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家なき子(いえなきこ)01
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ヴィタリス親方の一座
その晩一晩、きっと孤児院へ連れて行かれたゆめばかりを見ていたにちがいない。朝早く目を開いても、自分がいつもの寝台にねているような気がしなかった。わたしは目が覚めるとさっそく寝台にさわったり、そこらを見回したり、いろいろ試してみた。ああ、そうだ、わたしはやはりバルブレンのおっかあのうちにいた。 バルブレンはその朝じゅう、なにもわたしに言わなかった。わたしはかれがもう孤児院へやる考えを捨てたのだと思うようになった。きっとバルブレンのおっかあが、あくまでわたしをうちに置くことに決めたのであろう。 けれどもお昼ごろになると、バルブレンがわたしに、ぼうしをかぶってついて来いと言った。 わたしは目つきで母さんに救いを求めてみた。かの女もご亭主に気がつかないようにして、いっしょに行けと目くばせした。わたしは従った。かの女は行きがけにわたしの肩をたたいて、なにも心配することはないからと知らせた。 なにも言わずにわたしはかれについて行った。 うちから村まではちょっと一時間の道であった。そのとちゅう、バルブレンはひと言もわたしに口をきかなかった。かれはびっこ引き引き歩いて行った。おりふしふり返って、わたしがついて来るかどうか見ようとした。 どこへいったいわたしを連れて行くつもりであろう。 わたしは心の中でたびたびこの疑問をくり返してみた。バルブレンのおっかあがいくらだいじょうぶだと目くばせして見せてくれても、わたしにはなにか一大事が起こりそうな気がしてならないので、どうしてにげ出そうかと考えた。 わたしはわざとのろのろ歩いて、バルブレンにつかまらないようにはなれていて、いざとなればほりの中にでもとびこもうと思った。 はじめはかれも、あとからわたしがとことこついて来るのて、安心していたらしかった。けれどもまもなく、かれはわたしの心の中を見破ったらしく、いきなりわたしのうで首をとらえた。 わたしはいやでもいっしょにくっついて歩かなければならなかった。 そんなふうにして、わたしたちは村にはいった。すれちがう人がみんなふり返って目を丸くした。それはまるで、山犬がつなで引かれて行くていさいであった。 わたしたちが村の居酒屋の前を通ると、入口に立っていた男がバルブレンに声をかけて、中にはいれと言った。バルブレンはわたしの耳を引っ張って、先にわたしを中へつっこんでおいて、自分もあとからはいって、ドアをぴしゃりと立てた。 わたしはほっとした。 そこは危険な場所とは思われなかった。それに先からわたしは、この中がいったいどんな様子になっているのだろうと思っていた。 旅館御料理カフェー・ノートルダーム。中はどんなにきれいだろう。よく赤い顔をした人がよろよろ中から出て来るのをわたしは見た。表のガラス戸は歌を歌う声や話し声で、いつもがたがたふるえていた。この赤いカーテンの後ろにはどんなものがあるのだろうと、いつもふしぎに思っていた。それをいま見ようというのである…… バルブレンはいま声をかけた亭主と、食卓に向かい合ってこしをかけた。わたしは炉ばたにこしをかけてそこらを見回した。 わたしのいたすぐ向こうのすみには、白いひげを長く生やした背の高い老人がいた。かれはきみょうな着物を着ていた。わたしはまだこんな様子の人を見たことがなかった。 長い髪の毛をふっさりと肩まで垂らして、緑と赤の羽根でかざったねずみ色の高いフェルト帽をかぶっていた。ひつじの毛皮の毛のほうを中に返して、すっかりからだに着こんでいた。その毛皮服にはそではなかったが、肩の所に二つ大きな穴をあけて、そこから、もとは録色だったはずのビロードのそでをぬっと出していた。ひつじの毛のゲートルをひざまでつけて、それをおさえるために、赤いリボンをぐるぐる足に巻きつけていた。 かれは長ながといすの上に横になって、下あごを左の手に支えて、そのひじを曲げたひざの上にのせていた。 わたしは生きた人で、こんな静かな落ち着いた様子の人を見たことがなかった。まるで村のお寺の聖徒の像のようであった。 老人の回りには三びきの犬が、固まってねていた。