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家なき子(いえなきこ)01
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捨て子
旅の日数のたつのは早かった。親方が刑務所から出て来る日がずんずん近づいていた。船がだんだんツールーズから遠くなるに従って、わたしはこの考えに心を苦しめられていた。 船の旅はこのうえなくおもしろかった。なんの苦労もなければ、心配もなかった。これがせっかく水の上を気楽に通って来た道を、今度は足でとぼとぼ歩いて帰らなけれはならないときがじき来るのだ。 これはたまらなくおもしろくないことであった。そうなればもう寝台もなければ、クリームもない。お菓子もなけれは、テーブルを取り巻いた楽しい夜会もなくなるのだ。 でもそれよりもこれよりもいちばんつらいのは、ミリガン夫人とアーサとに別れることであった。わたしはこの人たちの友情からはなれなければならないであろう。そのつらさはバルブレンのおっかあに別れたときと同じことであろう。 わたしはある人びとをしたったり、その人びとからかわいがられると、もう一生その人たちといっしょにくらしたいと思う。それがあいにくいつもじきその人たちと別れなければならないようになる。いわばちょうどその人たちと別れるために、愛し愛されたりするようなものであった。 このごろの楽しい生活のあいだに、ただ一つこの心痛がわたしの心をくもらせた。 ある日とうとうわたしは思い切って、ミリガン夫人に、ツールーズへ帰るにはどのくらいかかるだろうと聞いた。親方が刑務所から出る日に、わたしは刑務所の戸口で待っていようと思ったのである。 アーサはわたしが帰って行くという話を聞くと、急にさけびだした。 「帰っちゃいやだ、ルミ。行ってしまってはいやだ」 かれはすすり泣きをしていた。 わたしはかれに、自分がヴィタリス親方のものになっていること、かれが金を出して両親からわたしを借りていること、用のあるときいつでも帰って行かなければならないことを話した。 わたしは両親のことを話した。けれどもそれがほんとうの父親でも母親でもないことは話さなかった。わたしは自分が捨て子であることをはじに思った――往来で拾われた子どもだということを白状することをはじに思った。わたしは孤児院の子どもというものがどんなにあなどられるものであるか知っていた。世の中で捨て子であるということほどいやなことがあろうとは、わたしには思えなかった。それをミリガン夫人やアーサに知られることを好まなかった。それを知られたら、あの人たちはわたしをきらうようになるだろう。 「お母さま、ルミはどうしても止めておかなければだめですよ」とアーサは言い続けた。 「わたしもルミをここへ止めておくことはたいへんけっこうだと思うけれど」とミリガン夫人は答えた。「わたしたちはずいぶんあの子が好きなのだからね。でもこれには二つやっかいなことがある。第一にはルミがいたがっているかどうか……」 「ああ、それはいますとも、いますとも」とアーサがさけんだ。「ねえルミ、行きたかないねえ、ツールーズへなんか」 「第二には」と、ミリガン夫人がかまわず続けた。「この子の親方が手放すだろうか、どうかということですよ」 「ルミが先です。ルミが先です」とアーサは言い張った。 ヴィタリスはいい親方であった。かれがわたしにものを教えてくれたことに対しては、わたしはひじょうに感謝していた。けれどもかれとくらすのと、アーサとこうしてくらすのとではとても比較にはならなかった。同時に親方に持つ尊敬と、ミリガン夫人とその病身の子どもに対して持つ愛着とは比較にはならなかった。わたしはこういう外国人を、世話になった親方よりありがたいものに思うのはまちがっていると感じていた。けれどもそれはそのとおりにちがいなかった。わたしはミリガン夫人とアーサを心から愛していた。 「ルミがわたしたちの所にいても、いいことばかりはないでしょう」とミリガン夫人は続けた。 「この船にだって遊び半分ではいられません。ルミもやはりあなたと同じようにたくさん勉強をしなければなりません。とても青空の下で旅をして回るような自由な境涯ではないでしょう」 「ああ、ぼくの思っていることがおわかりでしたら……」とわたしは言いかけた。 「ほらほらね、お母さま」とアーサが口を出した。 「ではわたしたちがこれからしなければならないことは」とミリガン夫人が言った。「この子の親方の承諾を受けることです。わたしはまあ手紙をやってここへ来てもいようにたのんでみましょう。こちらからツールーズへは行かれないからね。わたしは汽車賃を送ってあげて、なぜこちらから汽車に乗って行かれないか、そのわけをよく書いてあげましょう。つまりこちらへ呼ぶことになるのだが、たぶん承知してくださることだろうと思うから、それで相談したうえで、親方がこちらの申し出を承知してくだされば、今度はあなたのご両親と相談することにしましょう。むろんだまっていることはできないからね」 この最後のことばで、わたしの美しいゆめは破れた。 両親に相談する。そうしたらかれらはわたしが内証にしようとしていることをすぐ言いたてるだろう。わたしが捨て子だということを言いたてるだろう。 ああ捨て子。そうなればアーサもミリガン夫人もわたしをきらうようになるだろう。 まあ自分の父親も母親も知らない子どもが、アーサの友だちであったか。 わたしはミリガン夫人の顔をまともにながめた。なんと言っていいか、わたしはわからなかった。かの女はびっくりしてわたしの顔を見た。わたしがどうしたのか、かの女はたずねようとしたが、わたしはそれに答えもできずにいた。たぶん親方が帰って来るという考えに気が転倒していると考えたらしく、かの女はそのうえしいては問わなかった。 幸いにじきねむる時間が来たので、アーサからいつまでもふしぎそうな目で見られずにすんだ。やっと心配しながら自分の部屋に一人閉じこもることができた。これはわたしが白鳥号に乗り合わせて以来初めてのふゆかいな晩であった。それはおそろしくふゆかいな、長い熱病をわずらったような心持ちであった。わたしはどうしたらいいだろう。なんと言えばいいのだ。 たぶん親方はわたしを手放さないであろう。それなればかれらはどうしたってほんとうのことは知らずにいよう。かれらは、わたしの捨て子だということを知らずにすむだろう。素性を知られることについてのわたしの羞恥と恐怖があまりひどかったので、もうアーサ母子と別れても、しかたがない。ヴィタリスがなんでも自分といっしょに来いと主張することを希望し始めたくらいであった。