家なき子(上) |
春陽堂少年少女文庫、春陽堂 |
1978(昭和53)年1月30日 |
1978(昭和53)年1月30日 |
家なき子
SANS FAMILLE
(上)
マロ Malot
楠山正雄訳
生い立ち
わたしは捨て子だった。
でも八つの年まではほかの子どもと同じように、母親があると思っていた。それは、わたしが泣けばきっと一人の女が来て、優しくだきしめてくれたからだ。
その女がねかしつけに来てくれるまで、わたしはけっしてねどこにははいらなかった。冬のあらしがだんごのような雪をふきつけて窓ガラスを白くするじぶんになると、この女の人は両手の間にわたしの足をおさえて、歌を歌いながら暖めてくれた。その歌の節も文句も、いまに忘れずにいる。
わたしが外へ出て雌牛の世話をしているうち、急に夕立がやって来ると、この女はわたしを探しに来て、麻の前かけで頭からすっぽりくるんでくれた。
ときどきわたしは遊び仲間とけんかをする。そういうとき、この女の人はじゅうぶんわたしの言い分を聞いてくれて、たいていの場合、優しいことばでなぐさめてくれるか、わたしの肩をもってくれた。
それやこれやで、わたしに物を言う調子、わたしを見る目つき、あまやかしてくれて、しかるにしても優しくしかる様子から見て、この女の人はほんとうの母親にちがいないと思っていた。
ところでそれがひょんな事情から、この女の人が、じつは養い親でしかなかったということがわかったのだ。
わたしの村、もっと正しく言えばわたしの育てられた村は――というのが、わたしには父親や母親という者がないと同様に、自分の生まれた村というものがなかったのだから――で、とにかくわたしが子どもの時代を過ごした村は、シャヴァノンという村で、それはフランスの中部地方でもいちばんびんぼうな村の一つであった。
なにしろ土地がいたってやせていて、どうにもしようのない場所であった。どこを歩いてみても、すきくわのはいった田畑というものは少なくて、見わたすかぎりヒースやえにしだのほか、ろくにしげるもののない草原で、そのあれ地を行きつくすと、がさがさした砂地の高原で、風にふきたわめられたやせ木立ちが、所どころひょろひょろと、いじけてよじくれたえだをのばしているありさまだった。
そんなわけで、木らしい木を見ようとすると、丘を見捨てて谷間へと下りて行かねばならぬ。その谷川にのぞんだ川べりにはちょっとした牧草もあり、空をつくようなかしの木や、ごつごつしたくりの木がしげっていた。
その谷川の早い瀬の末がロアール川の支流の一つへ流れこんで行く、その岸の小さな家で、わたしは子どもの時代を送った。
八つの年まで、わたしはこの家で男の姿というものを見なかった。そのくせ、『おっかあ』と呼んでいた人はやもめではなかった。夫というのは石工であったが、このへんのたいていの労働者と同様パリへ仕事に行っていて、わたしが物心ついてこのかた、つい一度も帰って来たことはなかった。ただおりふしこの村へ帰って来る仲間の者に、便りをことづけては来た。
「バルブレンのおっかあ、こっちのもたっしゃだよ。相変わらずかせいでいる、よろしく言ってくれと言って、このお金を預けてよこした。数えてみてください」
これだけのことであった。おっかあも、それだけの便りで満足していた。ご亭主がたっしゃでいる、仕事もある、お金がもうかる――と、それだけ聞いて、満足していた。
このご亭主のバルブレンがいつまでもパリへ行っているというので、おかみさんと仲が悪いのだと思ってはならない。こうやって留守にしているのは、なにも気まずいことがあるためではない。パリに滞在しているのは仕事に引き留められているためで、やがて年を取ればまた村へ帰って来て、たんまりかせいで来たお金で、おかみさんと気楽にくらすつもりであった。
十一月のある日のこと、もう日のくれに、見知らない一人の男がかきねの前に立ち止まった。そのときわたしは、門口でそだを折っていた。中にはいろうともしないで、かきねの上からぬっと頭を出してのぞきながら、その男はわたしに、「バルブレンのおっかあのうちはここかね」とたずねた。
わたしは、「おはいんなさい」と言った。
男は門の戸をきいきい言わせながらはいって来て、のっそり、うちの前につっ立った。
こんなよごれくさった男を見たことがなかった。なにしろ、頭のてっぺんから足のつま先まで板を張ったようにどろをかぶっていた。それも半分まだかわききらずにいた。よほど長いあいだ、悪い道をやって来たにちがいない。
話し声を聞いて、バルブレンのおっかあはかけだして来た。そして、この男がしきいに足をかけようとするところへ、ひょっこり顔を出した。
「パリからことづかって来たが」と男は言った。
