現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集 |
筑摩書房 |
1974(昭和44)年6月5日 |
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷 |
1977(昭和52)年4月20日初版第7刷 |
(第一)
焉馬、三馬、源内、一九等の著書を読む時に、われは必らず彼等の中に潜める一種の平民的虚無思想の絃に触るゝ思あり。就中一九の著書「膝栗毛」に対してしかく感ずるなり。戯文戯墨の毒弊は世俗の衆盲を顛堕せしのみかは、作者自身等をも顛堕し去んぬ。然れども其罪は之を独り作者に帰すべきにあらず。当時の時代、豈作者の筆頭を借りて、其陋醜を遺存せしものにあらずとせんや。
徳川氏の封建制度は世界に於て完全なるものゝ一と称せらる、然れども武門の栄華は平民に取りて幸福を剥脱する秋霜なり、盆水一方に高ければ、他方に低からざるを得ず、権力の積畳せし武門に自からなる腐爛生じ、而して平民社界も亦た敗壊し終れり、一方は盛栄の余に廃れ、他方は失望の極に陥落せしなり、自然の結果ほど恐るべきものはあらじ。
道徳の府なる儒学も、平民の門を叩くことは稀なりし、高等民種の中にすら局促たる繩墨の覊絆を脱するに足るべき活気ある儒学に入ることを許さゞりしなり。精神的修養の道、一として平民を崇むるに適するものあらず、偶、俳道の普及は以て彼等を死地に救済せんとしけるも、彼等は自ら其粋美を蹴棄したり。
禅味飄逸なる仏教は屈曲して彼等の内に入れり。彼等は神道家の如くに皇室を敬崇することを得ず、孔教を奉じて徳性を育助することも能はず、左ればとて幽玄なる仏界の菩薩に近づく事も、彼等の為し得るところにあらず、悲しいかな仏教の中にも卑近なる教派のみ彼等の友となり、迷信は彼等を禁籠する囚宰となり、弱志弱意は彼等を枯死せしむる荒野となり、彼等をして人間の霊性を放擲して、自ら甘んじて眼前の権勢に屈従せしむるに至りぬ。
自由は人間天賦の霊性の一なり。極めて自然なる願欲の一なり。然るに彼等は呱々の声の中より既にこの霊性を喪へるを自識せざる可らざる運命に抱かれてありたり、自然なる願欲は抑へて、不自然なる屈従を学ばざる可らざるタイムの籠に投げられてありたり。人誰れか全くタイムの籠に控縛せらるゝを心地よしとするものあらむ、人誰れか天賦の霊性を自殺せしむべき運命を幸福なりとするものあらん。沙翁、人間に斯般の一種の煩悶の抜く可からざるものあるを見て、通解して謂へらく、
For who would bear the whips and scorns of time,
The oppressor's wrong, the proud man's contumely, etc.
まことに人間は自由を享有すべき者なるよ。今日までの歴史を細閲すれば、自由を買はんとて流せし血の価と煩悶せし苦痛の量とはいかばかりぞや。
And thus the native hue of resolution
Is sicklied o'er with the pale cast of thought ; etc.
徳川氏末世の平民、実にこの煩悶を有つこと少なからざりしなり、この煩悶の苦痛に堪へがたかりしなり、こゝに於てか権勢家の剛愎にして暴慢なる制抑を離れて、別に一種の思想境を造り、以て自ら縦にするところなきを得ず。この思想境は余が所謂一種の平民的虚無思想の聚成したるところなり。而して十返舎一流の戯墨は実に、この種の思想境より外に鳴り出でたる平民者流の自然の声にあらずして何ぞや。
民友子先つ頃「俗間の歌謡」と題する一文を作りて、平民社界に行はるゝ音楽の調子の低くして険なるを説きぬ。民友子は時勢を洞察して、歎慨の余りに此語を吐けり、われは日本の文学史に対してこの一種の虚無思想の領地の広きを見て、痛惻に勝へざるなり、彼等は高妙なる趣致ある道徳を其門に辞み、韻調の整厳なる管絃を謝して容れず、卑野なる楽詞を以て飲宴の興を補ひ、放縦なる諧謔を以て人生を醜殺す。三絃の流行は彼等の中に証をなせり、義太夫常磐津より以下短歌長歌こと/″\く立ちて之れが見証者たるなるべし。われは彼等の無政府主義なりしや極端なる共和主義なりしや否やを知らず、然れども政治上に於て無政府主義ならずとも、共和主義ならずとも、思想上に於ては彼等は純然たる虚無思想を胎生したりしことを疑はず、あはれむべし人生の霊存を頭より尾まで茶にしてかゝりたる十返舎も、一個の傲骨男児なりしにあらずや、青山を抱いて自由の気を賦せしシルレルと、我好傲骨男子と、其揺籠の中にありし時の距離何ぞや。
女学子は時勢に激するところありて「膝栗毛」の版を火かんと言り。われは女学子の社界改良の熱情に一方ならぬ同情を有つものなり。然れどもわれは寧ろ十返舎の為に泣ざるを得ざる悲痛あり、彼の如き豪逸なる資性を以て、彼の如きゼヌインのウイットを以て、而して彼の如くに無無無の陋巷に迷ひ、無無無の奇語を吐き、無無無の文字を弄して、遂に無無無の代表者となつて終らしめたるもの、抑も時代の罪にあらずして何ぞや。
(本論は次号にうつりて、我が畏敬する天知子と愛山生の両兄によりて評論界を騒がしたる「遊侠」の問題に入り、更に「粋」といふ題目に進みて卑見を吐露すべし。)
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