そうなれば少なくともかれらはこののちわたしを思い出すたんびにいやな気がしないであろう。 それから三日たってミリガン夫人はヴィタリスに送った手紙の返事を受け取った。かれは夫人の文意をよくくんで、向こうから来てかの女に会おうと言って来た。つぎの土曜日の二時の汽車で、セットへ着くはずにするからと言って来た。わたしは犬たちとジョリクールを連れて、かれに会いに停車場まで行くことを許された。 その朝になると、犬たちはなにか変わったことでも起こると思ったか、ひどくはしゃいでいた。ジョリクールだけは知らん顔をしていた。わたしはひじょうに興奮していた。きょうこそわたしの運命が決められる日であった。わたしに勇気があったら、親方にたのんで捨て子だということをミリガン夫人に言ってもらわないようにたのむことができたであろう。けれどもわたしはかれに対してすら『捨て子』ということばを口に出して言うことができないような気がしていた。わたしは犬をひもでつないで、ジョリクールは上着の下に入れて、停車場の片すみに立って待っていた。わたしは身の回りに起こっていることはほとんど目にはいらなかった。汽車の着いたことを知らせてくれたのは犬であった。かれらは主人のにおいをかぎつけた。 ふとわたしのおさえているひもを前に引くものがあった。わたしはうっかり見張りをゆるめていたので、かれらはぬけ出したのであった。ほえながらかれらは前へとび出した。わたしはかれらが親方にとびかかるのを見た。ほかの二ひきに比べてははげしくしかもしたたかにカピが、いきなり主人のうでにとびかかった。ゼルビノとドルスがその足にとびかかった。 親方はわたしを見つけると、手早くカピをどけて、両うでをわたしのからだに投げかけた。初めてかれはわたしにキッスした。 「ああよく無事でいてくれた」とかれはたびたび言った。 親方はこれまでわたしにつらくはなかったが、こんなふうに優しくはなかった。わたしはそれに慣れていなかった。それでわたしは感動して、思わずなみだが目の中にあふれた。それにいまのわたしの心持ちはたやすく物に動かされるようになっていた。わたしはかれの顔をながめた。刑務所にはいっているまにかれはひじょうに年を取った。背中も曲がったし、顔は青いし、くちびるに血の気はなかった。 「ルミ、わたしは変わったろう。なあ」とかれは言った。「刑務所はけっしてゆかいな所ではなかった。それに苦労というものは、たちの悪い病気のようなものだ。けれどもう出て来ればだいじょうぶだ。これからはよくなるだろう」 それから話の題を変えてかれは言い続けた。 「わたしの所へ手紙を寄こしたおくさんのことを話しておくれ。どうしてそのおくさんと知り合いになったのだ」 わたしはここで、どうして白鳥号に乗って堀割をこいでいたミリガン夫人とアーサに出会ったか、それからわたしたちの見たこと、したことについてくわしく話した。わたしは自分でもなにを言っているのかわからないほど、のべつまくなしに話をした。こうしてわたしは親方の顔を見ると、これから別れてミリガン夫人の所にいたいと言いだす気にはなれなかった。 わたしたちはまだ話のすっかりすまないうちに、ミリガン夫人のとまっているホテルに着いた。親方は夫人が手紙でなんと書いて来たか、それは言わなかったから、わたしはかの女の申し出がどんなものであるかなんにも知らなかった。 「そのおくさんはわたしを待っていられるのかな」と、わたしたちがホテルにはいったときにかれは言った。 「ええ、ぼくがいまおくさんの部屋に案内しましょう」とわたしは言った。 「それにはおよばないよ」とかれは答えた。「わたしは一人で上がって行く。おまえはここでジョリクールや、犬たちといっしょにわたしを待っておいで」 わたしは、いつでもかれに従順であったけれども、この場合はかれといっしょにミリガン夫人の部屋に行くことが、わたしとしてむろん正当でもあり自然なことだと思っていた。けれども手まねでかれがわたしのくちびるに出かかっていることばをおさえると、わたしはいやいや犬やさるといっしょに下に残っていなければならなかった。 どうしてかれはミリガン夫人と話をするのにわたしのいることを好まなかったか。わたしはこの質問を心の中でくり返しくり返したずねた。それでもまだ明快な答えが得られずに考えこんでいたときにかれはもどって来た。 「行っておくさんに、さようならを言っておいで」とかれはことば短に言った。「わたしはここで待っていてやる。あと十分のうちにたつのだから」 わたしはかみなりに打たれたような気がした。 「それ」とかれは言った。「おまえはわたしの言ったことがわからないか。なにを気のぬけた顔をして立っている。早くしないか」 かれはまだこんなふうにあらっぽくものを言ったことがなかった。機械的にわたしは服従して、立ち上がった。なにがなんだかわからないような顔をしていた。 「あなたはおくさんになんとお言いに……」二足三足行きかけてわたしは問いかけた。 「わたしはおまえがなくてならないし、おまえにもわたしは必要なのだ。従ってわたしはおまえに対するわたしの権利を捨てることはできませんと言ったのさ。行って来い。いとまごいがすんだらすぐ帰れ……」 わたしは自分が捨て子だったという考えばかりに気を取られていたから、わたしがこれですぐに立ち去らなければならないというのは、きっと親方がわたしの素性を話したからだとばかり思っていた。 ミリガン夫人の部屋にはいると、アーサがなみだを流している。そのそばに母の夫人が寄りそっているところを見た。 「ルミ、きみ行ってはいやだよ。ねえ、ルミ、行かないと言ってくれたまえ」とかれはすすり泣きをした。 わたしはものが言えなかった。ミリガン夫人がわたしの代わりに答えた。つまりわたしがいま親方に言われたとおりにしなければならないことを、アーサに言って聞かせた。 「親方さんにお願いしましたが、あなたをこのままわたしたちにくださることを承知してくださいませんでした」とミリガン夫人は、いかにも悲しそうな声で言った。 「あの人は悪い人だ」とアーサがさけんだ。 「いいえ、あの人は悪い人ではありません」とミリガン夫人は言った。「あの人にはあなたがだいじで手放せないわけがあるのです。それにあの人はあなたをかわいがっていられる……あの人はああいう身分の人のようではない、どうしてりっぱな口のきき方をなさいました。お断りになる理由としてあの人の言われたのは――そう、こうです、――わたしはあの子を愛している、あの子もわたしを愛している。わたしがあれに授けている世間の修業は、あれにとって、あなたがたといるよりもずっといい、はるかにいいのだ。あなたはあれに教育を授けてくださるでしょう。それはほんとうだ。なるほどあなたはあれのちえを養ってはくださるだろう、だがあれの人格は作れません。