白いちぢれ毛のむく犬と、黒い毛深いむく犬、それにおとなしそうなくりくりした様子の灰色の雌犬が一ぴき。白いむく犬は巡査のかぶる古いかぶと帽をかぶって、皮のひもをあごの下に結えつけていた。 わたしがふしぎそうな顔をしてこの老人を見つめているあいだに、バルブレンと居酒屋の亭主は低い声でこそこそ話をしていた。わたしのことを話しているのだということがわかった。 バルブレンはわたしをこれから村長のうちへ連れて行って、村長から孤児院に向かって、わたしをうちへ置く代わりに養育料が請求してもらうつもりだと言った。 これだけを、やっとあの気のどくなバルブレンのおっかあが夫に説いて承諾させたのであった。けれどわたしは、そうしてバルブレンがいくらかでも金がもらえれば、もうなにも心配することはないと思っていた。 その老人はいつかすっかりわきで聞いていたとみえて、いきなりわたしのほうに指さしして、耳立つほどの外国なまりでバルブレンに話しかけた。 「その子どもがおまえさんのやっかい者なのかね」 「そうだよ」 「それでおまえさんは孤児院が養育料をしはらうと思っているのかね」 「そうとも。この子は両親がなくって、そのためにおれはずいぶん金を使わされた。お上からいくらでもはらってもらうのは当たり前だ」 「それはそうでないとは言わない。だが、物は正しいからといってきっとそれが通るものとはかぎらない」 「それはそうさ」 「それそのとおり。だからおまえさんが望んでおいでのものも、すらすらと手にはいろうとはわたしには思えないのだ」 「じゃあ孤児院へやってしまうだけだ。こちらで養いたくないものを、なんでも養えという法律はないのだ」 「でもおまえさんははじめにあの子を養いますといって引き受けたのだから、そのやくそくは守らなければならない」 「ふん、おれはこの子を養いたくないのだ。だからどのみちどこへでもやっかいばらいをするつもりでいる」 「さあ、そこで話だが、やっかいばらいをするにも、手近なしかたがあると思う」老人はしばらく考えて、「おまけに少しは金にもなるしかたがある」と言った。 「そのしかたを教えてくれれば、おれは一ぱい買うよ」 「じゃあさっそく一ぱい買うさ。もう相談は決まったから」 「だいじょうぶかえ」 「だいじょうぶよ」 老人は立ち上がって、バルブレンの向こうに席をしめた。ふしぎなことには、老人が立ち上がると、ひつじの毛皮服がむずむず動いて、むっくり高くなった。たぶん、もう一ぴき犬をうでの下にかかえているのだとわたしは思った。 この人たちは、いったいわたしをどうしようというのだろう。わたしの心臓がまたはげしく打ち始めた。わたしはちっとも老人から目をはなすことができなかった。 「おまえさんはこの子のためにだれか金を出さない以上、自分のうちに置いて養っていることはいやだという、それにちがいないのだろう」 「それはそのとおりだ……そのわけは……」 「いや、わけはどうでもよろしい。それはわたしにかかわったことではない。それでもうこの子が要らないというのなら、すぐわたしにください。わたしが引き受けようじゃないか」 「おや、おまえさんはこの子を引き受けると言うのかね」 「だっておまえさんはこの子をほうり出したいんだろう」 「おまえさんにこんなきれいな子をやるのかえ。この子は村でもいちばんかわいい子だ。よく見てくれ」 「よく見ているよ」 「ルミ、ここへ来い」 わたしは食卓に進み寄った。ひざはふるえていた。 「これこれぼうや、こわがることはないよ」と老人は言った。 「さあ、よく見てくれ」とバルブレンは言った。 「わたしはこの子をいやな子だとは言いやしない。またそれならば欲しいとも言わない。こっちは化け物は欲しくはないのだ」 「いやはや、こいつがいっそ二つ頭の化け物か、または一寸法師ででもあったなら……」 「だいじにして孤児院にやりはしないだろう。香具師に売っても見世物に出しても、その化け物のおかげでお金もうけができようさ。だが子どもは一寸法師でもなければ、化け物でもない。だから見世物にすることはできない。この子はほかの子どもと同じようにできている。なんの役にも立たない」 「仕事はできるよ」 「いや、あまりじょうぶではないからなあ」 「じょうぶでないと、とんでもない話だ。……だれにだって負けはしないのだ。あの足を見なさい。あのとおりしっかりしている。あれよりすらりとした足を見たことがあるかい……」 バルブレンはわたしのズボンをまくり上げた。 