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鎮西八郎(ちんぜいはちろう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-1 12:22:04  点击:  切换到繁體中文

底本: 日本の英雄伝説
出版社: 講談社学術文庫、講談社
初版発行日: 1983(昭和58)年6月10日
入力に使用: 1983(昭和58)年6月10日第1刷
校正に使用: 1983(昭和58)年6月10日第1刷

 

   一

 八幡太郎義家はちまんたろうよしいえから三だいめの源氏げんじ大将たいしょう六条判官為義ろくじょうほうがんためよしといいました。為義ためよしはたいそうな子福者こぶくしゃで、おとこ子供こどもだけでも十四五にんもありました。そのうちで一ばん上のにいさんの義朝よしともは、頼朝よりとも義経よしつねのおとうさんにたる人で、なかなかつよ大将たいしょうでしたけれど、それよりももっとつよい、それこそ先祖せんぞ八幡太郎はちまんたろうけないほどのつよ大将たいしょうというのは、八なん鎮西八郎為朝ちんぜいはちろうためともでした。
 なぜ為朝ためとも鎮西八郎ちんぜいはちろうというかといいますと、それはこういうわけです。いったいこの為朝ためとも子供こどものうちからほかの兄弟きょうだいたちとは一人ひとりちがって、からだもずっと大きいし、ちからつよくって、勇気ゆうきがあって、の中になに一つこわいというもののない少年しょうねんでした。それにまれつきゆみることがたいそう上手じょうずで、それこそ八幡太郎はちまんたろうまれかわりだといわれるほどでした。それどころか、八幡太郎はちまんたろうゆみ名人めいじんでしたけれど、人並ひとなみとちがったつよゆみくということはなかったのですが、為朝ためともせいたかさが七しゃくもあって、ちからつよい上に、うで人並ひとなみよりながく、とりわけひだりの手がみぎの手より四すんながかったものですから、みの二ばいもあるつよゆみに、二ばいもあるながをつがえてはいたのです。ですから為朝ためともは、みの人のがやっと一ちょうか二ちょうはしるところを五ちょうも六ちょうさきまでんでき、ただ一てきの三にんや四にん手負ておわせないことはないくらいでした。
 こんなふうですから、子供こどもときからつよくって、けんかをしても、ほかの兄弟きょうだいたちはみんなかされてしまいました。兄弟きょうだいたちは為朝ためとも半分はんぶんはこわいし、半分はんぶんはにくらしがって、なにかにつけてはおとうさんの為義ためよしところへ行っては、八郎はちろうがいけない、いけないというものですから、為義ためよしもうるさがって、度々たびたび為朝ためともをしかりました。いくらしかられても為朝ためとも平気へいきで、あいかわらず、いたずらばかりするものですから、為義ためよしこまりきって、あるとき
「おまえのような乱暴者らんぼうものみやこくと、いまにどんなことをしでかすかわからない。今日きょうからどこへでもきなところへ行ってしまえ。」
 といって、うちからしてしまいました。そのとき為朝ためともはやっと十三になったばかりでした。
 うちからされても、為朝ためともはいっこうこまったかおもしないで、
「いじのわるいにいさんたちや、小言こごとばかりいうおとうさんなんか、そばにいないほうがいい。ああ、これでのうのうした。」
 とこころの中でおもって、家来けらいもつれずたった一人ひとり、どこというあてもなくうんだめしに出かけました。

