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家なき子(いえなきこ)01
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ジョリクール氏
夜明けまえの予告はちがわなかった。 日がきらきらかがやきだした。その光線は白い雪の上に落ちて、まえの晩あれほどさびしくどんよりしていた森が、きょうは目がくらむほどのまばゆさをもってかがやき始めた。 たびたび親方はかけ物の下に手をやって、ジョリクールにさわっていたが、このあわれな小ざるはいっこうに温まってこなかった。わたしがのぞきこんでみると、かれのがたがた身ぶるいをする音が聞こえた。 かれの血管の中の血がこおっていたのである。 「とにかく村へ行かなければならない。さもないとジョリクールは死ぬだろう。すぐたつことにしよう」 毛布はよく温まっていた。それで小ざるはその中にくるまれて、親方のチョッキの下のすぐ胸に当たる所へ入れられた。わたしたちの仕度ができた。 小屋を出て行こうとして、親方はそこらを見回しながら言った。 「この小屋にはずいぶん高い宿代をはらった」 こう言ったかれの声はふるえた。 かれは先に立って行った。わたしはその足あとに続いた。わたしたちが二、三間(四~六メートル)行くと、カピを呼んでやらなければならなかった。かわいそうな犬。かれは小屋の外に立ったまま、いつまでも鼻を、仲間がおおかみにとられて行った場所に向けていた。 大通りへ出て十分間ほど行くと、とちゅうで馬車に会った。その御者はもう一時間ぐらいで村に出られると言った。これで元気がついたが、歩くことは困難でもあり苦しかった。雪がわたしのこしまでついた。 たびたびわたしは親方にジョリクールのことをたずねた。そのたんびにかれは、小ざるはまだふるえていると言った。 やっとのことでわたしたちはきれいな村の白屋根を見た。わたしたちはいつも上等な宿屋にとまったことはなかった。たいてい行っても追い出されそうもない、同勢残らずとめてくれそうな木賃宿を選んだ。 ところが今度は親方がきれいな看板のかかっている宿屋へはいった。ドアが開いていたので、わたしはきらきら光る赤銅のなべがかかって、そこから湯気のうまそうに上っている大きなかまどを見ることができた。ああ、そのスープが空腹な旅人にどんなにうまそうににおったことであろう。 親方は例のもっとも『紳士』らしい態度を用いて、ぼうしを頭にのせたまま、首を後ろにあお向けて、宿屋の亭主にいいねどこと暖かい火を求めた。初めは宿屋の亭主もわたしたちに目をくれようともしなかった。けれども親方のもっともらしい様子がみごとにかれを圧迫した。かれは女中に言いつけて、わたしたちを一間へ通すようにした。 「早くねどこにおはいり」と親方は女中が火をたいている最中わたし言った。わたしはびっくりしてかれの顔を見た。なぜねどこにはいるのだろう。わたしはねどこなんかにはいるよりも、すわってなにか食べたほうがよかった。 「さあ早く」 でも親方がくり返した。 服従するよりほかにしかたがなかった。寝台の上には鳥の毛のふとんがあった。親方がそれをわたしのあごまで深くかけた。 「少しでも温まるようにするのだ」とかれは言った。「おまえが温まれば温まるほどいいのだ」 わたしの考えでは、ジョリクールこそわたしなんぞよりは早く温まらなければならない。わたしのほうは、いまではもうそんなに寒くはなかった。 わたしがまだ毛のふとんにくるまってあったまろうと骨を折っているとき、親方はジョリクールを丸くして、まるで蒸し焼きにして食べるかと思うほど火の上でくるくる回したので、女中はすっかりびっくりした。 「あったまったか」と親方はしばらくしてわたしにたずねた。 「むれそうです」 「それでいい」かれは急いで寝台のそばに来て、ジョリクールをねどこにつっこんで、わたしの胸にくっつけて、しっかりだいているようにと言った。かわいそうな小ざるは、いつもなら自分のきらいなことをされると反抗するくせに、もういまはなにもかもあきらめていた。かれは見向きもしないで、しっかりだかれていた。