ジャンチイイの石切り場
わたしたちはやがて人通りの多い
「いよいよ
「わたしはけさいただいた小さなパンだけで、あれからなにも食べませんでした」
「かわいそうにおまえは今夜も夕食なしにねることになるのだ。しかもどこへねるあてもないのだ」
「じゃあ、あなたはガロフォリのうちにとまるつもりでしたか」
「わたしはおまえをあそこへとめるつもりだった。それであれが冬じゅうおまえを
「ああ、あなたはほんとにいい人です」
「まあ、たぶんこの年を取って
もうだいぶおそくなって、ひどく寒さが
「どこへ行くんです」
「ジャンチイイ。そこでいつかねたことがある石切り場を見つけることにしよう。おまえつかれているかい」
「ぼくはガロフォリの所で休みました」
「わたしは休まなかったので、どうもつらい。あまり
これはいつもわたしたちが出発するとき、犬やわたしに向かって用いるかれの上きげんな合図であった。けれど今夜はそれをいかにも悲しそうに言った。
いまわたしたちはパリの町の中をさまよい歩いていた。夜は暗かった。ちらちら風にまばたきながら、ガス
大通りをぬけて、たくさんの
ひと言も口をきかずに親方は歩いた。かれの
「あなたはご病気なんでしょう」かれがまた立ち止まったとき、わたしは言った。
「どうもそうではないかと思うよ。とにかくわたしはひじょうにつかれている。この寒さがわたしの年を取ったからだにはひどくこたえる。わたしはいいねどこと
前へ進め。わたしたちは町を後にした。わたしたちは
暗かったし、
「おまえ、森が見えるかい」とかれはたずねた。
「そんなものは見えません」
「大きな黒いかたまりは見えないかい」
わたしは返事をするまえに四方を見回した。木も家も見えなかった。どこもかしこもがらんと打ち開いていた。風のうなるほかになんの物音も聞こえなかった。
「わたしがおまえだけに目が見えるといいのだがなあ。ほら、あちらを見てくれ」かれは右の手を前へさし
二、三分だまったまま
「おまえこわいものだから目が落ち着かないのだ。もう一度よくご
「ほんとうです。森なんか見えません」
「広い道もないかい」
「なんにも見えません」
「道をまちがえたかな」
わたしはなにも言えなかった。なぜならわたしはどこにいるのかもわからなかったし、どこへ行くのだかもわからなかったから。
「もう五分ばかり歩いてみよう。それでも森が見えなかったら、ここまで引っ返して来よう。ことによると道をまちがえたかもわからん」
わたしたちが道に
「さあ」
「ぼくはもう歩けません」
「いやはや、おまえはわたしがおまえをしょって行けると思うかい。わたしはすわったらもう二度と立ち上がることはできないし、そのまま寒さにこごえて死んでしまうだろうと思うからだ」
わたしはかれについて歩いた。
「道に深い車の
「いいえ、なんにも」
「じゃあ引っ返さなきゃならない」
わたしたちは引っ返した。今度は風に向かうのである。それはむちのようにぴゅうと顔を打った。わたしの顔は火で
「車の
十五分ばかりわたしたちは風と
「ほら、ご
「どこに」
親方は見た。その明かりはほんのわずかの
「その明かりがなにになろう」とかれは言った。「それはだれかの仕事場の
二足三足行くとわたしは横へはいる道を見つけたように思った。ちょうどいばらのやぶらしく思われる黒いかたまりもあった。わたしは先へ急いで行くために親方の手を放した。
「ほら、ここに
「手をお貸し。わたしたちは
わたしはなにか黒いものが見えたので、森が見えるように思うと言った。
「五分のうちにそこまで行ける」とかれはつぶやいた。
わたしたちはとぼとぼ歩いた。けれどこの五分間が
「車の
「右のほうにあります」
「石切り場の入口は左のほうだよ。わたしたちは気がつかずに通り
「
「ではまたあともどりだ」
もう一度わたしたちはあともどりをした。
「森が見えるか」
「ええ、左手に」
「それから車の
「もうありません」
「わたしは目が見えなくなったかしらん」と親方は
「おや、へいがあります」
「いいや、それは石の山だよ」
「いいえ、
親方は、一足はなれて、ほんとうにわたしの言ったとおりであるか、
「そうだ、へいだ」とかれはつぶやいた。「入口はどこだ。車の
わたしは地べたに身をかがめて、へいの
「なにもありません」とわたしは言った。
「もっと先を見ましょうか」とわたしは聞いた。
「いや石切り場にへいが
「へいが建った」
「そうだ、入口をふさいでしまったのだ。中へはいることはできなくなったのだ」
「へえ、じゃあ」
「どうするって。もうわからなくなった。ここで死ぬのさ」
「まあ親方……」
「そうだ。おまえは死にはしない。おまえはまだ