それを作ることのできるのは人生の艱難ばかりです。あれはあなたの子にはなれません。やはりわたしの子どもです。それはどれほどあれにとって居心地がよかろうとも、あなたの病身のお子さんのおもちゃになっているよりは、はるかにましです。わたしもできるだけあの子どもを教えるつもりですから――とこうお言いになるのですよ」 「でもあの人、ルミの父さんでもないくせに」とアーサはさけんだ。 「それはそうです。でもあの人はルミの主人です。ルミはあの人のものです。さし当たりルミはあの人に従うほかはありません。この子の両親が親方さんにお金で貸したのですから。でもわたしはご両親にも手紙を書いて、やれるだけはやってみましょう」 「ああ、いけません。そんなことをしてはいけません」とわたしはさけんだ。 「それはどういうわけです」 「いいえ、どうかよしてください」 「でもそのほかにしかたがないんですもの」 「ああ、どうぞよしてください」 ミリガン夫人が両親のことを言いださなかったなら、わたしは親方がくれた十分の時間以上をさようならを言うために費したであろう。 「ご両親たちはシャヴァノンにいるんでしょう」とミリガン夫人はたずねた。 それには答えないで、わたしはアーサのほうへ行って、両うでをかれのからだに回して、しばらくはしっかりだきしめていた。それからかれの弱いうでからのがれて、わたしはふり向いてミリガン夫人に手をさし延べた。 「かわいそうに」と、かの女はわたしの額にキッスしながらつぶやいた。 わたしは戸口へかけて行った。 「アーサ、わたしはいつまでもあなたを愛します」とわたしは言って、こみ上げて来るなみだを飲みこんだ。「おくさん、わたしはけっしてけっしてあなたを忘れません」 「ルミ、ルミ……」とアーサがさけんだ。その後のことばはもう聞こえなかった。 わたしは手早くドアを閉じて外に出た。一分間ののち、わたしはヴィタリスといっしょになっていた。 「さあ出かけよう」とかれは言った。 こうしてわたしは最初の友だちから別れた。
ふぶきとおおかみ
またわたしは親方のあとについて痛い肩にハープを結びつけたまま、雨が降っても、日が照りつけても、ちりやどろにまみれて、旅から旅へ毎日流浪して歩かなければならなかった。広場であほうの役を演じて、笑ったり泣いたりして見せて、「ご臨席の貴賓諸君」のごきげんをとり結ばなければならなかった。 長い旅のあいだ再三わたしは、アーサやその母親や白鳥号のことを考えて足が進まないことがあった。きたならしい村にはいると、わたしはあのきれいな小舟の船室をどんなに思い出したろう。それに木賃宿のねどこのどんなに固いことであろう。(もう二度とアーサとも遊べないし、その母親の優しい声も聞くことはできない)それを考えるだけでもおそろしかった。 これほど深い、しつっこい悲しみの中で、うれしいことには、一つのなぐさめがあった。それは親方がまえよりはずっと優しく、温和になったことであった。 かれのわたしに対する様子はすっかり変わっていた。かれはわたしの主人というより以上のものであるように感じた。もうたびたび思い切って、かれにだきつきたいと思うほどのことがあった。それほどにわたしは愛情を求めていた。けれどもわたしにはそれをする勇気がなかった。親方はそういうふうになれなれしくすることを許さない人であった。 初めは恐怖がわたしをかれから遠ざけたけれど、このごろはなんとは知れないが、ぼんやりと、いわば尊敬に似た感情がかれとわたしをへだてていた。 わたしがいよいよ村の家を出るじぶんには、ふつうのびんぼうな階級の人たちと同じように親方を見ていた。わたしは世間なみの人からかれを区別することができずにいたが、ミリガン夫人と二か月くらしたあいだに、わたしの目は開いたし、ちえも進んだ。よく気をつけて親方を見ると、態度でも様子でも、かれにはひじょうに高貴なところがあるように見えた。かれの様子にはミリガン夫人のそれを思い出させるところがあった。 そんなときわたしは、ばかな、親方はたかが犬やさるの見世物師というだけだし、ミリガン夫人は貴婦人である、それが似かよったところがあるはずがないと思った。 だがそう思いながら、よくよく見ると、わたしの目がまちがわないことが確かになった。親方はそうなろうと思えば、ミリガン夫人が貴婦人であると同様に紳士になることができた。ただちがうことは、ミリガン夫人がいつでも貴婦人であるのに反して、親方がある場合だけ紳士であるということであった。でも一度そうなれば、それはりっぱな紳士になりきって、どんな向こう見ずな、どんな乱暴な人間でも、その威勢におされてしまうのであった。 だからもともと向こう見ずでも、乱暴でもなかったわたしは、よけい威勢に打たれて、言いたいことも言い得ずにしまった。それは向こうから優しいことばでさそい出してくれるときでもそうであった。 セットをたってからのち、しばらくわたしたちはミリガン夫人のことや、白鳥号に乗っていたあいだのことを口に出すことをしなかった。けれどもだんだんとそれが話の種になるようになって、まず親方がいつも話の口を切った。そうしてそれからは一日も、ミリガン夫人の名前の口にのぼらない日はないようになった。 「おまえは好いていたのだね、あのおくさんを」と親方が言った。「そうだろう、それはわたしもわかっている。あの人は親切であった。まったくおまえには親切であった。その恩を忘れてはならないぞ」 そのあとでかれはいつも言い足した。 「だがしかたがなかったのだ」 こう言う親方のことばを、初めはわたしもなんのことだかわからなかった。するうちだんだんそれは、ミリガン夫人がそばへ置きたいという申し出をこばんだことをさして言うのだとわかった。 親方がしかたがなかったと言ったとき、こういう考えになっていたのは確かであった。そのうえこのことばの中には後悔に似た心持ちがふくまれていたように思われた。かれはアーサのそばにわたしを残しておきたいと思ったのであろう。けれどそれはできないことだったというのである。 でもなぜかれがミリガン夫人の申し出を承知することができなかったか、よくはわからなかったし、あのとき夫人がくり返し言って聞かしてくれた説明も、あまりよくはわからずにしまったが、親方が後悔しているということがわかって、わたしは心の底に満足した。 もうこれでは親方も承知してくれるだろう。そうしてこれはわたしにとって大きな希望の目標になった。 それにしても、なぜ白鳥号には出会わないのであろう。 それはローヌ川を上って行くはずであった。そうしてわたしたちはその川の岸に沿って歩いていた。 それで歩きながらわたしの目は両側を限っている丘や、豊饒な田畑よりも、よけい水の上に注がれていた。 