けれどもかれはもう冷たくはなかった。かれのからだは焼けるようだった。 台所へ出かけて行った親方は、まもなくあまくしたぶどう酒を一ぱい持って帰って来た。かれはジョリクールに二さじ三さじ飲ませようと試みたけれど、小ざるは歯を食いしばっていた。かれはぴかぴかする目でわたしたちを見ながら、もうこのうえ自分を責めてくれるなとたのむような顔をしていた。それからかれはかけ物の下から片うでを出して、わたしたちのほうへさし延べた。 わたしはかれの思っていることがわからなかった。それでふしぎそうに親方の顔を見ると、こう説明してくれた。 わたしがまだ来なかったじぶん、ジョリクールは肺炎にかかったことがあった。それでかれのうでに針をさして出血させなければならなかった。今度病気になったのを知ってかれはまた刺絡(血を出すこと)してもらって、先のようによくなりたいと思うのであった。 かわいそうな小ざる。親方はこれだけの所作で深く感動した。そしてよけい心配になってきた。ジョリクールが病気だということはあきらかであった。しかもひじょうに悪くって、あれほど好きな砂糖入りのぶどう酒すらも受けつけようとはしないのであった。 「ルミ、ぶどう酒をお飲み。そしてとこにはいっておいで」と親方が言った。「わたしは医者を呼んで来る」 わたしもやはり砂糖入りのぶどう酒が好きだということを白状しなければならない。それにわたしはたいへん腹が減っていた。それで二度と言いつけられるまも待たず、一息にぶどう酒を飲んでしまうと、また毛ぶとんの中にもぐりこんだ。からだの温かみに、酒まではいって、それこそほとんど息がつまりそうであった。 親方は遠くへは行かなかった。かれはまもなく帰って来た。金ぶちのめがねをかけた紳士――お医者を連れて来た。さるだと聞いては医者が来てくれないかと思って、ヴィタリスは病人がなんだということをはっきり言わなかった。それでわたしがとこの中にはいって、トマトのような赤い顔をしていると、医者はわたしの額が手を当てて、すぐ「充血だ」と言った。 かれはよほどむずかしい病人にでも向かったようなふうで首をふった。 うっかりしてまちがえられて、血でも取られてはたいへんだと思って、わたしはさけんだ。 「まあ、ぼくは病人ではありません」 「病人でない。どうして、この子はうわごとを言っている」 わたしは少し毛布を上げて、ジョリクールを見せた。かれはその小さな手をわたしの首に巻きつけていた。 「病人はこれです」とわたしは言った。 「さるか」とかれはさけんで、おこった顔をして親方に向かった。「きみはこんな日にさるをみせにわたしを連れ出したか」 親方はなかなか容易なことでまごつくような、まのぬけた男ではなかった。ていねいにしかも例の大ふうな様子で、医者を引き止めた。それからかれは事情を説明して、ふぶきの中に閉じこめられたことや、おおかみにこわがってジョリクールがかしの木にとび上がったこと、そこで死ぬほどこごえたことを話した。 「病人はたかがさるにすぎないのですが、しかしなんという天才でありますか。われわれにとってどれほどだいじな友だちであり、仲間でありますか。どうしてこれほどのふしぎな才能を持った動物をただの獣医やなどに任されるものではない。村の獣医というものはばかであって、その代わりどんな小さな村でも、医師といえば学者だということはだれだって知っている。医師の標札の出ているドアの呼びりんをおせば、知識があり慈愛深い人にかならず会うことができる。さるは動物ではあるが、博物学者に従えば、かれらはひじょうに人類に近いので、病気などは人もさるも同じようにあつかわれると聞いている。のみならず学問上の立場から見ても、人とさるがどうちがうか、研究してみるのも興味のあることではないでしょうか」 こういうふうに説かれて、医者は行きかけていた戸口からもどって来た。 ジョリクールはたぶんこのめがねをかけた人が医者だということをさとったとみえて、またうでをつき出した。 「ほらね」と親方がさけんだ。「あのとおり刺絡していただくつもりでいます」 これで医者の足が止まった。 「ひじょうにおもしろい。なかなかおもしろい実験だ」とかれはつぶやいた。 