それはごくなんでもないことばだったし、もうこれまでも何べんとなく、それこそ耳にたこのできるほど聞き慣れたものだったが、どうもそれが『ご亭主はたっしゃでいるよ。相変わらずかせいでいるよ』という、いつものことばとは、なんだかちがっていた。
「おやおや。ジェロームがどうかしましたね」
と、おっかあは両手をもみながら声を立てた。
「ああ、ああ、どうもとんだことでね。ご亭主はけがをしてね。だが気を落としなさんなよ。けがはけがだが命には別状がない。だが、かたわぐらいにはなるかもしれない。いまのところ病院にはいっている。わたしはちょうど病室でとなり合わせて、今度国へ帰るについて、ついでにこれだけの事をことづけてくれとたのまれたのさ。ところで、ゆっくりしてはいられない。まだこれから三里(約十二キロ)も歩かなくてはならないし、もうおそくもなっているからね」
でもおっかあは、もっとくわしい話が開きたいので、ぜひ夕飯を食べて行くようにと言ってたのんだ。道は悪いし、森の中にはおおかみが出るといううわさもある。あしたの朝立つことにしたほうがいい。
男は承知してくれた。そこで炉のすみにすわりこんで、腹いっぱい食べながら、事件のくわしい話をした。バルブレンはくずれた足場の下にしかれて大けがをした。そのくせ、そこはだれも行く用事のない場所であったという証言があったので、建物の請負人は一文の賠償金もしはらわないというのである。
「ご亭主も気のどくな。運が悪かったのよ」
と、男は言った。
「まったく、運が悪かったのよ。世間にはわざとこんなことを種に、しこたませしめるずるい連中もあるのだが、おまえさんのご亭主ときては、一文にもならないのだからな」
「まったく運が悪い」と男はこのことばをくり返しながら、どろでつっぱり返っているズボンをかわかしていた。その口ぶりでは、手足の一本ぐらいたたきつぶされても、お金になればいいというらしかった。
「なんでもこれは、請負人を相手どって裁判所へ持ち出さなければうそだと、おれは勧めておいたよ」
男は話のしまいに、こう言った。
「まあ。でも裁判なんということは、ずいぶんお金の要ることでしょう」
「そうだよ。だが勝てばいいさ」
バルブレンのおっかあは、パリまで出かけて行こうかと思った。でも、それはずいぶんたいへんなことだった。道は遠いし、お金がかかる。
そのあくる朝、わたしは村へ行ってぼうさんに相談した。ぼうさんは、まあ向こうへ行って役に立つかどうか、それがよくわかったうえにしないと、つまらないと言った。それでぼうさんが代筆をして、バルブレンのはいっている慈恵病院の司祭にあてて、手紙を出すことにした。その返事は二、三日して着いたが、バルブレンのおっかあは来るにはおよばない、だが、ご亭主が災難を受けた相手にかけ合うについて、入費のお金を送ってもらいたいというのであった。
それからいく日もいく週間もたった。ときおり手紙が届いて、そのたんびにもっと金を送れ金を送れと言って来る。いちばんおしまいには、これまでの手紙よりまたひどくなって、もう金がないなら、雌牛のルセットを売っても、ぜひ金をこしらえろと言って来た。
いなかで百姓の仲間にはいってくらした者でなければ、『雌牛を売れ』というこのことばに、どんなにつらい、悲しい思いがこもっているかわからない。百姓にとって、雌牛のありがたさは、一とおりのものではなかった。いかほどびんぼうでも、家内が多くても、ともかくも雌牛が飼ってあるあいだは、飢えて死ぬことはないはずだ。
それにうちの雌牛は、なにより仲よしのお友だちであった。わたしたちが話をしたり、その背中をさすってキッスをしてやったりすると、それはよく聞き分けて、優しい目でじっと見た。つまりわたしたちはおたがいに愛し合っていたと言えば、それでじゅうぶんだ。
けれどもいまはその雌牛とも、わたしたちは別れなければならなかった。『雌牛を売る』それでなければ、もうご亭主を満足させることはできなかった。
そこでばくろう(馬売買の商人)がやって来て、細かく雌牛のルセットをいじくり回した。いじくり回しながらしじゅう首をふって、これはまるで役に立たない。乳も出ないしバターも取れないと、さんざんなんくせをつけておいて、つまり引き取るには引き取るが、それもおっかあが正直な、いい人で気のどくだから、引き取ってやるのだというのであった。
かわいそうに、ルセットも、自分がどうされるかさとったもののように、牛小屋から出るのをいやがって鳴き始めた。
「後ろへ回って、たたき出せ」とばくろうはわたしに言って、首の回りにかけていたむちをわたした。
「いいえ、そんなことをしてはいけない」とおっかあはさけんだ。
それでルセットのはづな(馬の口につけて引くつな)をつかまえながら、優しく言った。
「さあ、おまえ出ておくれ。ねえ、いいかい」