わたしたちがアルルとか、タラスコンとか、アヴィニオン、モンテリマール、ヴァランス、ツールノン、ヴィエンヌなど、という町に着いたときに、いちばん先にわたしの行ってみるのは、波止場か橋の上で、そこから川の上流を見たり、下流を見たり、わたしの目は白鳥号を探した。遠方に半分、深い霧にかくれてぼんやりした船のかげでも見つけると、それが白鳥号であるかないか、見分けられるほど大きくなるのを待つのであった。 でもそれはいつも白鳥号ではなかった。 ときどきわたしは思い切って船頭に聞いてみた。わたしの探す美しい船の模様を話して、そういう船を見なかったかとたずねた。でもかれらはけっしてそういう船の通るのを見たことがなかった。 このごろでは親方も、わたしをミリガン夫人にわたそうと決心していた。少なくともわたしにはそう想像されたから、もはやわたしの素性を告げたり、バルブレンのおっかあに手紙をやったりされるおそれがなくなった。そのほうの事件は親方とミリガン夫人との間の相談でうまくまとめてくれるだろう。そう思って、わたしの子どもらしいゆめでいろいろに事件を処理してみた。ミリガン夫人はわたしをそばに置きたいと言うだろう。親方はわたしに対する権利を捨てることを承知してくれるだろう。それでいっさい事ずみだ。 わたしたちは何週間もリヨンに滞在していた。そのあいだひまさえあればいく度もわたしはローヌ川と、ソーヌ川の波止場に行ってみた。おかげでエーネー、チルジット、ラ・ギョッチエール、ロテル・デューなどという橋のことは、生えぬきのリヨン人同様によく知っていた。 しかしやはりわからなかった。とうとう白鳥号を見つけることはできなかった。 わたしたちはとうとうリヨンを去らなければならなかった。そしてディジョンに向かった。それでわたしはもうミリガン夫人に二度と会う希望を捨てなければならなかった。それはリヨンでフランス全国の地図を調べてみたが、どうしても白鳥号がロアール川に出るには、これより先へ川を上って行くことのできないことを知ったからであった。船はシャロンのほうへ別れて行ったのであろう。そう思ってわたしたちはシャロンに着いたが、やはり船を見ることなしにまた進まなければならなかった。これがわたしの夢想の結末であった。 いよいよいけなくなったことは、冬がいまや目近にせまってきたことであった。わたしたちは目も見えないような雨とみぞれの中をみじめに歩き回らなければならなかった。夜になってわたしたちがきたない宿屋かまたは物置き小屋につかれきってたどり着くと、もうはだまで水がしみ通って、わたしたちはとても笑顔をうかべてねむる元気はなかった。 ディジョンをたってから、コートドールの山道をこえたときなどは、雨にぬれて骨までもこおる思いをした。ジョリクールなどは、わたしと同様いつも情けない悲しそうな顔をしていた。よけい意地悪くなっていた。 親方の目的は少しでも早くパリへ行き着くことであった。それは冬のあいだ芝居をして回れるのはパリだけであった。わたしたちはもうごくわずかの金しか得られなかったので、汽車に乗ることもできなかった。 道みちの町や村でも、日和のつごうさえよければ、ちょっとした興行をやって、いくらかでも収入をかき集めて、出発するようにした。寒さと雨とで苦しめられながら、でもシャチヨンまではどうにかしてやって来た。 シャチヨンをたってから、冷たい雨の降ったあとで、風は北に変わった。 もういく日かしめっぽい日が続いたあとでは、わたしたちも顔にかみつくようにぶつかる北風を、いっそ気持ちよく思っていたが、まもなく空は大きな黒い雲でおおわれて、冬の日はすっかりかくれてしまった。大雪の近づいていることがわかっていた。 わたしたちがちょっとした大きな村に着くまではまだ雪にもならなかった。でも親方は、なんでもトルアの町へ早く行こうとあせっていた。そこは大きい町だから、ひじょうに悪い天気で五、六日逗留しても、少しは興行を続けて回る見こみがあった。「早くとこにおはいり」とその晩宿屋に着くと親方は言った。「あしたはなんでも早くからたつのだ……だが雪に降りこめられてはたまらないなあ」 でもかれはすぐにはとこにはいらなかった。台所の炉のすみにこしをかけて、寒さでひどく弱っているジョリクールを暖めていた。さるは毛布にくるまっていても、やはり苦しがって、うめき声をやめなかった。 あくる日の朝、わたしは言いつけられたとおり早く起きた。まだ夜が明けてはいなかった。空はまっ暗な雲が低く垂れて、星のかげ一つ見えなかった。ドアを開けると、はげしい風がえんとつにふき入って、危なくゆうべ灰の中にうずめたほだ火をまい上げそうにした。 宿屋の亭主は親方の顔を見て、 「わたしがあなただったら、きょうは出るどころではありません。いまにひどいふぶきになりますぜ」 「わたしは急いでいるのだ」と親方は答えた。「その大ふぶきの来るまえにトルアまで行きたいと思っている」 「六、七里(約二十四~二十八キロ)もありますよ。一時間やそこらで行けるものですか」 でもかまわずわたしたちは出発した。 親方はジョリクールをしっかりからだにだきしめて、自分の温かみを少しでも分けてやろうとした。犬は固いこちこちな道を歩くのをうれしがって、先に立ってかけた。親方はデイジョンでわたしにひつじの毛皮服を買ってくれたので、わたしは毛を裏にしてしっかり着こんだ。これがこがらしでべったりからだにふきつけられていた。 わたしたちは口を開くのがひどくふゆかいだったので、だまりこんで歩きながら、少しでも暖まろうとして急いだ。 もう夜明けの時間をよほど過ぎていたが、空はまだまっ暗であった。東のほうに白っぽい帯のようなものが雪の間に流れてはいたが、太陽は出て来そうもなかった。 野景色を見わたすと、いくらか物がはっきりしてきた。葉をふるった木も見えるし、灌木や小やぶの中でかれっ葉ががさがさ風に鳴っていた。 往来にも畑にも出ている人はなかった。車の音も聞こえないし、むちの鳴る音も聞こえなかった。 ふと北の空に青白い筋が見えたが、だんだん大きくなってこちらのほうへ向かって来た。そのときわたしたちはきみょうながあがあいうささやき声のような音を聞いた。それはがんか野の白鳥のさけび声であったろう。この気ちがいじみた鳥の群れは、わたしたちの頭の上を飛んだと思うと、もう北から南のほうへおもしろそうにかけって行った。かれらが遠い空の中に見えなくなると、やわらかな雪片が静かに落ちて来た。それは空中を遊び歩いているように見えた。 わたしたちが通って行く道は喪中のようにしずんでさびしかった。あれきって陰気な野原の上にただ北風のはげしいうなり声が聞こえた。雪片が小さなちょうちょうのように目の前にちらちらした。絶えずくるくる回って、地べたに着くことがなかった。 