「やせすぎている」と老人は言った。 「それからうでを見ろ」とバルブレンは続けた。 「うでも同様だ。――まあこれでもいいが、苦しいことや、つらいことにはたえられそうもない」 「なに、たえられない。ふん、手でさわって調べてみるがいい」 老人はやせこけた手で、わたしの足にさわってみながら、頭をふったり、顔をしかめたりした。 このまえ、ばくろうが来たときも、こんなふうであったことを、わたしは見て知っていた。その男もやはり牛のからだを手でさわったりつねったりしてみて、頭をふった。この牛はろくでもない牛だ、とても売り物にはならない、などと言ったが、でも牛を買って連れて行った。 この老人もたぶんわたしを買って連れて行くだろう。ああバルブレンのおっかあ。バルブレンのおっかあ。 不幸にもここにはおっかあはいなかった。だれもわたしの味方になってくれる者がなかった。 わたしが思い切った子なら、なあにきのうはバルブレンも、わたしを弱い子で、手足がか細くて役に立たぬと非難したのではないかと言ってやるところであった。でもそんなことを言ったら、どなりつけられて、げんこをいただくに決まっているから、わたしはなにも言わなかった。 「まあつまり当たり前の子どもさね。それはそうだが、やはり町の子だよ。百姓仕事にはたしかに向いてはいないようだ。試しに畑をやらしてごらん、どれほど続くかさ」 「十年は続くよ」 「なあにひと月も続くものか」 「まあ、このとおりだ。よく見てくれ」 わたしは食卓のはしの、ちょうどバルブレンと老人の間にすわっていたものだから、あっちへつかれ、こっちへおされて、いいようにこづき回された。 「さあ、まずこれだけの子どもとして」と老人は最後に言った。「つまりわたしが引き受けることにしよう。もちろん買い切るのではない、ただ借りるのだ。その借り賃に年に二十フラン出すことにしよう」 「たった二十フラン」 「どうして高すぎると思うよ。それも前ばらいにするからね。ほんとうの金貨を四枚にぎったうえに、やっかいばらいができるのだからね」と老人は言った。 「だがこの子をうちに置けば、孤児院から毎月十フランずつくれるからな」 「まあくれてもせいぜい七フランか十フランだね。それはよくわかっているよ。だがその代わり食べさせなければならないからね」 「その代わり働きもするさ」 「おまえさんがほんとにこの子が働けると思うなら、なにも追い出したがることはないだろう。ぜんたい捨て子を引き取るというのは、その養育料をはらってもらうためではない、働かせるためなのだ。それから金を取り上げこそすれ、給金なしの下男下女に使うのだ。だからそれだけの役に立つものなら、おまえさんはこの子をうちに置くところなのだ」 「とにかく、毎月十フランはもらえるのだから」 「だが孤児院で、いや、そんならこの子はおまえさんには預けない、ほかへ預けると言ったらどうします。つまりなんにもおまえさんは取れないではないか。わたしのほうにすればそこは確かだ。おまえさんの苦労はただ金を受け取るために、手を出しさえすればいいのだ」 老人はかくしを探って、なめし皮の財布を引き出した。その中から四枚、金貨をつかみ出して、食卓の上にならべ、わざとらしくチャラチャラ音をさせた。 「だが待てよ」とバルブレンが言った。「いつかこの子のふた親が出てくるかもしれない」 「それはかまわないじゃないか」 「いや、育てた者の身になればなにもかまわなくはないさ。またそれを思わなければ、初めっからだれが世話をするものか」 「それを思わなければ初めっからだれが世話をするものか」――このことばで、わたしはいよいよバルブレンがきらいになった。なんという悪い人間だろう。 「なるほど、だがこの子のふた親がもう出て来ないだろうとあきらめたからこそ、おまえさんもこの子をほうり出そうと言うのだろう。ところで、どうかしたひょうしでこののちそのふた親が出て来たとして、それはおまえさんの所へこそまっすぐに行こうが、わたしの所へは来ないだろう。だれもわたしを知らないのだから」と老人は言った。 「でもおまえさんがそのふた親を見つけ出したらどうする」 「なるほどそういう場合には、わたしたちで利益を分けるのだね。ところで、ひとつ、きばってさしあたり三十フラン分けてあげようよ」 「四十フランにしてもらおう」 「いいや、この子の使い道はそこいらが相応な値段だ」 「おまえさん、この子をなんに使おうというのだ。