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六号記(ろくごうき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-31 7:37:17  点击:  切换到繁體中文



 われわれは、何故に、既に日本が比類のない好い国である、と信じなければならないのか。好いところもあるであらうが、このままではいけないところが随分多いことを、自分の後継者たちに教へておきたく思ふ。祖国を愛するといふ精神は、どういふところから生れて来るのか、それは為政者などが考へてゐるやうに、自分の国が一番優れてゐるといふ観念からではないにきまつてゐる。正しく物を視るのがいけないと教へ込む法はないではないか? それが危険だと思ふなら、正しく視られて差支ないやうな国にすべきではないか? 私はやつぱり、どうにもならないことを云つてゐるのであらうか?
 国を憂ふるといふ言葉ほど、気恥しい言葉はないと思つてゐた私は、いま、さういふ言葉を使はなければならない破目に陥つた。文学をやつたお蔭かどうか、凡そ、しかし、文学の無力を痛感させる言葉でないか。なぜなら、私の尊敬するわが国の現代作家は、公にまださういふ言葉を使つてゐないやうである。
 思ふに、そんなことを仮にも云はせない何かが、ほんたうの文学者の胸の中には燃えてゐるのであらう。残念ながら、私は、夜、床にはいつて、自分の仕事のことを考へながら、いつの間にか、ああ日本はこんなことでいいのだらうかと、つひ考へてしまふ。すると眼が冴えて寝つかれない。新聞の記事のひとつひとつが頭に浮んで、歯ぎしりをする。滑稽だと思ふが、どうにもしようがないのである。

 それでもまだ、文学の領域では、個人々々の力がある程度まで伸び上つてゐるが、芝居や映画の畑になると、さうは行かない。
 真面目な仕事がまつたく酬いられず、才能が自然な発達を阻まれ、いつまでたつても、近代芸術の名に値するやうな作品が現はれない。原因はどこにあるかと、みんなが、一生懸命に研究してゐる。なるほど、人物もゐない。金もない。が、真の原因は、それ以前に属してゐるのである。さういふものが生れる社会状態でないといふことだ。さういふものを創り出す「生活」を、国民全体がしてゐないといふことだ。要求がないところに何が出よう?
 要求がないといふのは、国民がさういふ風に育てられてゐるからだ。
 民衆に罪はない。指導者に罪があるのである。
 現代の日本は、果して文明国であらうか?

 民衆の生活には、目下、いろいろのことが欠けてゐるであらう。政治家は、先づ何を与ふべきかについて論議するであらう。政治家以外の、文化の指導的地位にあるものは、それぞれの立場から、或は、軍事思想を、或は科学知識を、或は宗教的信念を、或は処世術をと、様々な意見を提出する。何よりも先づ食を与へよといふ叫びに、眼をみはるのは当然である。
 芸術家は、何も云ふ権利はないのであらうか?
 徒らに卑俗な思想を煽る読物や興行物が、公然と芸術の名を犯して、屡々「国家的」に僭越な座席を与へられる不合理を黙視すべきであらうか? 物には程度があり、親爺の道楽も、遂に許してはおけぬといふ場合があるのである。
 かういふ問題が、ある程度まで常識の上に立たなければ、政治的イデオロギイなどは論じてみても仕方がないのではないか? いや、それよりも、民衆は、一旦、人間として眼覚めると同時に、国家が望むと否とに拘はらず、現在の政治を根本から疑ふ方向に向ふであらう。それを期待するものがあるかないかは、私が云はなくてもわかつてゐる。
 ところで、私自身は、制度の好みなどはない。制度に弊害は附きものだと思つてゐる。弊害救ふべからざるに至れば、自ら、打開の道が開けるであらう。それまでは、制度そのものよりも、弊害と戦ふべきであると信じてゐる。現制度の弊害の最も甚だしきものは、官尊民卑の風と、金力万能である。この間にも既に矛盾はあるが、その矛盾から、混濁した処世の法が生れ、民衆の清潔な愉楽が失はれるのである。道徳には何等の権威もなくなつてゐる。醜行は暗黙の裡に是認され、美挙は看板として役立つのみとなつてゐる。名士は祖先の墓参りをするだけで、涜職の罪滅しができるのである。
 これは、日本資本主義社会の珍奇な風景である。が、何主義の時代でも、こんな愚劣なヂエスチユアを嗤ふ国民がゐる筈である。
 母親が息子を殺した新聞記事が、天下を驚倒させたが、私は、人に意見を聞かれてかう答へた。

「別に驚くことはないさ。日本ぐらゐ不心得な親の多い国はない。家族制度の弊だ。つまり、道徳が、子に厳で親に寛である結果、親子の愛情が正しく導かれてゐない。両者の反撥は思想の相違から来るといふよりも、愛情の表示の相違から来る場合が多く、今日世間道徳の所謂孝道の執拗な鼓吹は、根本的に悲劇を含んでゐる。家族制度を維持するつもりなら、先づ親を新しく教育しなければならないだらう」

 ところが、豈に親子の問題のみならんやである。万事がこの調子で、学校に於ける師弟の関係、町内交際の関係、警察対人民、都市の文化施設、資本家対労働者、小さくは傭主と使用人の関係、すべて、人間性の自覚と健全な道義とを無視した、一見静かには見えるが、一皮むくと恐ろしい病毒の芽が吹いてゐるのである。
 少くともわれわれの周囲では、「個人的に」はみんなそれに気がついてゐるのである。殊に、文学者は一番痛切にそれを感じてゐることを断言して憚らない。政治家と雖も、多分「個人としては」同感するに違ひない。どうして、それを公然と云はないのか。云ふ機会がないのか? 云ふと商売にならないのか?

 国民精神の作興とはなにか? 思想の善導とはなにか? 大和魂とは、日本民族の優越性とは何か?
 道徳も宗教も歴史も、日本精神の危機を救ふことは不可能なところまで来てゐるのである。
 浮世絵や茶の湯や、義太夫や浪花節ではどうにもならぬ。ならぬどころか、そんなものを擔ぎ出すと、事態は悪化するばかりである。
 近代的な意味に於ける文学的肥料の供給は、わが国民を自滅から救ふ最も簡易な! 方法ではないかと思ふが如何? 勿論、三百年後のことを考へてである。(一九三六・一)





底本:「岸田國士全集23」岩波書店
   1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「時・処・人」人文書院
   1936(昭和11)年11月15日
初出:「文芸懇話会 第一巻第二号」
   1936(昭和11)年2月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年2月22日作成
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