四
太子のお住まいになっていたお宮は大和の斑鳩といって、今の法隆寺のある所にありましたが、そこの母屋のわきに、太子は夢殿という小さいお堂をおこしらえになりました。そして一月に三度ずつ、お湯に入って体を浄めて、そこへお籠りになり、仏の道の修行をなさいました。
ある時太子はこの夢殿にお籠りになって、七日七夜もまるで外へお出にならないことがありました。いつもは一晩ぐらいお籠りになっても、明日の朝はきっとお出ましになって、みんなにいろいろと尊いお話をなさるのに、今日はどうしたものだろうと思って、お妃はじめおそばの人たちが心配しますと、高麗の国から来た恵慈という坊さんが、これは三昧の定に入るといって、一心に仏を祈っておいでになるのだろうから、おじゃまをしないほうがいいといって止めました。
するとちょうど八日めの朝、太子は夢殿からお出ましになって、
「先だって小野妹子の取って来てくれた法華経は、衡山の坊さんがぼけていたと見えて、わたしの持っていたのでないのをまちがえてよこしたから、魂をシナまでやって取って来たよ。」
とおっしゃいました。
その後また小野妹子が二度めにシナへ渡った時、衡山のお寺を訪ねると、前にいた三人の坊さんの二人までは死んでしまって、一人だけ生き残っておりましたが、その坊さんの話に、
「先年あなたのお国の太子が青い龍の車に乗って、五百人の家来を従えて、はるばる東の方から雲の上を走っておいでになって、古い法華経の一巻を取っておいでになりました。」
と言ったそうでございます。
五
太子のお妃は膳臣の君といって、それはたいそう賢くてお美しい方でしたから、御夫婦のお仲もおむつましゅうございました。ある時ふと太子はお妃に向かって、
「お前とは長年いっしょにくらして来たが、お前はただの一言もわたしの言葉に背かなかった。わたしたちはしあわせであったと思う。生きているうちそうであったから、死んでからも同じ日に、同じお墓の中に葬られたいものだ。」
とおっしゃいました。お妃は涙をお流しになりながら、
「どうしてそんな悲しいことをおっしゃるのでございますか。このさき百年も千年も生きていて、おそばに仕えたいと、わたくしは思っているのでございますのに。」
とおっしゃいました。けれども太子は首をおふりになって、
「いやいや、初めがあれば終りのあるものだ。生まれたものは必ず死ぬに極まったものだ。これは人間の定まった道でしかたがない。わたしもこれまでいろいろのものに姿をかえ、度々人間の世に生まれ変わって来て、仏の道をひろめた。とうとうおしまいにこの日本国の皇子に生まれて来て、仏の道の跡方もない所に法華の種を蒔いた。わたしの仕事もこれで出来上がったのだから、この上永く、むさくるしい人間の世の中に住んでいようとは思わない。」
としみじみとお話をなさいました。お妃はなおなお悲しくおなりになって、とめ度なく涙がこぼれて来ました。
ちょうどそのころでした。太子は摂津の国の難波のお宮へおいでになって、それから大和の京へお帰りになるので、黒馬に乗って片岡山という所までおいでになりますと、山の陰に一人物も食べないとみえて、見るかげもなく、痩せ衰えたこじきが、虫のように寝ていました。お供の人たちは、太子のお馬先に見苦しいと思って、あわてて追いたてようとしますと、太子はやさしくお止めになって、食べ物をおやりになり、情けぶかいお言葉をおかけになりました。そして帰りしなに、
「寒いだろうから、これをお着。」
とおっしゃって、召していた紫色の御袍をぬいで、お手ずからこじきの体にかけておやりになりました。その時、
「しなてるや
片岡山に
飯に飢えて
臥せる旅びと
あわれ親無し。」
という和歌をお詠みになりました。
「しなてるや」というのは、片岡山という言葉に冠せた飾りの枕言葉で、歌の意味は、片岡山の上に御飯も食べずに飢えて寝ている旅の男があるが、かわいそうに、親も兄弟もない、かなしい身の上なのであろうかというのです。
するとその時、寝ていたこじきが、むくむくと頭をあげて、
「斑鳩や
富の小川の
絶えばこそ
我が大君の
御名を忘れめ。」
と御返歌を申し上げたといいます。
歌の中にある「斑鳩」だの、「富の小川」だのというのは、いずれも太子のお住まいになっていた大和の国の奈良に近い所の名で、その富の小川の流れの絶えてしまうことはあろうとも、太子さまの今日のお情けをけっして忘れる時はございませんというのでございます。
さて太子は奈良の京へお帰りになりましたが、その後で片岡山のこじきは、とうとう死んでしまいました。太子はそれをお聞きになって、たいそうお嘆きになり、手あつく葬っておやりになりました。それを聞いた七人の大臣が、太子さまともあるものがそんな軽々しい事をなさるとはといって、やかましく小言を申しました。太子はその話をお聞きになると、七人の大臣を呼び出して、
「お前たちはそんなむずかしいことをいっていないで、まあ片岡山へ行ってごらん。」
とおっしゃいました。
大臣たちはぶつぶつ言いながら、ともかくも片岡山へ行ってみますと、どうでしょう、こじきのなきがらを収めた棺の中は、いつか空になっていて、中からはぷんとかんばしい香りが立ちました。大臣たちはみんな驚いて、太子も、このこじきも、みんなただの人ではない、慈悲の功徳を世の中の人たちにあまねく知らせるために、尊い菩薩たちがかりにお姿をあらわしたものだろうと思うようになりました。
六
さてこのことがあってから後間もなく、太子はある日お妃に向かい、
「いよいよ、いつぞやの約束を果たす日が来た。わたしたちは今夜限りこの世を去ろうと思う。」
とお言いになりました。
そして太子とお妃とはその日お湯を召し、新しい白衣にお着替えになって、お二人で夢殿にお入りになりました。
明くる日の朝、いつまでもお二人ともお目ざめにならないので、おそばの人たちが不思議に思って、そっと御堂の中に入ってみますと、お二人はまくらを並べたまま、それはそれは安らかに、まるでいつもすやすやお休みになっているような御様子で、息を引き取っておいでになりました。お体からはぷんと高く、かんばしいにおいが立ちました。太子のお年は、四十九歳でございました。
太子のおかくれになった日、シナの衡山からとっておいでになった古い法華経も、ふと見えなくなりました。それもいっしょに持っておいでになったのだろうということです。
●表記について
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