足といえばこのとおりしっかりしたいい足をしているし、うでといえばこのとおりりっぱないいうでをしている。いま言ったことをどこまでもくり返して言うが、この子をいったいどうしようというのだ」 そのとき老人はあざけるようにバルブレンの顔を見て、それからちびちびコップを干した。 「つまりわたしの相手になってもらうのだ。わたしは年を取ってきたし、夜なんぞはまことにさびしくなった。くたびれたときなんぞ、子どもがそばにいてくれるといいおとぎになるのだ」 「なるほど、それにはこの子の足はじゅうぶんたっしゃだから」 「おお、それだけではだめだ。この子はまたおどりをおどって、はね回って、遠い道を歩かなければならない。つまりこの子はヴィタリス親方の一座の役者になるのだ」 「その一座はどこにある」 「もうご推察あろうが、そのヴィタリス親方はわたしだ。さっそくここで一座をお目にかけよう」 こう言ってかれはひつじの毛皮服のふところを開けて、左のうでにおさえていたきみょうな動物を引き出した。それが、さっきからたびたび毛皮を下から持ち上げた動物であったのだ。だがそれは想像したように、犬ではなかった。 わたしはこのきみょうな動物を生まれて初めて見たとき、なんと名のつけようもなかった。 わたしはびっくりしてながめていた。 それは金筋をぬいつけた赤い服を着ていたが、うでと足はむき出しのままであった。実際それは人間と同じうでと足で、前足ではなかった。黒い毛むくじゃらの皮をかぶっていて、白くももも色でもなかった。にぎりこぶしぐらいの大きさの黒い頭をして、縦につまった顔をしていた。横へ向いた鼻の穴が開いていて、くちびるが黄色かった。けれどもとりわけわたしをおどろかしたのは、くちゃくちゃとくっついている二つの目で、それは鏡のようにぴかぴかと光った。 「いやあ、みっともないさるだな」とバルブレンがさけんだ。 ああ、さるか。わたしはいよいよ大きな目を開いた。それではこれがさるであったのか。わたしはまださるを見たことはなかったが、話には聞いていた。じゃあこの子どものようなちっぽけな動物が、さるだったのか。 「さあ、これが一座の花形で」とヴィタリス親方が言った。「すなわちジョリクール君であります。さあさあジョリクール君」と動物のほうを向いて、「お客さまにおじぎをしないか」 さるは指をくちびるに当てて、わたしたちに一人一人キッスをあたえるまねをした。 「さて」とヴィタリスはことばを続けて、白のむく犬のほうに手をさしのべた。「つぎはカピ親方が、ご臨席の貴賓諸君に一座のものをご紹介申しあげる光栄を有せられるでしょう」 このまぎわまでぴくりとも動かなかった白のむく犬が、さっそくとび上がって、後足で立ちながら、前足を胸の上で十文字に組んで、まず主人に向かってていねいにおじきをすると、かぶっている巡査のかぶと帽が地べたについた。 敬礼がすむとかれは仲間のほうを向いて、かたっぽの前足でやはり胸をおさえながら、片足をさしのべて、みんなそばに寄るように合図をした。 白犬のすることをじっと見つめていた二ひきの犬は、すぐに立ち上がって、おたがいに前足を取り合って、交際社会(社交界)の人たちがするように厳かに六歩前へ進み、また三足あとへもどつて、代わりばんこにご臨席の貴賓諸君に向かっておじぎをした。 そのときヴィタリス親方が言った。 「この犬の名をカピと言うのは、イタリア語のカピターノをつめたので、犬の中の頭ということです。いちばんかしこくって、わたしの命令を代わってほかのものに伝えます。その黒いむく毛の若いハイカラさんは、ゼルビノ侯ですが、これは優美という意味で、よく様子をご覧なさい、いかにもその名前のとおりだ。さてあのおしとやかなふうをした歌い雌犬はドルス夫人です。あの子はイギリス種で、名前はあの子の優しい気だてにちなんだものだ。こういうりっぱな芸人ぞろいで、わたしは国じゅうを流して回ってくらしを立てている。いいこともあれば悪いこともある、まあ何事もそのときどきの回り合わせさ。おおカピ……」 カピと呼ばれた犬は前足を十文字に組んだ。 「カピ、あなた、ここへ来て、ぎょうぎのいいところをお目にかけてください。わたしはこの貴人たちにいつもていねいなことばを使っています――さあ、この玉のような丸い目をしてあなたを見てござる小さいお子さんに、いまは何時だか教えてあげてください」 カピは前足をほどいて、主人のそばへ行って、ひつじの毛皮服のふところを開け、そのかくしを探って大きな銀時計を取り出した。