わたしたちはまた少ししか歩いてはいなかった。雪の降るまえにトルアに着くということは、むずかしいことに思われた。けれどわたしは心配しなかった。雪が降りだせば風がやんで、かえって寒さもゆるむだろうと思った。 わたしはまだ雪風というものがどんなものだかよく知らなかった。 しかしまもなくそれがほんとうにわかった。しかもわたしにはけっして忘れることのできないものであった。 雲が東北からむくむく集まって来た。そこの空にかすかな明るみが見えたと思うと、やがて雲のふところが開いて、どんどん大きな雪のかたまりが落ちて来た。もう空中をちょうちょうのようにはまわなかった。ふんぷんとすばらしい勢いで降って来て、わたしたちの目鼻を開けられないようにした。 「とてもトルアまではだめだ。なんでもうちを見つけしだい休むことにしよう」と親方が言った。 わたしは親方がそう言うのを聞いてうれしかったけれども、いったいうまく休むうちが見つかるであろうか。まだそこらが白くならないまえにわたしが見ておいたかぎりでは、一けんもうちは見えなかった。そればかりではない。おいおい村に近づいているという気配も見えなかった。 わたしたちの前には底知れぬ黒い森が横たわっていた。わたしたちを包んでいる両側の丘陵もやはり深い森であった。 雪はいよいよはげしく降ってきた。わたしたちはだまって歩いた。親方はおまけにひつじの毛皮服を持ち上げて、ジョリクールが楽に息のできるようにしてやった。ただときどき首を左右に動かさなければ息ができなかった。 犬たちももう先に立ってかけることができなかった。かれらはわたしたちのかかとについて歩いて、早く休むうちを求めたがっているような顔をしていたが、それをあたえてやることができなかった。 道はいっこうにはかどらなかった。わたしたちはとぼとぼ骨を折って歩いた。目を開けてはいられなかった。じくじくぬれた着物がこおりついたまま歩いて行った。もう深い森の中にはいっていたが、まっすぐな道で、わたしたちはさえぎるもののないあらしにふきさらされていた。そのうち風はいくらか静まったが、雪のかたまりはますます大きくなって、みるみる積もった わたしは親方がなにか探し物をするように、おりおり左のほうへ目を注ぐのを見たが、かれはなにも言わなかった。なにをかれは見つけようとするのであろう。 わたしは長い道の向こうばかりまっすぐに見ていた。この森がもうほどなくおしまいになって、人家が現れてきはしないかという望みをかけていた。 だが目の届く限り両側は雪にうずまった林であった。前はもう二、三間(四~五メートル)先が雪でぼんやりくもっていた。 わたしはこれまで暖かい台所の窓ガラスに雪の降るところを見ていた。その暖かい台所がどんなにかはるか遠いゆめの世界のように思われることであろう。 でもやはり行くだけは行かなければならなかった。わたしたちの足はだんだん深く雪の中にもぐりこんだ。そのときふと、なにも言わずに親方が左手を指さした。なるほど、わたしはぼんやりと、空き地の中に堀立小屋のようなものを見た。 わたしたちはその小屋に通う道を探さなければならなかった。でも雪がもう深くなって、道という道をうずめてしまったので、これは困難な仕事であった。わたしたちはやぶの中をかけ回って、みぞをこえて、やっとのことで小屋へ行く道を見つけて中へはいることができた。 その小屋は丸太やしばをつかねて造ったもので、屋根も木のえだのたばを積み重ねて、雪が間から流れこまないように固くなわでしめてあった。 犬たちはうれしがって、元気よく先に立ってかけこんだ、ほえながらたびたびかわいた土の上をほこりを立てて転げ回っていた。 わたしたちの満足もかれらにおとらず大きかった。 「こういう森の中の木を切ったあとには、きこりの小屋があるはずだと思っていた」と親方が言った。「もういくら雪が降ってもかまわないぞ」 「そうですとも。雪なんかいくらでも降れだ」とわたしは大いばりで言った。 わたしは戸口――というよりも小屋に出入する穴というほうが適当で、そこにはドアも窓もなかったが――そこまで行って、わたしは上着とぼうしの雪をはらった。せっかくのかわいた部屋をぬらすまいと思ったからである。 わたしたちの宿の構造はしごく簡単であった。備えつけの家具も同様で、土の山と、二つ三つ大きな石がいすの代わりに置いてあるだけであった。それよりもありがたかったのは、部屋のすみに赤れんがが五、六枚、かまどの形に積んであったことである。なによりもまず火を燃やさなければならぬ。 なによりも火がいちばんのごちそうだ。 さてまきだが、このうちでそれを見つけることは困難ではなかった。 わたしたちはただかべや屋根からまきを引きぬいて来ればよかった。それはわけなくできた。 まもなくたき火の赤いほのおがえんえんと立った。むろん小屋はけむりでいっぱいになったが、そんなことはいまの場合かまうことではなかった。わたしたちの欲しているのは火と熱であった。 わたしは両手をついて、腹ばいになって火をふいた。犬は火のぐるりをゆうゆうと取り巻いて、首をのばして、ぬれた背中を火にかざしていた。 ジョリクールはやっと親方の上着の下からのぞくだけの元気が出て、用心深く鼻の頭を外に向けてそこらをながめ回した。安全な場所であることを確かめて満足したらしく、急いで地べたにとび下りて、たき火の前のいちばん上等な場所を占領して、二本の小さなふるえる手を火にかざした。 親方は用心深い、経験に積んだ人であるから、その朝わたしが起き出すまえに道中の食料を包んでおいた。パンが一本とチーズのかけであった。わたしたちはみんな食物を見て満足した。 情けないことにわたしたちはごくわずかしか分けてもらえなかった。それはいつまでここにいなければならないかわからないので、親方がいくらか晩飯に残しておくほうが確実だと考えたからであった。 わたしはわかったが、しかし犬にはわからなかった。それでかれらはろくろく食べもしないうちにパンが背嚢に納められるのを見ると、前足を主人のほうに向けて、そのひざがしらを引っかいた。目をじっと背嚢につけて、中の物をぜひ開けさせようといろいろの身ぶりをやった。けれども親方はまるでかまいつけなかった。 背嚢はとうとう開かれなかった。犬はあきらめてねむる決心をした。カピは灰の中に鼻をつっこんでいた。わたしもかれらの例にならおうと考えた。けさは早かった。いつやむか、見当のつかない雪を見てくよくよしているよりも、白鳥号に乗って、ゆめの国にでも遊んだほうが気が利いている。 わたしはどのくらいねむったか知らなかった。目が覚めると雪がやんでいた。わたしは外をながめた。雪はひじょうに深かった。無理に出て行けばひざの上までうずまりそうであった。 