現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集 |
筑摩書房 |
1969(昭和44)年6月5日 |
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷 |
1988(昭和63)年7月25日初版第15刷 |
其一 旅心
暫らく都門熱閙の地を離れて、身を閑寂たる漁村に投ず。これ風流韻事の旅にあらず。自から素性を養ひて、心神の快を取らんとてなり。わが生、素と虚弱、加ふるに少歳、生を軽うして身を傷りてより、功名念絶えて唯だ好む所に従ふを事とす。不幸にして籍を文園に投じ、猜忌の境に身をめり。斯の如きは素願にあらず、希くは名もなく誉もなき村人の中に交りて、わが「真村」をその幽囚より救はんか。
其二 夏休
天の炎暑を司る、必らずしも人を苦しむるのみにあらず。居常唯だ書籍に埋もれ、味なき哲理に身を呑まれて、徒らに遠路に喘ぐものをして、忽焉、造化の秘蔵の巻に向ひ不可思議の妙理を豁破せしむるもの、夏の休息あればなり。学校より帰る人は、久しく疎遠なりし父兄の情を温め、官省の職務より離るゝものは、家を携へて適好の閑を消す、斯くの如きは夏の恩恵なり。ひとり文界の浪士のみ之を占むるにあらず、無名の詩人、無文の歌客、こゝやかしこにさまよふめり。
其三 村家
わが来り投ぜしところは、都門を離るゝ事遠からずと雖、又た以て幽栖の情を語るに足るべし。これ唯だ海辺の一漁村、人烟稀にして家少なく、数屋の茅檐、燕来往し、一匹の小犬全里を護る。濤声松林を洩れて襲ひ、海風清砂を渡つて来る。童子の背は渋を引きたる紙の如く黒く、少娘の嬌は半躰を裸らわして外出するによりて損せず。雄鶏昼鳴いて村叟の眠を覚さず、野雀軒に戯れて児童の之を追ふものなし。前家に碓舂の音を聴き、後屋に捉績の響を聞く。人朴にして笑語高く、食足りて歓楽多し。都城繁労の人を羨む勿れ、人間縦心の境は爾にあり。
其四 暁起
一鴉鳴き過ぎて、何心ぞ、我を攪破する。忽ち悟る人間十年の事、都べて非なるを。指を屈すれば友輩幾個白骨に化し、壮歳久しく停まらざらんとす。逝く者は逐ふ可からず。来る者は未だ頼み難し。友を憶へば零落の人、親を思へば遠境にあり。寝を出て襟を正して端然として坐す。この身功名の為に生れず、又た濃情の為に生れず、筆硯を顧みて暫らく撫然たり。
其五 乞食
天の人に対する何ぞ厚薄あらん。富めるもの驕る可からず、貧しきもの何ぞ自ら愧づるを須ひん。額上の汗は天与の黄金、一粒の米は之れ一粒の玉、何ぞ金殿玉楼の人を羨まむ。唯だ憫れむべきは食を乞ふの人。天の彼を罰するか、彼の自ら罰するか、韓郎の古事、世に期し難く、靖節の幽意、人の悟ることなし。
夕陽西に傾いて戸々の炊烟漸く上るの時、一群の村童、奇異の旅客を纏ふて来る。只だ見る粗造の木車一輛、之を挽くものは五十に余れる老爺、之に乗るものは、十歳ばかりも他に増さるべし、乗るものは小鼓を打つて題目を誦し、挽くものは家に就いて喜捨を仰ぐ。髪は霜に打たれし蓬の如く、衣は垢に塗れて臭気高し。われは爾時、晩食を喫了して戸外に出で、涼を納れて散策す。此の躰を見て惆悵として去る能はず、熟視すれば乗者の衣は三紋の、あはれ昔時を忍ぶ会津武士、脚は破衣を脱して露はるゝところ銃創を印し、眼は空しく開けども明を見ず。側目して両者を視れば、むかしながらの義は堅く、主の車を推して主の食を乞ひ、はる/″\と西国の霊塲に詣づるものと覚えたり。