今の世の真理を追求し、徳を修するものを見るに、第一の宮は常に開けて真理の威力を通ずれど、第二の宮は堅く閉ぢて、真理をして其門前に迷はしむるもの多し。第一の宮に入るの門は広けれども、第二の宮の門は極て狭し。第一の宮に入りたる真理は、未だ以て其人を生かしむるものにあらず、又た死せしむるものにあらず、喝、第一の宮に善根を種き懺悔をなすは、凡人の能はざるところにあらず、この凡人豈に大遠に通ずる生命と希望とを、いかにともするものならんや。福音何物ぞ、救何物ぞ、更生何物ぞ、是等の物を軽侮し、玩弄し、徒らに説き、徒らに談じ、徒らに行ひ、徒らに思ひ、第一の門までは蹈入らしめて第二の門を堅く鎖すもの、比々皆是れなるにあらずや。尤も笑ふべきは、当今の宣教師輩が「福音」の字句に神力ありと信ずる事なり。彼等は漫に言を為して曰く、「福音の説かるゝところ必らず救あり」と、而して彼等は福音を説かずして、其字句を説く、自ら基督を負ふと称して、基督の背後に隠るゝ悪魔を負ふ、咄、福音を談ぜんとするもの、何ぞ天地至大の精気に対して、極めて真面目なる者とならずや。其第一の宮を開きて、第二の宮を開かず、心あるも心なきに同じ。己れ寒村僻地より来り、国家の大に愛すべきを知らずして、叨りに自利自営を教へ、己れ無学無識を以て自ら甘んじながら、人に勧誘するところ「学問」を退ぞけ、聖経のみを奉ぜよと謂ひて、以て我が学問界以外の小人に結ばんとし、己れ文学美術の趣味、哲学の高致を解せざるが故に、愚物を騙罔して文学を遠くべしと謂ふ、斯くして一国の愛国心をも一国の思想をも一国の元気をも一国の高妙なる趣味をも尽く苅尽して、以て福音を布かんとす、何すれぞ田園の沃質を洗滌し尽して、然る後に菓木を種ゆるに異ならんや。心の奥の秘宮の門を鎖して、軽浮なる第一宮の修道を以て世を救はんとするの弊や、知るべきなり。
道に入るは極めて至難とするところなり。道に入るは他の生命に入るものなるを記憶せざるべからず、道に入るはレゼネレイシヨンの発端なるを記憶せざるべからず。然るに今の世の所謂基督教会なるものを見るに、朝に入りたるもの夕に出で、出没常なく、去就定まりなし、その入るや入るべからざるに入り、其出づるや出づべからざるに出づ、何ぞ自らの心宮を軽んずるの甚しき。
洗礼を施すは悪きことにあらず、然れども其を以て基督の弟子となるに欠くべからざるの大礼となすは非なり、心を以て基督に冥交する時、彼は無上の栄ある基督の弟子なり、洗礼を施さゞる悪しきにあらず、然れども洗礼を施さゞるを以て直ちに基督の弟子となり了したりと思ふは大早計なり、凡て心の基督に通じたるとき、即ち心が基督の水に浴したる時、再言せばパウロの所謂火の洗礼に遭ひたる時こそ、真に基督の弟子となりたるなれ、然り、心の奥の秘宮開かれて、聖霊の猛火其中に突進したる瞬時に於てこそ。
ナタナヱル無花果樹下に黙坐す、ナザレのイエス彼を見て、以て猶太人の中に尤も硬直にして欺騙なきものと思へり。後世の之を説くもの、ナタナヱルの黙思を論ぜずして、基督の威力のみを談ず。ナタナヱルを知るは基督なり、然れどもナタナヱルのナタナヱルたるは基督の関するところにあらず、彼が心の照々として天地に恥るところなきは、彼自らの力なり、彼を救ふと救はざるとは彼の関り知らざるところなれど、救はるべき者になると否とは、彼の自力なり、斯般の理極めて睹易きものなるを、今の世往々にして聊かの自力をも恃まずして他力を専らにするものあり、神に祈念するを以て惟一の施為となすや、恰も彼の念仏講の愚輩の為すところを学ばんとするものゝ如し。告ぐ、基督は救ふべきものを救ひ、救ふべからざるものを救はざる事を、千言万句の祈祷は一たび基督を仰ぎ見るの徳に若かず、仰ぎ見るは心を以て仰ぎ見るべし、祈祷の教会をかしましうするは、尤も好ましからぬことなれ、我は凡ての教会の黙了せん時に、大活気の炎上すべきを信ず。