何時だろう。 わたしはそれを親方にたずねることができなかった。なぜなら例のカピが時間を示した大きな銀時計は売られてしまった。かれは罰金や裁判の費用をはらうためにありったけの金を使ってしまった。そしてディジョンでわたしの毛皮服を買うときに、その大きな時計も売ってしまったのであった。 時計を見ることができないとすれば、日の加減で知るほかはないが、なにぶんどんよりしているので、何時だか時間を推量するのが困難であった。 なんの物音も聞こえなかった。雪はあらゆる生物の活動をそれなりこおらせてしまったように思われた。 わたしは小屋の入口に立っていると、親方の呼ぶ声が聞こえた。 「これから出て行けると思うかな」とかれはたずねた。 「わかりません。あなたのいいようにしたいと思います」 「そうか、わたしはここにいるほうがいいと思う。まあまあ屋根はあるし、たき火もあるのだから」 それはほんとうであったが、同時にわたしは食物のないことを思い出した。けれどもわたしはなにも言わなかった。 「どうせまた雪は降ってくるよ。とちゅうで雪に会ってはたまらない。夜はよけい寒くなる。今夜はここでくらすほうが無事だ。足のぬれないだけでもいいじゃないか」 そうだ。わたしたちはこの小屋に逗留するほかはない。胃ぶくろのひもを固くしめておく、それだけのことだ。 夕飯に親方が残りのパンを分けた。おやおや、もうわずかしかなかった。すぐに食べられてしまった。わたしたちはくずも残さず、がつがつして食べた。このつましい晩食がすんだとき、犬はまたさっきのようにあとねだりをするだろうと思っていたが、かれらはまるでそんなことはしなかった。今度もわたしは、どのくらいかれらがりこうであるか知った。 親方がナイフをズボンのかくしにしまうと、これは食事のすんだ知らせであったから、カピは立ち上がって、食物を入れたふくろのにおいをかいだ。それから前足をふくろにのせてこれにさわってみた。この二重の吟味で、もうなにも食物の残っていないことがわかった。それでかれはたき火の前の自分の席に帰って、ゼルビノとドルスの顔をながめた。その顔つきはあきらかにどうもしんぼうするほかはないよという意味を示していた。そこでかれはあきらめたというように、ため息をついて全身を長ながとのばした。 「もうなにもない。ねだってもだめだよ」かれはこれを大きな声で言ったと同様、はっきりと仲間の犬たちに会得さしていた。 かれの仲間はこのことばを理解したらしく、これもやはりため息をつきながらたき火の前にすわった。けれどゼルビノのため息はけっしてほんとうにあきらめたため息ではなかった。おなかの減っているうえに、ゼルビノはひじょうに大食らいであった。だからこれはかれにとっては大きな犠牲であった。 雪がまたずんずん降りだしていた。ずいぶんしつっこく降っていた。わたしたちは白い地べたのしき物が高く高くふくれ上がって、しまいに、小さな若木や灌木がすっかりうずまってしまうのを見た。夜になっても、大きな雪片がなお暗い空からほの明るい地の上にしきりなしに落ちていた。 わたしたちはいよいよここへねむるとすれば、なによりいちばんいいことは、できるだけ早くねつくことであった。わたしは昼間火でかわかしておいた毛皮服にくるまってまくらの代わりにした。平ったい石に頭をのせて、たき火の前に横になった。 「おまえはねむるがいい」親方が言った。「わたしのねむる番になればおまえを起こすから。この小屋ではけものもなにも心配なことはないが、二人のうち一人は起きていて、火の消えないように番をしなければならない。用心してかぜをひかないように気をつけなければいけない。雪がやむとひどい寒さになるからな」 わたしはさっそくねむった。親方がまたわたしを起こしたときには、夜はだいぶふけていた。たき火はまだ燃えていた。雪はもう降ってはいなかった。 「今度はわたしのねむる番だ」と親方が言った。「火が消えたら、ここへこのとおりたくさん採っておいたまきをくべればいい」 なるほどかれはたき火のわきに小えだをたくさん積み上げておいた。わたしよりずっと少ししかねむれない親方は、わたしがいちいちかべからまきをぬくたんびに音を立てて目を覚まさせられることをいやがった。それでわたしはかれのこしらえておいてくれたまきの山から取っては、そっと音を立てずに火にくべれはよかった。 たしかにこれはかしこいやり方ではあったけれど、情けないことに親方は、これがどんな意外な結果を生むかさとらなかった。 かれはいまジョリクールを自分の外とうですっかりくるんだまま、たき火の前にからだをのばした。まもなくしだいに高く、しだいに規則正しいいびきで、よくねいったことが知れた。 そのときわたしはそっと立ち上がって、つま先で歩いて、外の様子がどんなだか、入口まで出て見た。 草もやぶも木もみんな雪にうまっていた。日の届くかぎりどこも目がくらむような白色であった。空にはぽつりぽつり星の光がきらきらしていた。それはずいぶん明るい光ではあったが、木の上に青白い光を投げているのは雪の明かりであった。もうずっと寒くなっていた。ひどくこおっていた。すきまからはいる空気は氷のようであった。喪中にいるような静けさの中に、雪の表面のこおりつく音がいく度となく聞こえた。 「ああ、この森のおくで雪の中にうめられてわたしたちはどうすればいいのだ。この雪と寒さの中で、この小屋でもなかったらどうなったであろう」 わたしはそっと音のしないように出たのであったが、やはり犬たちを起こしてしまった。中でもゼルビノは起き上がってわたしについて来た。夜の荘厳はかれにとってなんでもなかった。かれはしばらく景色をながめたが、やがてたいくつして外へ出て行こうとした。 わたしはかれに中にはいるように命令した。ばかな犬よ。このおそろしい寒さの中でうろつき回るよりは、暖かいたき火のそばにおとなしくしていたほうがどのくらいいいか知れない。かれは不承不承にわたしの言うことを聞いたが、しかしひどくふくれっ面をして、目をじっと入口に向けていた。よほどしつっこい、いったん思い立ったことを忘れない犬であった。 わたしは、まっ白な夜をながめながらまだ二、三分そこに立っていた。それは美しい景色ではあったし、おもしろいと思ったが、なんとも言えないさびしさを感じた。むろん見まいと思えば目をふさいで中にはいって、そのさびしい景色を見ずにいることはできるのだが、白いふしぎな景色がわたしの心をとらえたのであった。 とうとうわたしはまたたき火のそばへ帰って、二、三本まきをたがいちがいに火の上に組み合わせて、まくらの代わりにした石の上にこしをかけた。 親方はおだやかにねむっていた。犬たちとジョリクールもまたねむっていた。