禁酒
浦野今市君は八歳の時から酒の味を覚え、三十五歳の今日、酒さへあれば何もいらぬといふほどの酒好きになつてしまつた。
八歳の時から酒の味を覚えたといふのは、彼が酔へば必ず誇張を交へて語る昔話によると、父親が将来酒の飲めぬやうな男になつてはいかんと、小学校へ上つた年から彼に晩酌の相手をさせたといふ。従つて、十一歳にして既に管を捲いたほどの神童で、と、これが人を笑はせる「落ち」なのである。
浦野今市君は、むろん今では一家のあるじである。貞淑な細君と、可愛らしい二人の子供とを、月九十何円かの月給で養つてゐる。
生活は決して楽ではない。その上、最近は債券を買つたり、貯金をふやしたりするために、消費の節約が絶対に必要とあつて、細君に気を揉ませるまでもなく、当人自ら進んで、酒代といふものを予算からきれいに削除してしまつた。
予算はきれいに削除したけれども、そこにはまだ余裕があつて、たまには好い機嫌で家に帰ることもある。懐をいためないで酔ふ方法がなくもなかつたのである。
ある日、浦野今市君は、しみじみとした調子で細君に話しかけた。
「おれは不思議なことを発見したんだが、同じ酒でも、近頃のやうに、只の酒ばかり飲んでると、どうも人間がだんだんひねくれて来るやうな気がする」
「それごらんなさい」
と、細君は、憂はしげに眉を寄せる。
「だから、どうしたらいゝんだ」
と、浦野今市君は、とぼける。
「すつかりやめておしまひになれないなら、家の方でなんとかしますわ」
夫の永年の習慣を、しかも、それほど害もないと思はれる楽しみを、こゝで急に奪つてしまふ気にはどうしてもなれないのが、細君としての真情であつた。
しかし、細君にさう出られると、浦野今市君も男の意地を立てねばならぬ。
「なんとかするつたつて、どうせお前一人に苦労させるだけのことだ。よし、断然やめる。やめる、やめる、なんと云つてもやめてみせる」
非常な決意である。あまりその声が大きかつたので、隣の部屋で勉強してゐた長女の国民学校二年生が、「お父ちやん、なにやめるの?」と、唐紙を開けて訊きに来た。
浦野今市君は、無理に微笑を浮べようとしたが、頬がつつ張つていふことをきかない。
細君は、夫の顔をちらと見て急いで眼を伏せた。
そして、眼を伏せたまゝ、娘の方へ、少しうつろな声で、云つた。
「あとで教へてあげるから、さ、早く勉強しておしまひ」
それ以来、もうかれこれ二ヶ月になるが、浦野今市君は、文字通り禁酒を実行して来た。時と場所と相手に応じて、或は胃潰瘍と瞞し、或は一滴も飲めぬと白を切り、或は家庭以外ではやらぬと、妙に威張つてみせた。
先づ第一に、会社の同僚が黙つてはゐなかつた。殊にそれまでの飲み仲間は、やゝ敵意をさへ交へた調子で、早く生命保険にはいれなどとからかつた。
浦野今市君は、別にさういふ仲間を怖れはしなかつた。禁酒の理由はどうにでもつけられるが、どんな理由よりも堂々とした理由が実際はある。それをわざ/\吹聴せぬところに、内心、浦野今市君の矜りがあつた。
そして、これまでは、どれほどのものともわからなかつた自分の意志の力を、こゝで試してゐるのだといふ、一種の満足も手伝つて浦野今市君は、むしろ、仲間の無反省を憐れみたいくらゐであつた。
よんどころない会合の席で、皮肉な若手と頑固な上役に盃を押しつけられ、進退谷まつて、彼は、粛然と膝を正し、
「折角ですが、実は、思ふところあつて、酒を断ちました。どうかあしからず」
と、空の盃を乾す真似をしてみせた。
一座はどつと笑ひこけた。浦野今市君の台詞としては、それほど奇想天外なのである。
夜おそく帰る夫の、ぱつたりと酒臭い息を嗅がせぬやうになつたその変りやうを、細君は細君で、いくぶん気味わるくさへ思つた。
しかし、なんで、その事にわざわざ触れる必要があらう。
細君は、それが初めからのことのやうに、良いとも、悪いともいはなかつた。たゞ、目立つて無口になる夫に、一言でも多く喋らせる工夫をした。家の中の火が消える思ひであつた。
日曜日の午後である。
