現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集 |
筑摩書房 |
1974(昭和44)年6月5日 |
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷 |
1977(昭和52)年4月20日初版第7刷 |
人間は到底枯燥したるものにあらず。宇宙は到底無味の者にあらず。一輪の花も詳に之を察すれば、万古の思あるべし。造化は常久不変なれども、之に対する人間の心は千々に異なるなり。
造化は不変なり、然れども之に対する人間の心の異なるに因つて、造化も亦た其趣を変ゆるなり。仏教的厭世詩家の観たる造化は、悉く無常的厭世的なり。基督教的楽天詩家の観たる造化は、悉く有望的楽天的なり、彼を非とし、此を是とするは余が今日の題目にあらず。夫れ斯の如く変化なき造化を、斯の如く変化ある者とするもの、果して人間の心なりとせば、吾人豈人間の心を研究することを苟且にして可ならんや。
造化は人間を支配す、然れども人間も亦た造化を支配す、人間の中に存する自由の精神は造化に黙従するを肯ぜざるなり。造化の権は大なり、然れども人間の自由も亦た大なり。人間豈に造化に帰合するのみを以て満足することを得べけんや。然れども造化も亦た宇宙の精神の一発表なり、神の形の象顕なり、その中に至大至粋の美を籠むることあるは疑ふべからざる事実なり、之に対して人間の心が自からに畏敬の念を発し、自からに精神的の経験を生ずるは、豈不当なることならんや、此塲合に於て、吾人と雖、聊か万有的趣味を持たざるにあらず。
人間果して生命を持てる者なりや、生命といふは、この五十年の人生を指して言ふにあらざるなり、謂ふ所の生命の泉源なるものは、果して吾人々類の享有する者なりや。この疑問は人の常に思ひ至るところにして、而して人の常に軽んずる所なり、五十年の事を経綸するは、到底五十年の事を経綸せざるに若かざるなり、明日あるを知らずして今日の事を計るは、到底真に今日の事を計るものにあらざるなり、五十年の人生の為に五十年の計を為すは、如何に其計の大に、密に、妙に、精にあるとも、到底其計なきに若かざるなり。二十五年を労作に費し、他の二十五年を逸楽に費やすとせば、極めて面白き方寸なるべし、人間の多数は斯の如き夢を見て、消光するなり、然れども実際世界は決して斯の如き夢想を容るゝの余地を備へず。我が心われに告ぐるに、五十年の人生の外はすべて夢なりといふを以てせば、我は寧ろ勤労を廃し、事業を廃し、逸楽晏眠を以て残生を送るべきのみ。
吾人は人間に生命ある事を信ずる者なり。今日の思想界は仏教思想と耶教思想との間に於ける競争なりと云ふより、寧ろ生命思想と不生命思想との戦争なりと云ふを可とす。吾人が思想界に向つて微力を献ぜんと欲することは、耶蘇教の用語を以て仏教の用語を奪はんとするにあらず、耶蘇教の文明(外部の)を以て仏教の文明を仆さんとするにあらず、耶蘇教の智識を以て仏教の智識を破らんとするにあらず、吾人は生命思想を以て不生命思想を滅せんとするものなり、彼の用語の如き、彼の文明の如き、彼の学芸の如き、是等外部の物は、自然の陶汰を以て自然の進化を経べきなり、吾人の関する所爰にあらず、生命と不生命、之れ即ち東西思想の大衝突なり。
つら/\明治世界の思想界に於て、新領地を開拓したる耶教一派の先輩の事業の跡を尋ぬるに、宗教上の言葉にて、謂ふ所の生命の木なるものを人間の心の中に植ゑ付けたる外に、彼等は何の事業をか成さんや。洋服を着用し、高帽子を冠ることは思想界の人を労せずして、自然に之を為すなり。凡そ外部の文明を補益することは、何ぞ思想界の達士を煩はすことを要せんや。外部の文明は内部の文明の反影なり、而して東西二大文明の要素は、生命を教ふるの宗教あると、生命を教ふる宗教なきとの差異あるのみ。優勝劣敗の由つて起るところ、茲に存せずんばあらざるなり。平民的道徳の率先者も、社会改良の先覚者も、政治的自由の唱道者も、誰か斯民に生命を教ふる者ならざらんや、誰れか斯民に明日あるを知らしむる者にあらざらんや。誰か斯民に数々々として今日にのみ之れ控捉せらるゝを警醒するものにあらざらんや。宗教としての宗教、彼れ何物ぞや、哲学としての哲学、彼れ何物ぞや、宗教を説かざるも生命を説かば、既に立派なる宗教にあらずや、哲学を談ぜざるも生命を談ぜば、既に立派なる哲学にあらずや、生命を知らずして信仰を知る者ありや、信仰を知らずして道徳を知る者ありや、生命を教ふるの外に、道徳なるものゝ泉源ありや、凡そ生命を教ふる者は、既に功利派にあらざるなり、凡そ生命を伝ふる者は、既に瞹眛派にあらざるなり、凡そ生命を知るものは、既に高蹈派にあらざるなり、危言流行の今日、世人自から惑ふこと勿らんことを願ふなり。
吾人をして去て文芸上に於ける生命の動機を論ぜしめよ。
