばねえ。とうに決心は付いてるのだ。そも悪党には情はねえ。肉親の愛に溺れた日にゃ、一刻も泥棒はしていられねえ。今更姐御に背かれようか」 「おおそれでこそ妾の片腕。いい度胸だと褒めてもやろうよ。……変心しないその証拠に今夜お袖をしとめておしまい!」 「え! 罪もねえ妹を 」 「妾も卜翁をばらすからさ」 「その卜翁は姐御の敵。ばらすというのも解っているが、妹には罪も咎もねえ」 「それでは厭だと云うのかい?」 お菊はキリリと眉を上げた。 「…………」 忠蔵は歯を噛むばかりである。 「およしよ」と一句冷やかに、お菊は障子を締め切った。 「姐御!」と忠蔵は声を掛けた、丸窓の内は静かである。 「うん」と忠蔵は頷いたが。 「姐御々々やっつけやしょう!」 「後夜の鐘の鳴る頃に……」 丸窓の奥からお菊が云った。 「後夜の鐘の鳴る頃に……」 忠蔵がそれをなぞって行く。 「妾はここで三味線を弾こう。それが合図さ。きっとおやりよ」
怨みは深し畜生道 やがて日が暮れ夜となった。 夜は森々と更けている。 卜翁の部屋は静かである――お袖とそして卜翁とが、今、しめやかに話している。 「さてお袖」と卜翁は、真面目の口調で改めて云った。 「水死を助けてこの家へ置き、ひそかに様子を見ていると、前身夜鷹とは思われないほど行儀正しい立居振舞。さて不思議と思っていたが、今のお前の物語でよくお前の素性も解った。播州赤穂の山屋といえば大阪までも響いていた立派な塩の製造業。そこの娘とあるからはなるほど行儀もよいはずじゃ。氏より育ちとは云うけれど、やはり氏がよくなければどことなく品が落ちるものじゃ。……そこでお前に訊くことがある。十八年前海賊が突然お前の実家を襲い一家惨殺した上に家財をあげて奪ったという、その海賊の頭領の名を、其方はどうやら知らぬらしいの」 「はい」とお袖は打ち湿り。
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