日本の英雄伝説 |
講談社学術文庫、講談社 |
1983(昭和58)年6月10日 |
1983(昭和58)年6月10日第1刷 |
1983(昭和58)年6月10日第1刷 |
一
むかし源氏と平家が戦争をして、お互いに勝ったり負けたりしていた時のことでした。源氏の大将義朝には、悪源太義平や頼朝のほかに今若、乙若、牛若、という三人の子供がありました。ちょうどいちばん小さい牛若が生まれたばかりのとき、源氏の旗色が悪くなりました。義朝は負けて、方々逃げかくれているうちに、家来の長田忠致というものに殺されました。
平家の大将清盛は、源氏にかたきを取られることをこわがって、義朝の子供を見つけしだい殺そうとかかりました。
義朝の奥方の常盤御前は、三人の子供を連れて、大和の国の片田舎にかくれていました。
清盛はいくら常磐を探しても見つからないものですから困って、常磐のおかあさんの関屋というおばあさんをつかまえて、
「常磐のいるところをいえ。いわないと殺してしまうぞ。」
と毎日ひどくせめました。
常磐はこのことを聞いて、
「おかあさまを殺してはすまない。わたしが名のって出ても、子供たちはまだ小さいから、たのんだら殺さずにおいてもらえるかもしれない。」
と思って、京都へ出かけました。
ちょうど冬のことで、雪がたいそう降っていました。常磐は牛若を懐に入れて、乙若の手をひいて、雪の中を歩いて行きました。今若はそのあとからついて行きました。
さんざん難儀をして、清盛のいる京都の六波羅のやしきに着くと、常磐は、
「おたずねになっている常磐でございます。三人の子供をつれて出ました。わたくしは殺されてもようございますから、母の命をお助け下さいまし。子供たちもこの通り小さなものばかりでございますから、命だけはどうぞお助け下さいまし。」
と申しました。
親子のいたいたしい様子を見ると、さすがの清盛も気の毒に思って、その願いを聞きとどけてやりました。
それで今若と乙若とは命だけは助かって、お寺へやられました。牛若はまだお乳を飲んでいるので、おかあさんのそばにいることを許されましたが、これも七つになると鞍馬山のお寺へやられました。
そのうち牛若はだんだん物がわかって来ました。おとうさんが平家のために滅ぼされたことを人から聞いて、くやしがって泣きました。
「毎日お経なんかよんで、坊さんになってもしかたがない。おれは剣術をけいこして、えらい大将になるのだ。そして平家を滅ぼして、おとうさまのかたきを討つのだ。」
こう牛若は思って、急に剣術が習いたくなりました。
鞍馬山のおくに僧正ガ谷という谷があります。松や杉が茂っていて、昼も日の光がささないような所でした。牛若は一人で剣術をやってみようと思って、毎晩人が寝しずまってから、お寺をぬけ出して僧正ガ谷へ行きました。そしてそこにたくさん並んでいる杉の木を平家の一門に見立てて、その中で一ばん大きな木に清盛という名をつけて、小さな木太刀でぽんぽん打ちました。
するとある晩のことでした。牛若がいつものように僧正ガ谷へ出かけて剣術のおけいこをしていますと、どこからか鼻のばかに高い、見上げるような大男が、手に羽うちわをもって、ぬっと出て来ました。そしてだまって牛若のすることを見ていました。牛若は不思議に思って、
「お前はだれだ。」
といいますと、その男は笑って、
「おれはこの僧正ガ谷に住むてんぐだ。お前の剣術はまずくって見ていられない。今夜からおれが教えてやろう。」
といいました。
「それはありがとう。じゃあ、おしえて下さい。」
と、牛若は木太刀を振るって打ってかかりました。てんぐはかるく羽うちわであしらいました。
この時からてんぐは毎晩牛若に剣術をおしえてくれました。牛若はずんずん剣術がうまくなりました。
するうち、牛若が毎晩おそく僧正ガ谷へ行って、あやしい者から剣術をおそわっているということを和尚さんに告げ口したものがありました。和尚さんはびっくりして、さっそく牛若をよんで、髪を剃って坊さんにしようとしました。牛若は、
「いやです。」
といいながら、いきなり小太刀に手をかけて、こわい顔をして和尚さんをにらめました。
その勢いにおそれて、髪を剃ることは止めました。
牛若はこうしているとまた、
「坊さんになれ。」
といわれるにちがいないと思って、ある日そっと鞍馬山を下りて京都へ出ました。
牛若はもう十四、五になっていました。
二
そのころ京都の北の比叡山に、弁慶という強い坊さんがありました。この弁慶は生まれる前おかあさんのおなかに十八箇月もいたので、生まれるともう三つぐらいの子供の大きさがあって、髪の毛がもじゃもじゃ生えて、大きな歯がにょきんと出ていました。そしてずんずん口をききました。
「ああ、明るい。」
はじめておかあさんのおなかからとび出したとき、こういっていきなりちょこちょこと歩き出したそうです。おとうさんは気味をわるがって、大きくなるとすぐ、お寺へやってしまいました。お寺へやられても、生まれつきたいそう気のあらい上に、この上なく力が強いので、すこし気にくわないことがあると、ほかの坊さんをぶちました。ぶたれて死んだ坊さんもありました。みんなは弁慶というと、ふるえ上がってこわがっていました。
そのうちに比叡山の西塔の武蔵坊というお寺の坊さんが亡くなりますと、弁慶は勝手にそこに入りこんで、西塔の武蔵坊弁慶と名のりました。
ある時弁慶はおもいました。
「宝はなんでも千という数をそろえて持つものだそうた。奥州の秀衡はいい馬を千疋と、鎧を千りょうそろえて持っている。九州の松浦の太夫は弓を千ちょうとうつぼを千本そろえてもっている。おれも刀を千本そろえよう。都へ出て集めたら、千本くらいわけなくできる。」
こう考えて、弁慶は黒糸おどしの鎧の上に墨ぞめの衣を着て、白い頭巾をかぶり、なぎなたを杖について、毎晩五条の橋のたもとに立っていました。そしてよさそうな刀をさした人が来ると、だしぬけにとび出して行って奪いとります。逃げようとしたり、すなおに渡さなかったりするものは、なぎなたでなぎ倒しました。
すると、このごろは毎晩五条の橋に大坊主が出て、人の刀をとるという評判がぱっと高くなりました。
坊主ではない、てんぐだというものもありました。そしてみんなこわがって、日が暮れると五条の橋をとおる者がなくなりました。
ある時弁慶がとって来た刀を出して数えてみますと、ちょうど九百九十九本ありました。弁慶はよろこんで、
「うまい、うまい、もう一本で千本だぞ。おしまいに一ばんいい刀を取ってやりたいものだ。」
と独り言をいいました。そしてその晩はわざわざ五条の天神さまにおまいりをして、
「もう一本で千本になります。どうぞ一ばんいい刀をお授け下さい。」
といって、それからいつものように、五条の橋の下へ行って立っていました。
[1] [2] 下一页 尾页