文芸は宗教若くは哲学の如く正面より生命を説くを要せざるなり、又た能はざるなり。文芸は思想と美術とを抱合したる者にして、思想ありとも美術なくんば既に文芸にあらず、美術ありとも思想なくんば既に文芸にあらず、華文妙辞のみにては文芸の上乗に達し難く、左りとて思想のみにては決して文芸といふこと能はざるなり、此点に於て吾人は非文学党の非文学見に同意すること能はず。先覚者は知らず、末派のポジチビズムに於て、文学をポジチーブの事業とするの余りに、清教徒の誤謬を繰返さんとするに至らんことを恐るゝなり。
戯文世界の文学は、価値ある思想を含有せし者にあらざること、吾人と雖、之を視ざるにあらず、然れども戯文は戯文なり、何ぞ特更に之を以て今の文学を責むるの要あらんや。吾人を以て之を見れば、過去の戯文が、華文妙辞にのみ失したるは、華文妙辞の罪にあらずして、文学の中に生命を説くの途を備へざりしが故なり、請ふ、少しく徳川氏の美文学に就きて、之を言はしめよ。
すべての倫理道徳は必らず、多少、人間の生命に関係ある者なり。人間の生命に関係多きものは人間を益する事多き者にして、人間の生命に関係少なき者は、人間を益する事少なき者なり。徳川氏の時代にあつて、最も人間の生命に近かりしものは儒教道徳なりしこと、何人も之を疑はざるべし。然れども儒教道徳は実際的道徳にして、未だ以て全く人間の生命を教へ尽したるものとは言ふべからず。繁雑なる礼法を設け、種々なる儀式を備ふるも、到底 Formality に陥るを免かれざりしなり、到底貴族的に流るゝを免かれざりしなり、之を要するに其の教ふる処が、人間の根本の生命の絃に触れざりければなり。其時代に於ける所謂美文学なるものを観察するに至りては、吾人更に其の甚しきを見る、人間の生命の根本を愚弄すること彼等の如くなるは、吾人の常に痛惜する処なり。彼等は儀式的に流れたる、儒教道徳をさへ備へたるもの稀なり。彼等の多くは、卑下なる人情の写実家なり。人間の生命なるものは彼等に於ては、諧謔を逞ふすべき目的物たるに過ぎざりしなり、彼等は愛情を描けり、然れども彼等は愛情を尽さゞりしなり、彼等の筆に上りたる愛情は肉情的愛情のみなりしなり、肉情よりして恋愛に入るより外には、愛情を説くの道なかりしなり、プラトーの愛情も、ダンテの愛情も、バイロンの愛情も、彼等には夢想だもすること能はざりしなり。彼等は忠孝を説けり、然れども彼等の忠孝は、寧ろ忠孝の教理あるが故に忠孝あるを説きしのみ、今日の僻論家が敕語あるが故に忠孝を説かんとすると大差なきなり、彼等は人間の根本の生命よりして忠孝を説くこと能はざりしなり。彼等は節義を説けり、善悪を説けり、然れども彼等の節義も、彼等の善悪も、寧ろ人形を并べたるものにして、人間の根本の生命の絃に触れたる者にあらざるなり。謂ふ所の勧善懲悪なるものも、斯る者が善なり、斯るものが悪なりと定めて、之に対する勧懲を加へんとしたる者にして、未だ以て真正の勧懲なりと云ふ可からず。真正の勧懲は心の経験の上に立たざるべからず、即ち内部の生命の上に立たざるべからず、故に内部の生命を認めざる勧懲主義は、到底真正の勧懲なりと云ふべからざるなり。彼等は世道人心を説けり、為すあるが為めに文を草すべきを説けり、世を益するが為めに文を草すべきを説けり、然れども彼等の世道人心主義も、到底偏狭なるポジチビズムの誤謬を免かれざりしなり、未だ根本の生命を知らずして、世道人心を益するの正鵠を得るものあらず。要するに彼等の誤謬は、人間の根本の生命を認めざりしに因するものなり、読者よ、吾人が五十年の人生に重きを置かずして、人間の根本の生命を尋ぬるを責むる勿れ、読者よ、吾人が眼に見うる的の事業に心を注がずして、人間の根本の生命を暗索するものを重んぜんとするを責むる勿れ、読者よ、吾人の中に或は唯心的に傾き、或は万有的に傾むくものあるを責むる勿れ、吾人は人間の根本の生命に重きを置かんとするものなり、而して吾人が不肖を顧みずして、明治文学に微力を献ぜんとするは、此範囲の中にあることを記憶せられよ。
明治の思想は大革命を経ざるべからず、貴族的思想を打破して、平民的思想を創興せざるべからず、吾人が敬愛する先輩思想家にして既に大に此般の事業に鉄腕を振ひたるものあり、吾人が若少の身分を以て是より進まんとするもの、豈に彼等の既に進みたる途に外れんや、吾人豈に人情以外に出でゝベベルの高塔を築かんとする者ならんや、若し夫れ人間の根本の生命を尋ねて、或は平民的道徳を教へ、或は社会的改良を図る者をしも、ベベルの高塔を砂丘に築くものなりと言ふを得ば、吾人も亦たベベルの高塔を築かんとする人足の一人たるを甘んぜんのみ。
文芸は論議にあらざること、幾度言ふとも同じ事なり。論議の範囲に於て、根本の生命を伝へんとするは、論議の筆を握れる者の任なり、文芸(純文学と言ふも宜し)の範囲に於て、根本の生命を伝へんとするは、文芸に従事するものゝ任なり。純文学は論議をせず、故に純文学なるもの無し、と言はゞ誰か其の極端なるを笑はざらんや。論議の範囲に於て、善悪を説くは、正面に之を談ずるなり。文芸の範囲に於て善悪を説くは、裡面より之を談ずるなり。
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