一とおり診察して、医者はかわいそうなジョリクールが今度もやはり肺炎にかかっていることを告げた。医者はさるの手を取って、その血管に少しも苦しませずにランセット(針)をさしこんだ。ジョリクールはこれできっと治ると思った。刺絡をすませて、医者はいろいろと薬剤にそえて注意をあたえた。わたしはもちろんとこの中にはいってはいなかった。親方の言いつけに従って、看護婦を務めていた。 かわいそうなジョリクール。かれは自分を看護してくれるのでわたしを好いていた。かれはわたしの顔を見てさびしく笑った。かれの顔つきはひじょうに優しかった。 いつもあれほど、せっかちで、かんしゃく持ちで、だれにもいたずらばかりしていたかれが、それはもうおとなしく従順であった。 その後毎日、かれはいかにわたしたちをなつかしがっているかを示そうと努めた。それはこれまでたびたびかれのいたずらの犠牲であったカピに対してすらそうであった。 肺炎のふつうの経過として、かれはまもなくせきをし始めた、この発作のたびごとに小さなからだがはげくふるえるので、かれはひどくこれを苦しがった。 わたしの持っていたありったけの五スーで、わたしはかれに麦菓子を買ってやった。けれどこれはよけいかれを悪くした。 かれのするどい本能で、かれはまもなくせきをするたんびにわたしが麦菓子をくれることに気がついた。かれはそれをいいことにして、自分のたいへん好きな薬をもらうために、しじゅうせきをした。それでこの薬はかれをよけい悪くした。 かれのこのくわだてをわたしが見破ると、もちろん麦菓子をやることをやめたが、かれは弱らなかった。まずかれは哀願するような目つきでそれを求めた。それでくれないと見ると、かれはとこの上にすわって両手を胸の上に当てたまま、からだをゆがめて、ありったけの力でせきをした。かれの額の青筋がにょきんととび出して、なみだが目から流れた。そしてのどのつまるまねをするのが、しまいには本物になって、もう自分でおさえることができないほどはげしくせきこんだ。 わたしはいつも親方が一人で出て行ったあと、ジョリクールといっしょに宿屋に残っていた。ある朝かれが帰って来ると、宿の亭主がとどこおっている宿料を要求したことを話した。かれがわたしに金の話をしたのはこれが初めてであった。かれがわたしの毛皮服を買うために時計を売ったということはほんのぐうぜんにわたしの聞き出したことであって、そのほかにはかれのふところ具合がどんなに苦しいか、ついぞ打ち明けてもらったことはなかったが、今度こそかれはもうわずか五十スーしかふところに残っていないことを話した。 こうなってただ一つ残った手だてとしては、今夜さっそく一興行やるほかにないとかれは考えていた。 ゼルビノもドルスもジョリクールもいない興行。まあ、そんなことができることだろうか、とわたしは思った。 それができてもできなくても、どう少なく見積もってもすぐ四十フランという金をこしらえなければならないとかれは言った。ジョリクールの病気は治してやらなければならないし、部屋には火がなければならないし、薬も買わなければならないし、宿にもはらわなければならない。いったん借りている物を返せば、あとはまた貸してもくれるだろう。 この村で四十フラン。この寒空といい、こんなあわれない一座でなにができよう。 わたしが、ジョリクールといっしょに宿に待っているあいだに親方がさかり場で一けん見世物小屋を見つけた。なにしろ野天で興行するなんということはこの寒さにできない相談であった。かれは広告のびらを書いて、ほうぼうにはり出したり、二、三枚の板でかれは舞台をこしらえたりした。そして思い切って残りの五十スーでろうそくを買うと、それを半分に切って、明かりを二倍に使うくふうをした。 わたしたちの部屋の窓から見ていると、かれは雪の中を行ったり来たりしていた。わたしはどんな番組をかれが作るか、心配であった。 わたしはすぐにこの問題を解くことができた。というのは、そのとき村の広告屋が赤いぼうしをかぶってやって来て、宿屋の前に止まった。たいこをそうぞうしくたたいたあとで、かれはわれわれの番組を読み上げた。 その口上を聞いていると、よくもきまりが悪くないと思われるほど親方は思い切って大げさなふいちょうをした。