浦野今市君は、庭の小さな花壇を野菜畑に掘り返すことを思ひたち、長女の二年生に二十日大根の種を袋のまゝ持たせ、
「まだ袋を開けちやいかんよ。ちやんと畝を作つてからだよ。かういふ風に塊りのないやうに土をならしてからでないとね」
お隣で借りた本物の鍬を、浦野今市君は、娘の前で、さも玄人らしく、軽々と振つた。
そこへ、珍しく、旧友の遠山三郎が訪ねて来た。
種はあとで蒔くことにして、浦野今市君は、ひとまづ手を洗つて座敷にあがつた。
遠山三郎は、別に用事があるわけではなかつた。たゞ、最近南方から得た便りなどを二、三紹介し、誰彼の幸、不幸について噂をし、総理大臣の健康を案じ、そして、最後に、酒を特別に飲ませる家を見つけたから、
「是非久しぶりに君を誘はうと思つてね」
と、なにも知らぬ風で、話をそこへもつて行つた。
ちやうど茶を入れかへに来た細君が、じつと息を凝らした。
浦野今市君は、ほとんど泣き笑ひとも云ふべき表情で、旧友遠山三郎の口元を見つめてゐた。
「ほんとだよ。嘘だと思ふなら来てみろよ」
「誰も嘘だなんて思やしないよ。たゞ、かう云ふと、君の方が嘘だと思ふかも知れないが、僕、近頃酒をやめたんだ」
「嘘つけ」
「嘘だと思ふなら……」
と、までは云つたが、証拠とてはなにもない。
「本当ですか、奥さん?」
「はあ」
細君はさう答へたが、ふと、それだけではなんとなく夫にすまぬ気がして、
「さうらしうございますわ」
と、附け足した。
「さうか。そいつはどうも……」
と、ひどく悄げ返る旧友遠山三郎の様子に、浦野今市君は、こゝぞと勇をふるひ「僕なんぞは、君、これくらゐのことでもしなけれや銃後の御奉公にはならんよ」と云ひかけて、それは胸の中へぐつと押し返した。
「しかし、弱つたな、部屋をとつて来たんだよ。それぢや、飯だけつき合へよ。酒はどうでもいゝから……」
数刻、押し問答の末、浦野今市君は、ともかく友情の拒むべからざるを知り、酒の方は一滴も飲まぬからと念を押して、夕暮の我が家を出た。
さて、夜風はもうさほど寒くはないけれども、更けるに従つて、留守をする細君は、空の荒模様が気になつた。
子供たちを寝床へ追ひ込んでから、細君は外の跫音に耳を澄まし澄まし、近頃、隣組で回読することになつた婦人雑誌の頁を静かに繰つてゐた。
九時が鳴り、十時が打つた。そして、間もなく十一時といふ時分、表の格子が開いて、ドタドタと踏みしめるやうな靴音がすると同時に、
「約束をするまでは断じて帰さん、帰すもんか」
玄関の上り口に肩を組み合つたまゝ坐り込んでゐる男二人の後姿を、細君は、電気もつけずに、茫然と見据ゑた。
「さあ、これから決して飲まんと誓へ。旧友の切なる忠告を聴け。貴公は酒ぐらひ思ひ切れんか。貴公はそんな男ぢやなからう……」
「わかつたよ、もうその話はわかつた」
「なにがわかつた? 酒を、今日限りやめろと云ふんだ」
「よし、よし、だから、もう眠ろよ」
細君は、たまり兼ねて、電燈のスヰッチをひねつた。
正体もなく酩酊した浦野今市君と、その腕に、これまたおとなしく首を抱へさせた旧友遠山三郎とはその時、同時に後ろを振り返つた。
「奥さん、どうも遅くなつて……」
「そんなこた、かまはん。こら、おれは酔つとるから云ふんぢやないぞ」
と、浦野今市君は、今度は、遠山三郎の首をはなして、正面に向き直つた。
細君が何か云はうとすると、それを強く手で制して、
「今夜は、なるほど御馳走になつた。おれが飲まんていふ酒を、貴公は言葉巧みにおれを瞞して、たうとう、好い気持にさせちめやがつた。いや、好い気持になつたのは、これや昔のおれだ。いゝか。今のおれは、貴公にわかるまいが、苦いもんで胸がいつぱいなんだ」
「ちよつと、あなた。もう好い加減になすつたら……。遠山さんがご迷惑ですわ」
「いや、いや」
と、遠山三郎は、頭に手をのせて、
「浦野はすつかり弱くなりましたな」
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