かれはしばらく時計をながめて、それから二声しっかり高く、ワンワンとほえた。それから、今度は三つ小声でちょいとほえた。時間は二時四十五分であった。 「はいはい、よくできました」とヴィタリスは言った。「ありがとうございます、カピさん。それで今度は、ドルス夫人になわとびおどりをお願いしてもらいましょうか」 カピはまた主人のかくしを探って一本のつなを出し、軽くゼルビノに合図をすると、ゼルビノはすぐにかれの真向かいに座をしめた。カピがなわのはしをほうってやると、二ひきの犬はひどくまじめくさって、それを回し始めた。 つなの運動が規則正しくなったとき、ドルスは輪の中にとびこんで、優しい目で主人を見ながら軽快にとんだ。 「このとおりずいぶんりこうです」と老人は言った。「それも比べるものができるとなおさらりこうが目立って見える。たとえばここにあれらと仲間になって、ばかの役を務める者があれば、いっそうそれらの値打ちがわかるのだ。そこでわたしはおまえさんのこの子どもが欲しいというのだ。あの子にばかの役を務めてもらって、いよいよ犬たちのりこうを目立たせるようにするのだ」 「へえ、この子がばかを務めるのかね」とバルブレンが口を入れた。 老人は言った。「ばかの役を務めるには、それだけりこうな人間が入りようなのだ。この子なら少ししこめばやってのけよう。さっそく試してみることにします。この子がじゅうぶんりこうな子なら、わたしといっしょにいればこの国ばかりか、ほかの国ぐにまで見て歩けることがわかるはずだ。だがこのままこの村にいたのでは、せいぜい朝から晩まで同じ牧場で牛やひつじの番人をするだけだ。この子がわからない子だったら、泣いてじだんだをふむだろう。そうすればわたしは連れては行かない。それで孤児院に送られて、ひどく働かされて、ろくろく食べる物も食べられないだろう」 わたしも、そのくらいのことがわかるだけにはかしこかった。それにこの親方のお弟子たちはとぼけていてなかなかおもしろい。あれらといっしょに旅をするのは、ゆかいだろう。だがバルブレンのおっかあは……おっかあに別れるのはつらいなあ…… でもそれをいやだと言ってみたところで、バルブレンのおっかあとこの先いることはできない。やはり孤児院に送られなければならない。 わたしはほんとに情けなくなって、目にいっぱいなみだをうかべていた。するとヴィタリス老人が軽くなみだの流れ出したほおをつついた。 「ははあおこぞうさん、大さわぎをやらないのはわけがわかっているのだな。小さい胸で思案をしているのだな。それであしたは……」 「ああ、おじさん、どうぞぼくをおっかあの所へ置いてください。どうぞ置いてください」とわたしはさけんだ。 カピが大きな声でほえたので、じゃまされてわたしはそれから先が言えなかった。そのとたん犬はジョリクールのすわっていた食卓のほうへとび上がった。例のさるはみんながわたしのことで気を取られているすきをねらって、す早く酒をいっぱいついである主人のコップをつかんで、飲み干そうとしたのだ。けれどもカピは目早くそれを見つけて止めたのであった。 「ジョリクールさん」とヴィタリスが厳しい声で言った。「あなたは食いしんぼうのうえにどろぼうです。あそこのすみに行ってかべのほうを向いていなさい。ゼルビノさん、あなたは番をしておいでなさい。動いたらぶっておやり。さてカピさん、あなたはいい犬です。前足をお出しなさい。握手をしましょう」 さるは息づまったような鳴き声を出して、すごすごすみのほうへ行った。幸せな犬は得意な顔をして前足を主人に出した。 「さて」と老人はことばをついで、「先刻の話にもどりましょう。ではこの子に三十フラン出すことにしよう」 「いや、四十フランだ」 そこでおし問答が始まった。だが老人はまもなくやめて、「子どもにはおもしろくない話です。外へ出て遊ばせてやるがよろしい」と言った。そうしてバルブレンに目くばせをした。 「よし、じゃあ裏へ行っていろ。だがにげるな。にげるとひどい目に会わせるから」 バルブレンがこう言うと、わたしはそのとおりにするほかはなかった。それで裏庭へ出るには出たが、遊ぶ気にはなれない。大きな石にこしをかけて考えこんでいた。 あの人たちはわたしのことを相談している。どうするつもりだろう。 心配なのと寒いのとでわたしはふるえていた。