なんでも世界でもっとも高名な芸人が出る――それはカピのことであった――それから『希世の天才なる少年歌うたい』が出る。その天才はわたしであった。 それはいいとして、この山勘口上で第一におもしろいことは、この興行に決まった入場料のなかったことであった。われわれは見物の義侠心に信頼する。見物は残らず見て聞いてかっさいをしたあとで、いくらでもお志しだいにはらえばいいというのである。 これがわたしにはとっぴょうしもなくだいたんなやり方に思われた。だれがわたしたちをかっさいする者があろう。カピはたしかに高名になってもいいだけのことはあったけれど、わたしが……わたしが天才だなどとは、どこをおせばそんな音が出るのだ。 たいこの音を聞くと、カピはほえた。ジョリクールはちょうどひじょうに悪かった最中であったが、やはり起き上がろうとした。たいこの音とカピのほえ声を聞くと、芝居の始まる知らせであるということをさとったようであった。 わたしは無理にかれをねどこにおしもどさなければならなかった。するとかれは例のイギリスの大将の軍服――金筋のはいった赤い上着とズボン、それから羽根のついたぼうしをくれという合図をした。かれは両手を合わせてひざをついて、わたしにたのみ始めた。いくらたのんでも、なにもしてもらえないとみると、かれはおこって見せた。それからとうとうしまいにはなみだをこぼしていた。かれに向かって、今夜芝居するなんという考えを捨てなければならないことを納得させるには、たいへんな手数のかかることがわかっていた。それよりもかくれて出て行くほうがいいとわたしは思った。 親方が帰って来ると、かれはわたしにハープをしょったり、いろいろ興行に入りようなものを用意するように言いつけた。それがなんの意味だということを知っているジョリクールは、今度は親方に向かって請求を始めた。かれは自分の希望を表すために苦しい声をしばり出したり、顔をしかめたり、からだを曲げたりするよりいいことはなかった。かれのほおにはほんとうになみだが流れていたし、親方の手におしつけたのは心からのキッスであった。 「おまえも芝居がしたいのか」と親方はたずねた。 「そうですとも」とジョリクールのからだ全体がさけんでいるように思われた。かれは自分がもう病人でないことを示すために、とび上がろうとした。でもわたしたちは外へかれを連れ出せば、いよいよかれを殺すほかはないことをよく知っていた。 わたしたちはもう出て行く時刻になった。出かけるまえにわたしは長く持つようにいい火をこしらえて、ジョリクールを毛布の中にすっかりくるんだ。かれはまたさけんで、できるだけの力でわたしをだきしめた。やっとわたしたちは出発した。 雪の中を歩いて行くと、親方はわたしに今夜はしっかりやってもらいたいということを話した。もちろん一座の主な役者たちがいなくなっていては、いつものようにうまくいくはずはなかったが、カピとわたしとでおたがいにいっしょうけんめいにやれるだけはやらなければならなかった。なにしろ四十フラン集めなければならなかった。 四十フラン。おそろしいことであった。できない相談であった。 親方はいろいろなことを用意しておいたので、わたしたちがすべきいっさいのことはろうそくの火をつけることであった。けれどこれはむやみにつけてしまうこともできない。見物がいっぱいになるまではひかえなければならない。なにしろ芝居のすむまでに明かりがおしまいになるかもしれないのであった。 わたしたちがいよいよ芝居小屋にはいったとき、広告屋はたいこをたたいて、最後にもう一度村の往来を一めぐりめぐり歩いていた。 カピとわたしの仕度ができてから、わたしは外へ出て、柱の後ろに立って見物の来るのを待っていた。 たいこの音はだんだん高くなった。もうそれはさかり場に近くなって、ぶつぶつ言う人の声も聞こえた。たいこのあとからは子どもがおおぜい調子を合わせてついて来た。たいこを打ちやめることなしに、広告屋は芝居小屋の入口にともっている二つの大きなかがり火のまん中に位置をしめた。こうなると見物はただ、中にはいって場席を取れば、芝居は始められるのであった。 