ほのおが火の中から上って、ぴかぴか火花を散らしながら屋根のほうまで巻き上がった。ぱちぱちいうたき火のほのおの音だけが夜の沈黙を破るただ一つの音であった。 長いあいだわたしは火をながめていたけれど、だんだん我知らずうとうとし始めた。わたしが外へ出てまきをこしらえる仕事でもしていたら、日を覚ましていられたかもしれなかったが、なにもすることもなくって火にあたっているので、たまらなくねむくなってきた。そのくせしょっちゅう自分ではいっしょうけんめい目を覚ましているつもりになっていた。 ふとはげしいほえ声にわたしは目が覚めて、とび上がった。まっ暗であった。わたしはかなり長いあいだねむったらしく、火はほとんど消えかかっていた。もう小屋の中にほのおが光ってはいなかった。 カピはけたたましくほえたてていた。けれどふしぎなことにゼルビノの声もドルスの声もしなかった。 「どうした。どうした」と親方が目を覚ましてさけんだ。 「知りません」 「おまえはねむっていたのだな。火も消えている」 カピは入口までかけ出して行ったが、外へとび出そうとはしなかった。出口でウウ、ウウ、ほえていた。 「どうした。どうしたというんだろう」わたしは今度は自分にたずねた。 カピのほえ声に答えて、二声三声、すごい悲しそうなうなり声が聞こえた。それはドルスの声だとわかった。そのうなり声は小屋の後ろから、しかもごく近い距離から聞こえて来た。 わたしは外へ出ようとした。けれど親方はわたしの肩に手をのせて引き止めた。 「まあまきをくべなさい」かれは命令の調子で言った。 言いつけられたとおりにわたしがしていると、かれは火の中から一本小えだを引き出して、火をふき消して、燃えている先を吹いた。 かれはそのたいまつを手に持った。 「さあ、行って見て来よう」とかれは言った。「わたしのあとについておいで。カピ、先へ行け」 外へ出ようとすると、はげしいほえ声が聞こえた。カピはこわがって、あとじさりをして、わたしたちの間に身をすくめた。 「おおかみだ。ゼルビノとドルスはどこへ行ったろう」 なにをわたしが言えよう。二ひきの犬はわたしのねむっているあいだに出て行ったにちがいない。ゼルビノはわたしがねつくのを待って、ぬけ出して行った。そしてドルスが、そのあとについて行ったのだ。 おおかみがかれらをくわえたのだ。親方が犬のことをたずねたとき、かれの声にはその恐怖があった。 「たいまつをお持ち」とかれは言った。「あれらを助けに行かなければならない」 村でわたしはよくおおかみのおそろしい話を開いていた。でもわたしはちゅうちょすることはできなかった。わたしはたいまつを取りにかけて帰って、また親方のあとに続いた。 けれども外には犬も見えなければおおかみも見えなかった。雪の上にただ二ひきの犬の足あとがぽつぽつ残っていた。わたしたちはその足あとについて小屋の回りを歩いた。するとややはなれて雪の中でなにかけものが転がり回ったようなあとがあった。 「カピ、行って見て来い」と親方は言った。同時にかれはゼルビノとドルスを呼び寄せる呼び子をふいた。 けれどこれに答えるほえ声は聞こえなかった。森の中の重苦しい沈黙を破る物音はさらになかった。カピは言いつけられたとおりにかけ出そうとはしないで、しっかりとわたしたちにくっついていた。いかにも恐怖にたえない様子であった。いつもはあれほど従順でゆうかんなカピが、もう足あとについてそれから先へ行くだけの勇気がなかった。わたしたちの回りだけは雪がきらきら光っていたが、それから先はただどんよりと暗かった。 もう一度親方は呼び子をふいて、迷い犬を呼びたてた。でもそれに答える声はなかった。わたしは気が気でなかった。 「ああ、かわいそうなドルス」親方はわたしの心配しきっていることをすっぱり言った。 「おおかみがつかまえて行ったのだ。どうしてあれらを放してやったのだ」 そう、どうして――そう言われて、わたしは答えることばがなかった。 「行って探して来なければ」とわたしはしばらくして言った。 わたしは先に立って行こうとしたけれど、かれはわたしを引き止めた。 「どこへ探しに行くつもりだ」とかれはたずねた。 「わかりません、ほうぼうを」 「この暗がりでは、どこに行ったかわかるものではない。この雪の深い中で……」 それはほんとうであった。雪がわたしたちのひざの上まで積もっていた。わたしたちの二本のたいまつをいっしょにしても、暗がりを照らすことはできなかった。 「ふえをふいても答えないとすると、遠方へ行ってしまっているのだ」とかれは言った。 「わたしたちは、むやみに進むことはならない。おおかみはわれわれにまでかかって来るかもしれない。今度は自分を守ることができなくなる」 かわいそうな犬どもを、その運命のままに任せるということは、どんなに情けないことであったろう。 ――われわれの二人の友だち、それもとりわけわたしにとっての友だちであった。それになにより困ったことは、それがわたしの責任だということであった。わたしはねむりさえしなかったら、かれらも出て行きはしなかった。 親方は小屋に帰って行った。わたしはそのあとに続きながら、一足ごとにふり返っては、立ち止まって耳を立てた。 雪のほかにはなにも見えなかった。なんの声も聞こえなかった。 こうしてわたしたちが、小屋にはいると、もう一つびっくりすることがわたしたちを待っていた。火の中に投げこんでおいたえだは勢いよく燃え上がって、小屋のすみずみの暗い所まで照らしていた。けれどもジョリクールはどこへ行ったか見えなかった。かれの着ていた毛布はたき火の前にぬぎ捨ててあった。けれどかれは小屋の中にはいなかった。親方もわたしも呼んだ。けれどかれは出て来なかった。 親方の言うには、かれの目を覚ましたときには、さるはわきにいた。だからいなくなったのは、わたしたちが出て行ったあとにちがいなかった。燃えているたいまつを雪の積もった地の上にくっつけるようにして、その足あとを見つけ出そうとした。でもなんの手がかりもなかった。 どこかたばねたまきのかげにでもかくれているのではないかと思って、わたしたちはまた小屋へ帰って、しばらく探し回った。いく度もいく度も同じすみずみを探した。 わたしは親方の肩に上って、屋根に葺いてあるえだたばの中を探してみた。二度も三度も呼んでみた。けれどもなんの返事もなかった。 親方はぷりぷりかんしゃくを起こしているようであった。わたしはがっかりしていた。 わたしは親方に、おおかみがかれまでも取って行ったのではないかとたずねた。 「いいや」とかれは言った。「おおかみは小屋の中までははいっては来なかっただろう。ゼルビノとドルスは外へ出たところをくわえられたかと思うが、この中までははいって来られまい。