二人は長いあいだ話していた。わたしはすわって待っていたが、かれこれ一時間もたってバルブレンが裏へ出て来た。 かれは一人であった。あのじいさんにわたしを手わたすつもりで連れて来たのだな。 「さあ帰るのだ」とかれは言った。 なに、うちへ帰る。――そうするとバルブレンのおっかあに別れないでもすむのかな。 わたしはそう言ってたずねたかったけれども、かれがひどくきげんが悪そうなのでえんりょした。 それで……だまってうちのほうへ歩いた。 けれどもうちまで行き着くまえに、先に立って歩いていたバルブレンはふいに立ち止まった。そうして乱暴にわたしの耳をつかみながらこう言った。 「いいかきさま、ひと言でもきょう聞いたことをしゃべったらひどい目に会わせるから。わかったか」
おっかあの家
「おや」とバルブレンのおっかあはわたしたちを見て言った。「村長さんはなんと言いましたえ」 「会わなかったよ」 「どうして会わなかったのさ」 「うん、おれはノートルダームで友だちに会った。外へ出るともうおそくなった。だからあしたまた行くことにした」 それではバルブレンは犬を連れたじいさんと取り引きをすることはやめたとみえる。 うちへ帰える道みちもわたしはこれがこの男の手ではないかと疑っていたが、いまのことばでその疑いは消えて、ひとまず心が落ち着いた。またあした村へ行って村長さんを訪ねるというのでは、きっとじいさんとのやくそくはできなかったにちがいない。 バルブレンにはいくらおどかされても、わたしは一人にさえなったら、おっかあにきょうの話をしようと思っていたが、とうとうバルブレンはその晩一晩じゅううちをはなれないので話す機会がなかった。 すごすごねどこにもぐりながら、あしたは話してみようと思っていた。 けれどそのあくる日起き上がると、おっかあの姿が見えない。わたしがそのあとを追ってうちじゅうをくるくる回っているのを見て、なにをしているとバルブレンは聞いた。 「おっかあ」 「ああ、それなら村へ行った。昼過ぎでなければ帰るものか」 おっかあはまえの晩、村へ行く話はしなかった。それでなぜというわけはないが、わたしは心配になってきた。わたしたちが昼過ぎから出かけるというのに、どうして待っていないのだろう。わたしたちの出かけるまえにおっかあは帰って来るかしらん。 なぜというしっかりしたわけはないのだが、わたしはたいへんおどおどしだした。 バルブレンの顔を見るとよけいに心配が積もるばかりであった。その目つきからにげるためにわたしは裏の野菜畑へかけこんだ。 畑といってもたいしたものではなかった。それへなんでもうちで食べる野菜物は残らずじゃがいもでもキャベツでも、にんじんでも、かぶでも作りこんであった。それはちょっとの空き地もなかったのであるが、それでもおっかあはわたしに少し地面を残しておいてくれたので、わたしはそこへ雌牛を飼いながら野でつんで来た草や花を、ごたごた植えこんだ。わたしはそれを『わたしの畑』と呼んでだいじにしていた。 わたしがいろいろな草花を集めては、植えつけたのは去年の夏のことであった。それが芽をふくのはこの春のことであろう。早ざきのものでも冬の終わるのを待たなければならなかった。これから続いておいおい芽を出しかけている。 もう黄ずいせんもつぼみを黄色くふくらましていたし、リラの花も芽を出していた。さくらそうもしわだらけな葉の中からかわいいつぼみをのぞかせている。 どんな花がさくだろう。 それを楽しみにして、わたしは毎日出てみた。 それからまたわたしのだいじにしていた畑の一部には、だれかにもらっためずらしい野菜を植えている。それは村でほとんど知っている者のない『きくいも』というものであった。なんでもいい味のもので、じゃがいもと、ちょうせんあざみと、それからいろいろの野菜をいっしょにした味がするのであった。わたしはそっとこの野菜をじょうずに作って、おっかあをおどろかそうと思っていた。ただの花だと思わせておいて、そっと実のなったところを引きぬいて、ないしょで料理をして、いつも同じようなじゃがいもにあきあきしているおっかあに食べさせて、『まあルミ、おまえはなんて器用な子だろう』と感心させてやろう。 こんなことを思い思いこのときも、まだ芽が出ないかと思って、種のまいてある地べたに鼻をくっつけて調べていた。ふと気がつくとバルブレンがかんしゃく声で呼びたてているので、びっくりしてうちへはいった。