七年を夢に入れとや水の音
と吟みけるに、翁はこれを何とか読み変へて見たり。翁未だ壮年の勇気を喪はざれど、生年限りあれば、かねて存命に石碑を建つるの志あり、我が来るを待ちて文を属せしめんとの意を陳ければ、我は快よく之を諾しぬ、又た彼の多年苦心して集めし義太夫本、我を得て沈滅の憂ひなきを喜び、其没後には悉皆我に贈らんと言ひければ、我は其好意に感泣しぬ。翁の秀逸一二を挙ぐれば、
夢いくつさまして来しぞほとゝぎす
こゝに寝む花の吹雪に埋むまで
なほ名吟の数多くあり、我他日、翁の為に輯集の労を取らんことを期す。この夜、翁の請に応じて即吟、白扇に題したる我句は、
越えて来て又一峰や月のあと
暁天の白むまで眠り得ず、翌朝日闌けて起き出でたるは、いつの間にか明方の熟睡に入りたりしと覚ゆ。蒼海遂に来らねば、老侠と我と車を双べて我幻境の門を出づ、この時老婆は呉々も我再遊の前の如く長からざるべきを請ふに、この秋再びと契りて別れたり。行くところは高雄山。同伴はおもしろし、別して月も宵にはあるべし、この夜の清興を思へば、涼風盈ちて車上にあり。
(下)
むかしわれ蒼海と同に彼幻境に隠れしころ、山に入りて炭焼、薪木樵の業を助くるをこよなき漫興となせしが、又た或時は彼家の老婆に破衣を借りて、身をやつしつ炭売車の後に尾きて、この市に出づるをも楽しみき。
斯る無邪気の労力をもて我はわが胸中に蟠りたる不平を抑へつ、疲れて帰る夜の麦飯の味、今に忘れず、老畸人わが往事を説きて大に笑ふ時、われは頭を垂れて冥想す。昔日のわが不平、幽鬼の如くにわが背後に立ちて呵々とうち笑ふ。遮莫、わがルーソー、ボルテイアの輩に欺かれ了らず、又た新聞紙々面大の小天地に
翔して、局促たる政治界の傀儡子となり畢ることもなく、己が夙昔の不平は転じて限りなき満足となり、此満足したる眼を以て蛙飛ぶ古池を眺る身となりしこそ、幸ひなれ。
余は八王子に一泊するを好まざりしと雖、老人の意見枉げ難く止むことを得ずして、俗気都にも増せる市塵の中に一夜を過せり。明くれば早暁覊亭を出で、馬車に投じて高雄山に向ふ、この時のわが口占は、
すゞ風や高雄まうでの朝まだち
路に梭の音の高く聞ゆる家ありければ眼を転じて見るに、花の如き少女ありて杼を用ゆること甚だ忙はし、わが蓬莱曲の露姫が事を思ひ出でゝなつかしければ、能く其面を見んとするに、馬車は行き過ぎてその事かなはず、彼少女が
の外におもしろき花の咲けるに心づきて、其名を問へば、鋸草なりと言に、少女の風流思ひやられて、句一つ読みたれども難あれば載せず。
琵琶滝より流れ落つる水のほとりの茶亭にて馬車に別れ、これより登り三十八丁、といふも霊山の路は遠からず。道すがら巣林子の曲を評しあひ、治兵衛梅川などわが老畸人の得意の節おもしろく間拍子とるに歩行も苦しからず、蛇の滝をも一見せばやと思しが、そこへも下ず巌角に憩て、清々冷々の玄風を迎へ、体静に心閑にして、冥思を自然の絶奥に馳せて、聊か平生の煩羅を洗ふ。幽山に登の興は登つきたる時にあらず、荒榛を披き、峭※[#「山+咢」、98-下-12]を陟る間にあるなり、栄達は羨むべきにあらず、栄達を得るに至るまでの盤紆こそ、まことに欽すべきものなるべし。
頂上にのぼり尽きたるは真午の頃かとぞ覚えし、憩所の涼台を借り得て、老畸人と共に縦まゝに睡魔を飽かせ、山鶯の声に驚かさるゝまでは天狗と羽を并べて、象外に遊ぶの夢に余念なかりき。
この山に鶯の春いつまでぞ
とはわがねぼけながらの句なり。老畸人も亦たむかしの豪遊の夢をや繰り返しけむ、くさめ一つして起き上たれば、冷水に喉を湿るほし、眺めあかぬ玄境にいとま乞して山を降れり。
琵琶滝を過ぎ、かねて聞く狂人の様を一見し、かつは己れも平生の風狂を療治せばやの願ありければ、折れて其処に下るに、聞きしに違はず男女の狂人の態、見るもなか/\に凄くあはれなり。そが中には家を理するの良妻もあるべく、業に励むの良工もあるべし、恋のもつれに乱れ髪の少女もあらむ、逆想に凝りて世を忘れたる小ハムレットもあらむ。
われを見ていづれより来ませしぞと問ひかけたる少年こそは、狂ひて未だ日浅き田里の秀才と覚えたり、世間真面目の人、真面目の言を吐かず、却つてこの狂秀才の言語、尤も真意を吐露すらし。われは極めて狂人に同情を有するものなり、かつて狂者それがしの枕頭にあること三日、己れも之に感染するばかりになりて堪へがたかりし事ありしが、今も我は狂人と共に長く留まる事能はず。琵琶滝はさすがに霊瀑なり、神々しきこと比類多からず、高巌三面を囲んで昼なほ暗らく、深々として鬼洞に入るの思ひあり、いかなる神人ぞ、この上に盤桓してこの琵琶の音をなすや、こゝに来てこの瀑にうたれて世に立ち帰る人の多きも、理とこそ覚ゆるなれ、われは迷信とのみ言ひて笑ふこと能はず。
こゝを立ち去りてなほ降るに、ひぐらしの声涼しく聞えたれば、
日ぐらしの声の底から岩清水
この夜は山麓の覊亭に一泊し、あくる朝連立て蒼海を其居村に訪ひ、三個再び百草園に遊びたることあれど、記行文書きて己れの遊興を得意顔に書き立つること平生好まぬところなれば、こゝにて筆を擱しぬ。
(明治二十五年八月)
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