     二

 国々くにぐに方々ほうぼうめぐりあるいて、為朝ためともはとうとう九州きゅうしゅうわたりました。その時分じぶん九州きゅうしゅうのうちには、たくさんの大名だいみょうがあって、めいめいくにりにしていました。そしてそのてんでんのくににいかめしいおしろをかまえて、すこしでも領分りょうぶんをひろめようというので、お隣同士となりどうし始終しじゅう戦争せんそうばかりしあっていました。
 為朝ためとも九州きゅうしゅうくだると、さっそく肥後ひごくに根城ねじろさだめ、阿蘇忠国あそのただくにという大名だいみょう家来けらいにして、自分勝手じぶんがって九州きゅうしゅう総追捕使そうついほしというやくになって、九州きゅうしゅう大名だいみょうのこらずしたがえようとしました。九州きゅうしゅう総追捕使そうついほしというのは、九州きゅうしゅう総督そうとくという意味いみなのです。するとほか大名だいみょうたちは、これも半分はんぶんはこわいし、半分はんぶんはいまいましがって、
為朝ためとも総追捕使そうついほしだなんぞといって、いばっているが、いったいだれからゆるされたのだ。生意気なまいき小僧こぞうじゃないか。」
 といいいい、てんでんのおしろてこもって、為朝ためともめてたら、あべこべにたたきせてやろうとちかまえていました。
 為朝ためともくとわらって、
「はッは。たかが九州きゅうしゅう小大名こだいみょうのくせに、ばかなやつらだ。いったいおれをなんだとおもっているのだろう。子供こどもだって、りっぱな源氏げんじ本家ほんけの八なんじゃないか。」
 こういって、すぐ阿蘇忠国あそのただくに案内者あんないしゃにして、わずかな味方みかたへいれたなり、九州きゅうしゅうしろというしろかたっぱしからめぐりあるいて、十三のとしはるから十五のとしあきまで、大戦おおいくさだけでも二十何度なんど、そのほかちいさないくさかずのしれないほどやって、としたしろかずだけでもなん箇所かしょというくらいでした。それで三ねんめのすえにはとうとう九州きゅうしゅうのこらずしたがえて、こんどこそほんとうに総追捕使そうついほしになってしまいました。
 すると為朝ためともしたがえられた大名だいみょうたちは、うわべは降参こうさんしたていせかけながら、はらの中ではくやしくってくやしくってなりませんでした。そこでそっとみやこ使つかいをてて、為朝ためとも九州きゅうしゅうてさんざん乱暴らんぼうはたらいたこと、天子てんしさまのおゆるしもけないで、自分勝手じぶんかって九州きゅうしゅう総追捕使そうついほしになったことなどをくわしく手紙てがみき、その上に為朝ためとも悪口わるくちることいことたくさんにならべて、どうか一にちはや為朝ためともをつかまえて、九州きゅうしゅう人民じんみん難儀なんぎをおすくくださいともうげました。
 天子てんしさまはたいそうおおどろきになって、さっそく役人やくにんをやって為朝ためともをおかえしになりました。けれども為朝ためともは、
「きっとこれはだれかが天子てんしさまに讒言ざんげんしたにちがいない。天子てんしさまには、間違まちがいだからといって、よくもうげてくれ。」
 といって、役人やくにんかえしてしまいました。
 為朝ためともがいうことをきかないので、天子てんしさまはおおこりになって、子供こどもわるいのはおやのせいだからというので、おとうさんの為義ためよし免職めんしょくして、隠居いんきょさせておしまいになりました。
 為朝ためともは、おとうさんが自分じぶんわりにばつけたということをきますと、はじめてびっくりしました。
「おれは天子てんしさまのおばつをうけることをこわがって、みやこへ行かないのではない。それを自分じぶんが行かないために、としられたおとうさんがおとがめをうけるというのはおどくなことだ。そういうわけなら一にちはやみやこのぼって、おとうさんのわりにどんなおしおきでもけることにしよう。」
 こういって為朝ためともはさっそくいまたのしい身分みぶんをぽんとてて、まえくだってとき同様どうよう家来けらいれずたった一人ひとりでひょっこりみやこかえって行こうとしました。ところがながあいだ為朝ためともになついて、影身かげみにそうように片時かたときもそばをはなれない二十八武士ぶしが、どうしてもおともについて行きたいといってききませんので、為朝ためともこまって、これだけはいっしょにれてみやこのぼることにしました。
 こういうわけで九州きゅうしゅうから為朝ためともについて家来けらいは二十八だけでしたが、どうしてもおともができなければ、せめて途中とちゅうまでお見送みおくりがしたいといって、いくらことわっても、ことわっても、どこまでも、どこまでも、ぞろぞろついてくる家来けらいたちのかずはそれはそれはおびただしいものでした。為朝ためともちからつよいばかりでなく、おとうさんに孝心こうしんぶかいと同様どうよう、だれにかってもなさけぶかい、こころのやさしい人でしたから、三ねんいるうちにこんなに大勢おおぜいの人からしたわれて、ほんとうに九州きゅうしゅうおうさま同様どうようだったのです。それでだれいうとなく、為朝ためとものことを鎮西八郎ちんぜいはちろうぶようになりました。鎮西ちんぜいというのは西にしくにということで、九州きゅうしゅう異名いみょうでございます。

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