まあどうだろう。おどろいたことには、炉の前にヴィタリス老人と犬たちが立っているではないか。 すぐとわたしはバルブレンがわたしをどうするつもりだということがわかった。老人がやはりわたしを連れて行くのだ。それをおっかあがじゃましないように村へ出してやったのだ。 もうバルブレンになにを言ってみてもむだだということがわかっているから、わたしはすぐと老人のほうへかけ寄った。 「ああ、ぼくを連れて行かないでください。後生ですから、連れて行かないでください」とわたしはしくしく泣きだした。 すると老人は優しい声で言った。「なにさ、ぼうや、わたしといればつらいことはないよ。わたしは子どもをぶちはしない。仲間には犬もいる。わたしと行くのがなぜ悲しい」 「おっかあが……」 「どうせきさまはここには置けないのだ」とバルブレンはあらあらしく言って、耳を引っ張った。 「このだんなについて行くか、孤児院へ行くか、どちらでもいいほうにしろ」 「いやだいやだ、おっかあ、おっかあ」 「やい、それだとおれはどうするか見ろ」とバルブレンがさけんだ。「思うさまひっぱたいて、このうちから追い出してくれるぞ」 「この子は母親に別れるのを悲しがっているのだ。それをぶつものではない。優しい心だ。いいことだ」 「おまえさんがいたわると、よけいほえやがる」 「まあ、話を決めよう」 そう言いながら、老人は五フランの金貨を八枚テーブルの上にのせた。バルブレンはそれをさらいこむようにしてかくしに入れた。 「この子の荷物は」と老人が言った。 「ここにあるさ」とバルブレンが言って、青いもめんのハンケチで四すみをしばった包みをわたした。 中にはシャツが二枚と、麻のズボンが一着あるだけであった。 「それではやくそくがちがうじゃないか。着物があるという話だったが、これはぼろばかりだね」 「こいつはほかにはなにもないのだ」 「この子に聞けば、きっとそうではないと言うにちがいないが、そんなことを争っているひまがない。もう出かけなければならないからな。さあおいで、こぞうさん、おまえの名はなんと言うんだっけ」 「ルミ」 「そうか、よしよし、ルミ。包みを持っておいで。先へおいで、カピ。さあ、行こう、進め」 わたしは哀訴するように両手を老人に出した。それからバルブレンにも出した。けれども二人とも顔をそむけた。しかも、老人はわたしのうで首をつかまえようとした。 わたしは行かなければならない。 ああ、このうちにもお別れだ。いよいよそのしきいをまたいだとき、からだを半分そこへ残して行くようにわたしは思った。 なみだをいっぱい目にうかべて[#「うかべて」は底本では「うがべて」]わたしは見回したが、手近にはだれもわたしに加勢してくれる者がなかった。往来にもだれもいなかった。牧場にもだれもいなかった。 わたしは呼び続けた。 「おっかあ、おっかあ」 けれどだれもそれに答える者はなかった。わたしの声はすすり泣きの中に消えてしまった。 わたしは老人について行くほかはなかった。なにしろうで首をしっかりおさえられているのだから。 「さようなら、ごきげんよう」とバルブレンがさけんだ。 かれはうちの中へはいった。 ああ、これでおしまいである。 「さあ、行こう、ルミ、進め」と老人が言って。わたしのひじをおさえた。 わたしたちはならんで歩いた。幸せとかれはそう早く歩かなかった。たぶんわたしの足に合わせて歩いてくれたのであろう。 わたしたちは坂を上がって行った。ふり返るとバルブレンのおっかあのうちがまだ見えたが、それはだんだんに小さく小さくなっていった。この道はたびたび歩いた道だから、もうしばらくはうちが見えて、それから最後の四つ角を曲がるともう見えなくなることをわたしはよく知っていた。行く先は知らない国である。後ろをふり返ればきょうの日まで幸福な生活を送ったうちがあった。おそらく二度とそれを見ることはないであろう。 幸い坂道は長かったが、それもいつか頂上に来た。 老人はおさえた手をゆるめなかった。 「少し休ましてくださいな」とわたしは言った。 「うん、そうだなあ」とかれは答えた。 かれはやっとわたしをはなしてくれた。 けれどカピに目くばせをすると、犬もそれをさとった様子がわたしには見えた。 それですぐと、ひつじ飼いの犬のように、一座の先頭からはなれてわたしのそばへ寄って来た。 わたしがにげ出しでもすれば、すぐにかみついてくるにちがいない。 