「おお、でもあなたは」
「いよいよ行けなくなったら、
「どこへ行きましょう」
「パリへもどるのだ。
わたしたちはもと来た道をまた引っ返した。何時であったかわたしはまるでわからない。なんでも何時間も何時間も長い長いあいだそれはのろのろと歩いた。きっと十二時か一時にもなったろう。空は
親方はただのろのろ歩いた。息がだんだんあらくなって、長い道をかけた人のようにせいせい言っていた。わたしが話しかけると、かれはだまっていてくれという合図をした。
わたしたちはもう野原をぬけて、いまは町に近づいていた。そこここのへいとへいとの間にガス
「一けんどこかのうちをたたきましょうか」とわたしはたずねた。
「いいや、入れてくれはしないよ。このへんに住んでいるのは植木屋だ。朝早く市場へみんな出かけるのだ。この
しかし意地は
「すこし休まなければ」とかれは力なく言った。「わたしはもう歩けない」
さくで大きな花園を
「わたしはここにすわろう」と親方が言った。
「でもすわれば、今度立ち上がることができなくなるとおっしゃったでしょう」
かれは返事をしなかった。ただわたしに手まねをして、門の前にわらを
「もっとわらを持っておいで」とかれは言った。「わらをたくさんにして風を
まったく風がひどかった。寒さばかりではなかった。わたしは集められるだけありったけのわらを集めて親方のわきにすわった。
「しっかりわたしにくっついておいで」とかれは言った。「カピをひざに乗せておやり。からだのぬくみでおまえもいくらか温かくなるだろう」
親方ほどの
わたしは親方にすり
この
わたしはシャヴァノンを思い出した。かわいそうなバルブレンのおっかあを思い出した。わたしはかの女をもう一度見ることなしに、わたしたちの小さな家や、わたしの小さな花畑を見ることなしに死ななければならないのだ……。
するうちわたしはもう寒くはなくなった。わたしはいつか自分の小さな花畑に帰って来たように思った。太陽はかがやいていて、それはずいぶん
わたしはシャヴァノンをはなれて、アーサとミリガン
やがてまた目が
リーズ
目を
わたしはひじで起き上がった。みんながそばへ
「ヴィタリスは」とわたしはたずねた。
「あの子は父さんを
「あの人は父さんではありません。親方です」とわたしは言った。「どこへ行きました。カピはどこにいますか」
ヴィタリスがほんとうの父親であったなら、たぶんこの人たちもえんりょしいしいこの知らせを
みんなの話では、あの気のどくな親方は死んだのであった。わたしたちがつかれきってたおれたその門の中に住んでいた植木屋が見つけたのであった。あくる朝早く、かれのむすこが
わたしはからだもたましいもまったくしびれきったようになっていたが、このときはもうかれらの話を聞いてわかるだけに
ああ、ヴィタリスは死んでしまったのである。
この話をしてくれたのは、ねずみ色の
それにかの女の身ぶりと目つきとは、べつにことばの助けを
アーサと
「ああ、そうだ、リーズの言うとおりだ。こりゃああの子も聞くのがつらいだろうが、やはりほんとうのことは言わねばならぬ。わたしたちが言わないでも、
お父さんはむすめのほうへ向きながら言った。そうしてなお話を
「それからカピは――」とわたしは聞いた。
「なに、カピ」
「ええ。犬です」
「知らないよ。いなくなったよ」
「あの犬はたんかについて行ったよ」と子どもたちの一人が言った。「バンジャメン、おまえ見たかい」
「ぼくよく知ってるよ」ともう一人の子が答えた。「あの犬は
かわいそうなカピ。役者であったじぶん、あの犬は何度ゼルビノのお
植木屋と子どもたちはわたしを一人
「おまえさん、気分がよくないか」と植木屋がたずねた。
わたしはかれに、どうも具合の悪いことを話した。そうしてしばらく火のそばへ
でもわたしの
あの目にきみょうな
「おあがり」とかれは言った。「リーズが持って行ったのは、
もっと欲しいかと言うのか。一ぱいのスープはみるみる
「どうもおまえ、なかなかいけるねえ。まったく」とかの女の父親が言った。
わたしはたいへんはずかしかった。けれどもそのうちわたしは食いしんぼうと思われるよりもほんとうの話を打ち明けてしたほうがいいと思ったので、じつはゆうべ
「それではお昼は」
「お昼もやはり食べません」
「では親方は」
「あの人も、やはりどちらも食べませんでした」
「ではあの人は寒さばかりでなく、
「おまえさん、どうするのだ」と父親がたずねた。
「おいとまいたします」
「どこへ行く」
「わかりません」
「パリにだれか友だちか
「いいえ」
「
「宿はありません。ついきのうこの町へ来たばかりです」