ルセットはそれをこばむことができなかった。それで往来へ出ると、ばくろうはルセットを車の後ろにしばりつけた。馬がとことこかけだすと、ルセットはいやでもあとからついて行かなければならなかった。
わたしたちはうちの中にはいったが、しばらくのあいだまだルセットの鳴き声が聞こえていた。
もう乳もなければバターもない。朝は一きれのパン、晩は塩をつけたじゃがいものごちそうであった。
雌牛を売ってから四、五日すると、謝肉祭が来た。一年まえのこの日には、バルブレンのおっかあが、わたしにどら焼きと揚げりんごのごちそうをこしらえてくれた。それでたくさんわたしが食べると、おっかあはごきげんで、にこにこしてくれた。
けれどそのときは揚げ物の衣がパン粉をとかす乳や、揚げ物の油のバターをくれるルセットがいた。
もうルセットもいない、乳もない、バターもない、これでは、謝肉祭もなにもないと、わたしはつまらなそうに独り言を言った。
ところがおっかあはわたしをびっくりさせた。おっかあはいつも人から物を借りることをしない人ではあったが、おとなりへ行って乳を一ぱいもらい、もう一けんからバターを一かたまりもらって来て、わたしがお昼ごろうちへ帰って来ると、おっかあは大きな土なべにパン粉をあけていた。
「おや、パン粉」とわたしはそばへ寄って言った。
「ああ、そうだよ」と、おっかあはにっこりしながら答えた。「上等なパン粉だよ、ご覧、ルミ、いいかおりだろう」
わたしはこのパン粉をなんにするのか知りたいと思ったが、それをおしてたずねる勇気がなかった。それにきょうが謝肉祭だということを思い出させて、おっかあをふゆかいにさせたくなかった。
「パン粉でなにをこさえるのだったけね」とおっかあはわたしの顔を見ながら聞いた。
「パンさ」
「それからほかには」
「パンがゆ」
「それからまだあるだろう」
「だって……ぼく知らないや」
「なあに、おまえは知っていても、かしこい子だからそれを言おうとしないのだよ。きょうが謝肉祭で、どら焼きをこしらえる日だということを知っていても、バターとお乳がないと思って、言いださずにいるのだよ。ねえ、そうだろう」
「だって、おっかあ」
「まあとにかく、きょうのせっかくの謝肉祭を、そんなにつまらなくないようにしたつもりだよ。このはこの中をご覧」
わたしはさっそくふたをあけると、乳とバターと卵と、おまけにりんごが三つ、中にはいっていた。
わたしがりんごをそぐ(小さく切る)と、おっかあは卵を粉に混ぜて衣をしらえ、乳を少しずつ混ぜていた。
衣がすっかり練れると、土なべのまま、熱灰の上にのせた。それでどら焼きが焼け、揚げりんごが揚がるまでには、晩食のときまで待たなければならなかった。正直に言うと、わたしはそれからの一日が、それはそれは待ち遠しくって、何度も、何度も、おさらにかけた布を取ってみた。
「おまえ、衣にかぜをひかしてしまうよ。そうするとうまくふくれないからね」とかの女はさけんだ。けれど、言うそばからそれはずんずんふくれて、小さなあわが上に立ち始めた。卵と乳がぷんとうまそうなにおいを立てた。
「そだを少し持っておいで」とおっかあが言った。「いい火をこしらえよう」
とうとう明かりがついた。
「まきを炉の中へお入れ」
かの女がこのことばを二度とくり返すまでもなく、わたしはさっきからこのことばの出るのをいまかいまかと待ちかまえていたのであった。さっそく赤いほのおがどんどん炉の中に燃え上がり、この光が台所じゅうを明るくした。
そのときおっかあは、揚げなべをくぎから外して火の上にのせた。
「バターをお出し」
ナイフの先でかの女はバターをくるみくらいの大きさに一きれ切ってなべの中へ入れると、じりじりとけ出してあわを立てた。
もうしばらくこのにおいもかがなかった。まあ、そのバターのいいにおいといったら。
わたしがそのじりじりこげるあまい音楽にむちゅうで聞きほれていたとき、裏庭でこつこつ人の歩く足音がした。
せっかくのときにだれがじゃまに来たのだろう。きっとおとなりからまきをもらいに来たのだ。
わたしはそんなことに気を取られるどころではなかった。ちょうどそのときバルブレンのおっかあが、大きな木のさじをはちに入れて、衣を一さじ、おなべの中にあけていたのだもの。
するとだれかつえでことことドアをたたいた。ばたんと戸が開け放された。
「どなただね」とおっかあはふり向きもしないでたずねた。
一人の男がぬっとはいって来た。明るい火の光で、わたしはその男が大きなつえを片わきについているのを見つけた。
「やれやれ、祭りのごちそうか。まあ、やるがいい」とその男はがさつな声で言った。
「おやおやまあ」とバルブレンのおっかあが、あわててさげなべを下に置いてさけんだ。
「まあジェローム、おまえさんだったの」
そのときおっかあはわたしのうでを引っ張って、戸口に立ちはだかったままでいた男の前へ連れて行った。
「おまえのとっつぁんだよ」