わたしは草深い小山の上に登ってこしをかけると、犬も後ろについていた。 わたしはなみだにくもった目で、バルブレンのおっかあのうちを探した。 下には谷があって、所どころに森や牧場があった。それからはるか下にいままでいたうちが見えた。黄色いささやかなけむりが、そこのけむり出しからまっすぐに空へ立ちのぼって、やがてわたしたちのほうへなびいて来た。 気の迷いか、そのけむりはうちのかまどのそばでかぎ慣れたかしの葉のにおいがするようであった。 それは遠方でもあり、下のほうになってはいたが、なにもかもはっきり見えた。ただなにかがたいへん小さく見えたのは言うまでもない。 ちりづかの植えにうちの太っためんどりがかけ回っていたが、いつものように大きくは見えなかった。うちのめんどりだということを知っていなかったら、小さなはとだと思ったかもしれない。うちの横には、わたしが馬にしていつも乗った曲がったなしの木が、小川のこちらには、わたしが水車をしかけようとして大さわぎをしてきずきかけたほりわりが見えた。まあ、その水車にはずいぶんひまをかけたが、とうとう回らなかった。わたしの畑も見えた。ああ、わたしのだいじな畑が。 わたしの花がさいてもだれが見るだろう。わたしの『きくいも』をだれが食べるだろう。きっとそれはバルブレンだ。あの悪党のバルブレンだ。 もう一足往来へ出れば、わたしの畑もなにもかもかくれてしまうのだ。 ふと村からわたしのうちのほうへ通う往来の上に、白いボンネットが見えて、木の間にちらちら見えたりかくれたりしていた。 それはずいぶん遠方であったから、ぽっちり白く、春のちょうちょうのように見えただけであった。 けれど目よりも心はするどくものを見るものだ。わたしは、それがバルブレンのおっかあであることを知った。確かにおっかあだ、とわたしは思いこんでいた。 「さて出かけようか」と老人が言った。 「ああ、いいえ、後生ですからも少し」 「じゃあ話とはちがって、おまえは、から(ぜんぜん)、足がだめだな。もうつかれてしまったのか」 わたしは答えなかった。ただながめていた。 やはりそれはバルブレンのおっかあであった。それはおっかあのボンネットであった。水色の前だれであった。足早に、気がせいているように、うちに向かって行くのであった。 白いボンネットはまもなくうちの前に着いた。戸をおし開けて、急いで庭にはいって行った。 わたしはすぐにとび上がって、土手の上に立ち上がった。そばにいたカピがおどろいてとびついて来た。 おっかあはいつまでもうちの中にはいなかった。まもなく出て来て、両うでを広げながら、あちこちと庭の中をかけ回っていた。 かの女はわたしを探しているのだ。 わたしは首を前に延ばして、ありったけの声でさけんだ。 「おっかあ、おっかあ」 けれどもそのさけび声は空に消えてしまった、小川の水音に消されてしまった。 「どうしたのだ。おまえ、気がちがったのか」とヴィタリスは言った。 わたしは答えなかった。わたしの目はまたバルブレンのおっかあをじっと見ていた。けれども向こうではわたしが上にいるとは知らないから、あお向いては見なかった。そうして庭をぐるぐる回って、往来へ出て、きょろきょろしていた。 もっと大きな声でわたしはさけんだ。けれども、初めの声と同様にむだであった。 そのうち老人もやっとわかったとみえて、やはり土手に登って来た。かれもまもなく白いボンネットを見つけた。 「かわいそうに、この子は」とかれはそっと独り言を言った。 「おお、わたしを帰してください」と、わたしはいまの優しいことばに乗って、泣き声を出した。 けれどもかれはわたしの手首をおさえて、土手を下りて往来へ出た。 「さあ、だいぶ休んだから、もう出かけるのだ」と、かれは言った。 わたしはぬけ出そうともがいたけれども、かれはしっかりわたしをおさえていた。 「さあカピ、ゼルビノ」と、かれは犬のほうを見ながら言った。 二ひきの犬がぴったりわたしにくっついた。カピは後ろに、ゼルビノは前に。 二足三足行くと、わたしはふり向いた。 わたしたちはもう坂の曲がり角を通りこした。もう谷も見えなければ家も見えなくなった。ただ遠いかなたに遠山がうすく青くかすんでいた。果てしもない空の中にわたしの目はあてどなく迷うのであった。
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