おやおや、いつまで見物の行列は手間を取ることであろう。それでも戸口のたいこはゆかいそうにどんどん鳴り続けていた。村じゅうの子どもは残らず集まっているにちがいなかった。けれど四十フランの金をくれるものは子どもではなかった、ふところの大きい、物おしみをしない紳士が来てくれなければならなかった。 とうとう親方は始めることに決心した。でも小屋はとてもいっぱいになるどころではなかった。それでもわたしたちはろうそくというやっかいな問題があるので、このうえ長くは待てなかった。 わたしはまずまっ先に現れて、ハープにつれて二つ三つ歌を歌わなければならなかった。正直に言えばわたしが受けたかっさいはごく貧弱だった。わたしは自分を芸人だとはちっとも思ってはいなかったけれど、見物のひどい冷淡さがわたしをがっかりさせた。わたしがかれらをゆかいにしえなかったとすると、かれらはきっとふところを開けてはくれないであろう。わたしはわたしが歌った名誉のためではなかった。それはあわれなジョリクールのためであった。ああ、わたしはどんなにこの見物を興奮させ、かれらを有頂天にさせようと願っていたことだろう……けれども見物席はがらがらだったし、その少ない見物すら、わたしを『希世の天才』だと思っていないことは、わかりすぎるほどわかっていた。 でもカピは評判がよかった。かれはいく度もアンコールを受けた。カピのおかげで興行が割れるようなかっさいで終わった。かれらは両手をたたいたばかりでなく、足拍子をふみ鳴らした。 いよいよ勝負の決まるときが来た。カピはぼうしを口にくわえて、見物の中をどうどうめぐりし始めた。そのあいだわたしは親方の伴奏でイスパニア舞踏をおどった。カピは四十フラン集めるであろうか。見物に向かってはありったけのにこやかな態度を示しながら、この問題がしじゅうわたしの胸を打った。 わたしは息が切れていた。けれどカピが帰って来るまではやめないはずであったから、やはりおどり続けた。かれはあわてなかった。一枚の銀貨ももらえないとみると、前足を上げてその人のかくしをたたいた。 いよいよかれが帰って来そうにするのを見て、もうやめてもいいかと思ったけれど、親方はやはりもっとやれという目くばせをした。 わたしはおどり続けた。そして二足三足カピのそばへ行きかけて、ぼうしがいっぱいになっていないことを見た。どうしていっぱいになるどころではなかった。 親方はやはりみいりの少ないのを見ると、立ち上がって、見物に向かって頭を下げた。 「紳士ならびに貴女がた。じまんではございませんが、本夕はおかげさまをもちまして、番組どおりとどこおりなく演じ終わりましたとぞんじます。しかしまだろうそくの火も燃えつきませんことゆえ、みなさまのお好みに任せ、今度は一番てまえが歌を歌ってお聞きに入れようと思います。いずれ一座のカピ丈はもう一度おうかがいにつかわしますから、まだご祝儀をいただきませんかたからも、今度はたっぷりいただけますよう、まえもってご用意を願いたてまつります」 親方はわたしの先生ではあったが、わたしはまだほんとうにかれの歌うのを開いたことはなかった。いや、少なくともその晩歌ったように歌うのを開いたことがなかった。かれは二つの歌を選んだ。一つはジョセフの物語で、一つはリシャール獅子王の歌であった。 わたしはほんの子どもであったし、歌のじょうずへたを聞き分ける力がなかったが、親方の歌はみょうにわたしを動かした。かれの歌を聞いているうちに、目にはなみだがいっぱいあふれたので、舞台のすみに引っこんでいた。 そのなみだの霧の中から、わたしは、前列のこしかけにすわっていた若いおくさんがいっしょうけんめい手をたたいているのを見た。わたしはまえから、この人が一人、今夜小屋に集まった百姓たちとちがっていることを見つけた。かの女は若い美しい貴婦人で、そのりっぱな毛皮の上着だけでもこの村一番の金持ちにちがいないとわたしは思った。かの女はいっしょに子どもを連れていた。その子もむちゅうでカピにかっさいしていた。ひじょうによく似ているところを見れば、それはかの女のむすこであった。 初めの歌がすむと、カピはまたどうどうめぐりをした。ところがそのおくさんはぼうしの中になにも入れなかったのを見て、わたしはびっくりした。 