慈恵の事、伝道の事、世間、其精神を誤解するもの多し、われは今くだ/\しく述ぶるを欲せず。
最後に
一個人の尤も安く尤も平らか
なるところを尋ねて見む。
人には各自に何事かの秘密あるものなり、とは詩家某の曰ひし言なるが、恨むらくは此言に洩るゝものゝ甚だ尠なるを。言ひ難きにあらず、発表し難きにあらず、唯だ夫れ日常思惟するところのもの極めて高潔なる事あり、極めて卑下なる事あり、自ら責め、自ら怒り、自ら笑ひ、自ら嘲り、静坐する時、瞑目する時、談笑する時、歩行する時、一々その時々の心の状あれば、その中に何事か自ら語るを快しとせざるものなき能はず。然れども俗人は之を蓋はんとし、至人は之を開表して恥づるところを知らず、俗人は心の第一宮に於て之を蓋はん事を計策す、故に巧を弄して自ら隠慝するところあるなり、然れども至人は之を第二の心宮に暴露して人の縦に見るに任す、之を被ふにあらず、之を示すにあらず、其天真の爛たるや、何人をも何者をも敵とせず味方とせず、わが秘密をも秘密とする念はあるざるなり、然り、斯かる至人の域に進みて後始めて、その秘密も秘密の質を変じ、その悪業も悪業の質を失ひ、懺悔も懺悔の時を過ぎ、憂苦も憂苦の境を転じ、殺人強盗の大罪も其業を絶ちて、一面の白屋、只だ自然の美あるのみ、真あるのみ。
この美こそ、真こそ、以て未来の生命を形くるものなるべし。基督を奉ずるものゝ当さに専念祈欲すべきもの、蓋しこの美、この真の境なるべし。
倒崖の仆れかゝらんとする時、猛虎の躍り噬まんとする時、巨の来り呑まんとする時、泰然として神色自若たるを得るは、即ちこの境にあるの人なり。生死の界を出で、悟迷の外に出でたるの無畏懼は、即ちこの境にある人の味ひ得るところなり。
むかしはヨブ凡ての所有を失ひ、凡ての親縁眷属を失ひ、凡ての権威地位を失ひ、加ふるに身は悪瘡の苦痛に堪えがたく、身命旦夕に迫れり。然れども彼は神を恨まず、己れを捨てず、友は来りて嘲れども意に介せず、敵は来りて悩ませども自ら驚かず、心を照らかにして神意を味はへり。彼は是れ、其秘宮の内に於て天地の精気に通じたるもの、平和の極意を得たるもの。尤も富み、尤も栄えたる人の夢にだも感得する事能はざる極甚の平和を、この尤もあはれに尤も悲しむべき破運の王(説者ヨブを某国の王なりと信ぜり)が味ひ得たりし事を看ば、天国の極意の至妙至真たる事を知るに難からじ。
人須らく心の奥の秘宮を重んずべし、之を照らかにすべし、之を直うすべし、之を白からしむべし、之を公けならしむべし。大罪大悪の消ゆるは此奥にあり、大仁大善の発するは此奥にあり、秘事秘密の天に通ずるは此奥にあり、沈黙無言の大雄弁も此奥にあり、然り、永遠の生命の存するもこの奥にあり、かの説明し得べからずと言はれたる人生の一端の、説明せらるゝもこの奥にこそ。この奥にこそ人生の最大至重のものあるなれ。
(明治二十五年九月)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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