岸田國士全集26 |
岩波書店 |
1991(平成3)年10月8日 |
1991(平成3)年10月8日 |
1991(平成3)年10月8日 |
両袖献納
一
川村節子さんは、未だ嘗て、人のせぬことをしたことはなかつた。それほど、目立つことが嫌ひであり、異を樹てるといふことに趣味はなかつた。
ところが、たつた一つ、今度といふ今度は、人のせぬことを、ついしてしまつた。夫の周作が不機嫌な顔をするのも無理はない。
それは、新聞に、婦人の標準服といふものが図解入りで発表された、その日、川村節子さんは、式服を除いて、持つてゐる着物全部の両袖を切つてしまつたのである。
二
もう取り返しがつかぬ。
家にゐる時はともかく、毎日買ひ物に出歩くにも、隣組の常会へ行くのにも、また、ちよつと親戚を訪ねるのにさへも、誰も着てゐない筒袖を着なければならないのである。
初めのうちは、なるべく外へ出ないやうにし、そのうちにみんながさうなればと、その時を待ち暮したが、一向世間はさうなるやうに見えない。
切つた袖は、幾枚も、丁寧にほどいて、火熨をかけて、畳んで、蜜柑の空箱にしまつてある。
川村節子さんは、火熨をかけながら空想した――きつとこの両袖は、全国のを集めて、何かお国の役に立つ用途が考へられるに違ひないと。ふと「両袖献納運動」といふ言葉が頭に浮んだ。さういふ運動が、どこかの発議できつと起りさうな気がした。
しかし、何時までたつても、さういふ運動は起りさうになく、ただ人がぢろぢろと、自分の風変りな恰好を眺め、なかには、女仲間で薄笑ひを浮べた顔も目につく。
いつたい、どういふわけで、した方がいゝことを誰もしないのだらう?
「みんながする時にすればいゝんだ」
と、夫の周作は、当り前のことしかいはないのである。
三
川村節子さんは、常会でちよつと希望を述べてみたことがある。それもさうだが、この組だけでやつてもはじまらぬといふ大方の意見で、あつさり片づけられた。
新聞に投書をしてみようかとも思つた。夫に叱られさうである。川村節子さんは、たびたび、箱の中で切られた両袖がひそひそ話をしてゐる夢をみた。彼女の志はそれらの両袖に籠つて、今や脾肉の歎をもらしはじめたのであらう。
川村節子さんは、毎朝毎夕、新聞をひらいて「両袖献納」の文字を探してゐる。
アメリカ人形
ある地方の国民学校の校庭である。全校の生徒が円陣を作つてゐる。
その真ん中に、枯枝と落葉が一と山、焚火でもするやうに積まれてゐた。
国旗が空高くはためいてゐる。
校長先生を中心に、先生たちが厳粛な面持でその左右に控へてゐる。首席先生の手には、硝子箱入りの人形が青い眼を光らせてゐた。
校長先生の声は、時々北風にあふられて聞えなくなる。しかし、生徒たちには、話の本筋はよくわかつた。米、英は憎んでも余りある日本の敵である。われら神州に生れ、正義の剣を抜いて、今や、傲慢無礼なる彼等米、英人をこの地球から追ひ払はうとしてゐるのである。由来、アングロサクソンは、鬼畜の如く、悪魔の如く、時には慇懃、紳士の仮面を被つてわれに近づき、時には海賊ギャングの正体を現はして、わが周辺を脅かす。かのペルリが下田を訪れたのも、表面は親善を装ひながら、深い陰謀を秘めてゐたことは事実であり、近くは、同じ米国が、わが少国民を手なづけようとして贈つたのが、諸子の面前にあるこの人形である。
かういふ意味の前置きをして、さて、
「この人形の処置について諸子の意見を徴したところ、毀してしまへといふのが二百四十三、海に投げ棄てよといふのが三百十八、送り返せといふのが三、焼いてしまへといふのが三百二十一、それから、どこか見えないところへしまつて置けといふのが一、そこで、大体の意見としては、この人形を死刑に処するといふことにきまつたわけである。先生がたもみなこの意見に賛成せられたから、今日、此処で、全校の手によつて火焙りの刑に処することにした。不倶戴天の仇、米国の末路はかくの如きものである。高等科二年の加藤、その薪に火をつけろ」
呼び出された高等二年の加藤壮一は、静かに列を離れて枯枝の小山の前に立つた。先生の一人が差し出すマッチを、ちらと横目で見たまゝ、受取らうとしない。
「校長先生」
と、彼は、喉の裂けるやうな声で叫んだ。
「御命令なら、私は火をつけます。たゞ、一と言、申上げたいことがあります。
この人形は、十年以来、この学校に住み、われわれと共に教へを受け、日本人の心を心とし、日本の有難さを知り、再びアメリカへは帰らない、この土地のものになつてゐる筈だと思ひます。われわれは、一人のアメリカ人も、皇威にまつろはぬ限り、生かしては置きません。しかし、十年間、日本の学校にゐたアメリカ人形を、日本の味方にすることができなかつたとあつては、われわれの罪こそ、まさに死に値すると思ひます」
校長先生は眼をつぶつて考へてゐた。
アメリカ人形は、焼かれなかつた。
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