「ではなにをしようというのだね」
「ハープをひいたり、歌を歌ったりして、すこしのお金をもらいます」
「パリでかい。おまえさん、それよりかいなかのご両親の所へ帰ったほうがいいだろう。ご両親はどこに住んでいなさる」
「わたしには両親がありません」
「あのひげの白いじいさんは、父さんではないというじゃないか」
「ええ、ほかにも父さんはありません」
「母さんは」
「母さんもありません」
「おじさんか、おばさんか、
「なにもありません」
「どこから来たのだね」
「親方はわたしを
こう言いながらわたしは戸口のほうへ行きかけたが、ほんの二足三足で、すぐあとからわたしについて来たリーズが、わたしの手を取ってハープを指さした。
「あなた、いまひいてもらいたいの」と、わたしはかの女に
「うん。ひいてやっておくれ」とかの女の父親は言った。
わたしはハープをひく元気はなかったけれど、このかわいらしい女の子のためにいちばんかわいらしいワルツをひいてやらずにはいられなかった。
はじめかの女は大きな美しい目をじっとわたしに向けて聞いていたが、やがて足で
わたしはこの子のためには一日でもひいていてやりたかったが、父親はもうそれだけおどればたくさんだと言った。そこでワルツや
「それで音楽はけっこう」と父親が言った。
「リーズはばかじゃないか」とバンジャメンと
「あの子はあんたのようにばかではないわ」と
「この子にはよくわかったのだよ……」
リーズが父親のひざの上で
「おまえさん、どこへ行く」と植木屋がたずねた。
「おいとまいたします」
「おまえさん、やはり
「でもほかにすることがありませんから」
「旅でかせぐのはつらいだろう」
「だってうちがありませんから」
「それはそうだろうが、夜というものがあるからね」
「それは、わたしだって
「火に当たったり寝台にねるには、それそうとう
リーズがふり返って、なみだの中からわたしをながめてにっこりした。
わたしはいま聞いたことをほとんど
するとリーズが、父親のひざからとんで来て、わたしの手を取った。
「うん、どうだね、おまえ」と父親がたずねた。
家族だ。わたしは家族を持つようになった。わたしは
わたしが四、五年いっしょにくらして、ほとんど父親のようであった人は死んだ。なつかしい、
わたしのために新しい
「おお、それでこの子の返事がわかった」とお父さんが
わたしの新しい家庭の場所はグラシエール、うちの名はアッケン家、植木屋が商売で、ピエール・アッケンというのがお父さんで、アルキシーに、バンジャメンという二人の男の子、それから女の子はエチエネットに、うちじゅうでいちばん小さいリーズでこれが家族
リーズはおしであった。生まれつきのおしではなかったが、四度目の
わたしはハープをかべにかけてから、ゆうべ出会った出来事をぽつぽつ話しだした。石切り場にねむろうとして
「カピだ。カピだ」わたしはさけんですぐとび上がった。
けれどもリーズがわたしより早かった。かの女はもうかけ出してドアを開けていた。
カピがわたしにとびかかって来た。わたしはかれをうでにかかえた。小さな
「するとカピは……」とわたしはたずねた。わたしの問いはすぐに
「うん、むろんカピもいっしょにおくよ」とお父さんが言った。
カピはわたしたちの言っていることがわかったというように、地べたにとび下りて、前足を
それからとび下りて、わたしの上着のそでを引き始めた。
「あの犬はわたしを外へ
「おまえの親方の所へ行こうというのだよ」
親方を引き取って行った
でもわたしは早く
わたしの心配そうな顔を見て、お父さんはわたしを
警察へ行くとわたしは長ながと
「それでこれからは……」
「わたくしどもでこの子を引き取ろうと思います」とわたしの新しい友人がことばをはさんだ。
「それをお
自分のことはそれでいいとして、今度は親方のことを言わなければならなかった。でもまったくなんにも知らないのが事実であった。
ただ一つわからないことは、
けれど親方があれほどかくしていたことを死んだのちにあばき立てることはいらない。でもそうは思いながら、事に
「この子をガロフォリというやつの所へ
わたしたち三人――
「やれやれ、じいさん、死にましたか」とかれは言った。
「おまえはその
「はい」
「じゃああの老人について知っていることを
「なんでもないことでございます。あの男の名前はヴィタリスではございません。本名はカルロ・バルザニと申しました。あなたがいまから三十五年か四十年まえにイタリアにおいででしたら、あの男についてご
これが長いあいだ心にかかっていた秘密の正体であった。
気のどくなカルロ・バルザニ。なつかしいヴィタリス親方。