親方が第二の曲をすませたとき、かの女は手招きをしてわたしを呼んだ。 「わたし、あなたの親方さんとお話ししたいんですがね」とかの女は言った。 わたしはびっくりした。(そんなことよりもなにかぼうしの中へ入れてくれればいい)とわたしは思った。カピはもどって来た。かれは二度目のどうどうめぐりでまえよりももっとわずか集めて来た。 「あの婦人がなにか用があると言うのか」と親方がたずねた。 「あなたにお話がしたいそうです」 「わたしはなにも話すことなんかない」 「あの人はなにもカピにくれませんでした。きっといまそれをくれようというんでしょう」 「じゃあ、カピをやってもらわせればいい。わたしのすることではない」 そうは言いながら、かれは行くことにして、犬を連れて行った。わたしもかれらのあとに続いた。そのとき一人の僕(下男)が出て来て、ちょうちんと毛布を持って来た。かれは婦人と子どものわきに立っていた。 親方は冷淡に婦人にあいさつをした。 「おじゃまをしてすみませんでした。けれどわたくし、お祝いを申し上げたいと思いました」 でも親方は一言も言わずに、ただ頭を下げた。 「わたくしも音楽の道の者でございますので、あなたの技術の天才にはまったく感動いたしました」 技術の天才。うちの親方が。大道の歌うたい、犬使いの見世物師が。わたしはあっけにとられた。 「わたしのような老いぼれになんの技術がありますものか」とかれは冷淡に答えた。 「うるさいやつとおぼしめすでしょうが」と婦人はまた始めた。 「なるほどあなたのようなまじめなかたの好奇心を満足させてあげましたことはなによりです」とかれは言った。「犬使いにしては少し歌が歌えるというので、あなたはびっくりしておいでだけれど、わたしはむかしからこのとおりの人間ではありませんでした。これでも若いじぶんにはわたしは……いや、ある大音楽家の下男でした。まあおうむのように、わたしは主人の口まねをして覚えたのですね。それだけのことです」 婦人は答えなかった。かの女は親方の顔をまじまじと見た。かれもつぎほのないような顔をしていた。 「さようなら、あなた」とかの女は外国なまりで言って、「あなた」ということばに力を入れた。 「さようなら。それからもう一度今夜味わわせていただいた、このうえないゆかいに対してお礼を申し上げます」こう言ってカピのほうをのぞいて、ぼうしに金貨を一枚落とした。 わたしは親方がかの女を戸口まで送って行くだろうと思ったけれど、かれはまるでそんなことはしなかった。そしてかの女がもう答えない所まで遠ざかると、わたしはかれがそっとイタリア語で、ぶつぶこごとを言っているのを聞いた。 「あの人はカピに一ルイくれましたよ」とわたしは言った。そのときかれは危なくわたしにげんこを一つくれそうにしたけれど、上げた手をわきへ垂らした。 「一ルイ」とかれはゆめからさめたように言った。「ああ、そうだ、かわいそうに、ジョリクールはどうしたろう。わたしは忘れていた。すぐ行ってやろう」 わたしはそうそうに切り上げて、宿へ帰った。 わたしはまっ先に宿屋のはしごを上がって部屋へはいった。火は消えてはいなかったが、もうほのおは立たなかった。 わたしは手早くろうそくをつけた。ジョリクールの声がちっともしないので、わたしはびっくりした。 やがてかれが陸軍大将の軍服を着て、手足をいっぱいにつっぱったまま、毛布の上に横になっているのを見た。かれはねむっているように見えた。 わたしはからだをかがめて、優しくかれの手を取って引き起こそうとした。 その手はもう冷たかった。 親方がそのとき部屋にはいって来た。 わたしはかれのほうを見た。 「ジョリクールが冷たいんですよ」とわたしは言った。 親方はそばへ来て、やはりとこの上にのぞきこんだ。 「死んだのだ」とかれは言った。「こうなるはずであった。ルミや、おまえをミリガン夫人の所から無理に連れて来たのは悪かった。わたしは罰せられたのだ。ゼルビノ、ドルス、それから今度はジョリクール……だがこれだけではすむまいよ」
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