たぶんジョリクールはこわくなって、わたしたちの外に出ているあいだにどこへかかくれたにちがいない。それをわたしは心配するのだ。このひどい寒さでは、きっとかぜをひくであろう。寒さがあれにはなにより効くのだから」 「じゃあどんどん探してみましょうよ」 わたしたちはまたそこらを歩き回った。けれどまるでむだであった。 「夜の明けるまで待たなければならない」と親方が言った。 「どのくらいで明けるでしょう」 「二時間か三時間だろう」 親方は両手で頭をおさえてたき火の前にすわっていた。 わたしはそれをじゃまする勇気がなかった、わたしはかれのわきにつっ立って、ただときどき火の中にえだをくべるだけであった。一、二度かれは立ち上がって戸口へ行って、空をながめてはじっと耳をかたむけたが、また帰って来てすわった。 わたしはかれがそんなふうにだまって悲しそうにしていられるよりも、かまわずわたしにおこりつけてくれればいいと思った。 三時間はのろのろ過ぎた。その長いといったら、とても夜がおしまいになる時がないのかと思われた。 でも星の光がいつか空からうすれかけていた。空がだんだん明るく、夜が明けかかっていた。けれども明け方に近づくに従って、寒さはいよいよひどくなった。戸口からはいって来る風が骨までこおるようであった。 これでジョリクールを見つけたとしても、かれは生きているだろうか。 見つけ出す希望がほんとにあるだろうか。 きょうもまた雪が降りださないともかぎらない。 でも雪はもう来なかった。そして空にばら色の光がさして、きょうの好天気を予告するようであった。 すっかり明るくなって、樹木の形がはっきり見えるようになった。親方もわたしもがっかりして、棒をかかえて小屋を出た。 カピはもうゆうべのようにびくついてはいないようであった。目をしっかり親方にすえたまま、いつでも合図しだいでかけ出す仕度をしていた。 わたしたちが下を向いてジョリクールの足あとを探し回っていると、カピが首を上に上げてうれしそうにほえ始めた。かれはわたしたちに地べたではなく、上を見ろといって合図をしたのであった。 小屋のわきの大きなかしの木のまたで、わたしたちはなにか黒い小さなもののうごめく姿を見つけた。 これがかわいそうなジョリクールであった。夜中に犬のほえる声におびえて、かれはわたしたちが出ているまに、小屋の屋根によじ上った。そしてそこから一本のかしの木のてっべんに登って、そこを安全な場所と思って、わたしたちの呼ぶ声にも答えず、じっとからだをかがめてすわっていたのであった。 かわいそうな弱い動物。かれはこごえてしまったにちがいない。 親方がかれを優しく呼んだ。かれは動かなかった。わたしたちはかれがもう死んでいると思った。 数分間親方はかれを続けさまに呼んだ。けれどさるはもう生きているもののようではなかった。 わたしの心臓は後悔で痛んだ。どれほどひどく罰せられたことだろう。 わたしはつぐないをしなければならない。 「登ってつかまえて来ましょう」とわたしは言った。 「危ないよ」 「いいえ、だいじょうぶです。わけなくできますよ」 それはほんとうではなかった。それは危険でむずかしい仕事であった。大きなこの木は氷と雪をかぶっているので、それはずいぶん困難な仕事であった。 わたしはごく小さかったじぶんから木登りをすることを習った。それでこの術には熟練していた。わたしはとび上がって、いちばん下のえだにとびついた。そして木のえだをすけて雪が落ちて日の中にはいって来たが、でもどうやら木の幹をよじて、いちばんしっかりしたえだに手がかかった。ここまで登れば、あとは足をふみはずさないように気をつければよかった。 わたしは登りながら、優しくジョリクールに話しかけた。かれは動かないで、目だけ光らせてわたしを見ていた。 わたしはほとんど手の届く所へ来て、手をのばしてつかまえようとした。するとひょいとかれはほかのえだにとびついてしまった。 わたしはそのえだまでかれを追っかけたけれど、人間の情けなさ、子どもであっても、木登りはさるにはかなわなかった。 これでさるの足が雪でぬれていなかったら、とてもかれをつかまえることはできそうもなかった。かれは足のぬれることを好まなかった。それでじきにわたしをからかうのがいやになって、えだからえだへととび下りて、まっすぐに主人の肩にとび下りた。そして上着の裏にかくれた。 ジョリクールを見つけるのはたいへんなことであったがそれだけではすまなかった。今度は犬を探さなければならなかった。 もうすっかり昼になっていた。わけなくゆうべの出来事のあとをたどることができた。雪の中でわたしたちは犬の死んだことがわかった。 わたしたちは十間(約十八メートル)ばかりかれらの足あとをつけることができた。かれらは続いて小屋からぬけ出した。ドルスが、ゼルビノのあとに続いた。 それからほかのけものの足あとが見えた。一方にはおおかみどもは犬にとびかかって、はげしく戦ったしるしが残っていた。こちらにはおおかみがえものをつかんでゆっくり食べて歩いて行った足あとが残っていた。もうそこには、そこここに赤い血が雪の上にこぼれているほかには、犬のあとはなにも残っていなかった。 かわいそうな二ひきの犬は、わたしのねむっているあいだに死にに行ったのであった。 でもわたしたちはできるだけ早く帰って、ジョリクールを温めてやらなければならなかった。わたしたちは小屋へ帰った。親方がさるの足と手を持って、赤んぼうをおさえるようにして、たき火にかざすと、わたしは毛布を温めて、その中へ転がす仕度をした。けれども毛布ぐらいでは足りなかった。かれは湯たんぽと温かい飲み物を求めていた。 親方とわたしはたき火のそばにすわって、だまってまきの燃えるのをながめた。 「かわいそうに、ゼルビノは。かわいそうに、ドルスは」 わたしたちは代わりばんこにこんなことばをつぶやいた。初めに親方が、つぎにはわたしが。 あの犬たちは、楽しいにつけ苦しいにつけ、わたしたちの友だちであり、道連れであった。そしてわたしにとっては、わたしのさびしい身の上にとっては、このうえないなぐさめであった。 わたしがしっかり見張りをしなかったことは、どんなにくやしいことだったろう。おおかみはそうすれば小屋までせめては来なかったろうに。火の光におそれて遠方に小さくなっていたであろうに。 どうにかしていっそ親方がひどくわたしをしかってくれればよかった。かれがわたしを打ってくれればよかった。 けれどかれはなにも言わなかった。わたしの顔を見ることすらしなかった。かれは火の上に首をうなだれたまま、おそらく犬がなくなって、これからどうしようか考えているようであった。
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