吁、当年豪雄の戦士、官軍を悩まし奥州の気運を支へたりし快男子、今は即ち落魄して主従唯だ二個、異境に彷徨して漁童の嘲罵に遭ふ。然も主は僕を捨てず、僕は主を離れず、木車一輛、山海を越えて百里の外に旅す。讃むべきかな会津武士、この気節を以て而して斯の如し、深く人間を学ぶに堪えたり。蝉羽子悄然として立つこと少時、渠を招きて与に車を推し、之を小亭に引きて飯を命じ、鮮魚を宰して食はしめ、未だ言を交ゆる事多からず、其の旧事を回想せしめん事を恐るればなり。われ先づ去る、去る時語なく、無限の情あり。
其六 海浴
酒にあらず、色にあらず、人生憂を鎖するの途、豈少なからんや。炎熱焦くが如く樹葉皆な下垂するの時、海に下りて衣を脱すれば涼気先づ来る。浪高く小砂を転じ、忽ち捲いて忽ち落つ、之れを見て快意そゞろに生じ、身を飜して浪上にのぼれば、自から虚舟の思あり。手を抜いて躰を進むるに心甚だ壮なり。濤声うしろに響いて気更に昂り、疲倦するまで還るを忘る。惜しいかな旅嚢バイロンの詩集を携へず、その游泳の歌をこの浪上に吟ずるを得ざるを。
其七 初月
黄昏家を出で、暫らく水際に歩して還た田辺に迷ふ。螢火漸く薄くして稲苗将に長ぜんとす。涼風葉を揺かして湲水音を和し、村歌起るところに機杼を聴く。初月楚々として西天に懸り、群星更に光甚を争ふ。夐に濤声を聴くは楽を奏するを疑ひ、仰いで天上を視れば画を展ぶるが如し。歩々人境を離れて天景に赴く、人間この味あり、曷んぞ促々として功名の奴とならむ。
其八 憶友
都を出る時、友ありて病に臥す。彼は堅実の一学生、学成りて躰茲に弱し、病を得て数月未だ愈ゆるに及ばず、痩癈せば遂に如何。われ尤も之を憶ふ。
都を出る時、遠く西方に旅する友と約するあり、東海道の某地を卜して相会見せんとす、期する日は明後、彼は西より来り、我は東よりせん、相見る時、情奈何。われ尤も之を憶ふ。
之を憶ふに、一は悲しく、一は楽し、「悲楽」本来何者ぞ。縦に我が心胸に鑿入して、わが「意志」の命を仰がず。
其九 晩食
詩客元来淡菜を愛す。酢味糟あらば、と吟じたる俳客の意、自から分明なり。爰に鮮魚あり、又た鮮蔬あり、都城の豊肉何ぞ思ひ願ふことを要せむ。市ヶ谷の詩人、今如何。「三籟」紙面の趣味、之を此の清淡に比して如何。
其十 漁獲
今朝、漁師急馳して海に出で、村媼囂々として漁獲を論ず。午を過ぐる頃、先づ回るの船は吉報を齎らし来る。之に次ぐものは鰹魚を積んで帰り、村中の老弱海浜に鳩まる。此日は之れ当年第一の夏漁、頓て見る村童頻々として来往し、人々一尾を携へざるなく、家々鮮肉を味はざるなし。漁家にあらざるもの僅かに三戸、而して村情隣を捨てず、価なくして亦た挙家の鼓腹あり。全邑今日鮮魚に飽く、之を東都の平等先生に告げて、与にこの歓喜の情を讃めなば、如何にぞや。
其十一 言語
村家に就きて言語を査するに、親子兄弟一様なる語調あり。われは平生、我が国語の自から階級的なるを厭ふもの。之を思ひて私かに悟るところあり。
其十二 蝉声
ゆふべの風に先ちて簾を越え来るものは、ひぐらしの声、寂々として心神を蕩す、之を聴く時自から山あり、自から水あり。家にありて自から景致の裡にあり。団扇を握つて前に出れば、既に声を収めて他方に飛べり。
(明治二十六年七月)
●表記について
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