二
さておばあさんが出て行ってしまうと、坊さんはただ一人、しばらくはつくねんと炉端に座ったままおばあさんの帰りを待っていましたが、じき帰ると思ったおばあさんはなかなか帰って来ません。何しろ西も東も分からない原中の一軒家に一人ぼっちとり残されたのですから、心細さも心細いし、だんだん心配になってきました。何でも安達が原の黒塚には鬼が住んでいて人を取って食うそうだなどという、旅の間にふと小耳にはさんだうわさを急に思い出すと、体中の毛穴がぞっと一時に立つように思いました。そういえばこんな寂しい原中におばあさんが一人住んでいるというのもおかしいし、さっき出がけに、妙なことをいって度々念を押して行ったが、もしやこの家が鬼のすみかなのではないかしらん。いったい「見るな。」といった次の間には何があるのか知らん。こう思うと、こわさはこわいし、気にはなるし、だんだんじっとして辛抱していられなくなりました。それでもあれほど固く「見るな。」といわれたものを見ては、なおさらどんな災難があるかもしれません。
坊さんはしばらく見ようか、見まいか、立ったり座ったり迷っていましたが、おばあさんはやっぱり帰って来ないので、とうとう思いきって、そっと立って行って、次の間のふすまをあけました。
すると坊さんは驚いたの、驚かないのではありません。あけるといっしょに中からぷんと血なまぐさいにおいが立って、人間の死骸らしいものが天井まで高く積み重ねてありました。そしてくずれてどろどろになった肉が血といっしょに流れ出していました。
坊さんは「あっ。」といったなり、しばらく腰を抜かして目ばかり白黒させたまま起き上がることもできませんでした。そのうちふと気がつくと、これこそ話にきいた一つ家の鬼だ、ぐずぐずしているととんでもないことになると思って、あわててわらじのひもを結ぶひまもなく逃げ出そうとしました。けれども今にもうしろから鬼婆に襟首をつかまれそうな気がして、気ばかりわくわくして、腰がわなわなふるえるので、足が一向に進みません。それでもころんだり、起きたり、めくらめっぽうに原の中を駆け出して行きますと、ものの五六町も行かないうちに、暗やみの中で、
「おうい、おうい。」
と呼ぶ声がしました。
その声を聞くと、坊さんは、さてこそ鬼婆が追っかけて来たとがたがたふるえながら、耳をふさいでどんどん駆け出して行きました。そして心の中で悪鬼除けの呪文を一生懸命唱えていました。そのうち、
「おうい待て、おうい待て。」
と呼ぶ鬼婆の声がずんずん近くなって、やがておこった声で、
「やい、坊主め、あれほど見るなといった部屋をなぜ見たのだ。逃げたって逃がしはしないぞ。」
というのが、手にとるように聞こえるので、坊さんはもういよいよ絶体絶命とかくごをきめて、一心にお経を唱えながら、走れるだけ走って行きました。
すると、お経の功徳でしょうか、もうそろそろ夜が明けかかってきたので、鬼もこわくなったのでしょうか、鬼の足がだんだんのろくなって、もうよほど間が遠くなりました。そのうちずんずん空は明るくなってきて、東の空が薄赤く染まってくると、どこかの村で鶏の鳴き立てる声がいさましく聞こえました。
もう夜が明けてしまえばしめたものです。鬼は真昼の光にあってはいくじのないものですから、うらめしそうに、しばらくは、旅僧のうしろ姿を遠くからながめていましたが、ふいと姿が消えて見えなくなりました。
坊さんはそのうち人里に出て、ほっと一息つきました。そして花やかにさし昇った朝日に向かって手を合わせました。
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