岸田國士全集20 |
岩波書店 |
1990(平成2)年3月8日 |
1990(平成2)年3月8日 |
1990(平成2)年3月8日 |
時・処・人 |
人文書院 |
1936(昭和11)年11月15日 |
四十年ぶりで、郷里を訪れたいといふ母の望を叶へる好機会である。私は、講演旅行の勧めに応じた。それで、いよいよ出発といふ段取りになつて、家に病人ができ、母は病人を置いて家を明けることを気遣ひ、私もそれは仕方がないこととして、一方、講演の約束を今更破ることもできないので、不本意ながら、まあ、若葉は到るところにあらうといふぐらゐの気持で旅に出た。
食堂車の窓から、朝の関ヶ原を――あの山の影と茶畑の色彩とを貪りながめながら、私はいい旅をしたと思つた。
が、ジュネエヴとやらに向ふ総督の一行と、それに何か関係のあるらしい連中が同じ汽車に乗りこんでゐて、政治的といふか、官吏的といふか、一種無作法な騒音が、夜中、屡々私の夢を破つたことは事実だ。浜松あたりであつたか、かの鯛飯を購ふや否やの問題が、潜水艦の噸数比例を決する如く論議された。
大阪は単色の大都会である。といへば、何を今頃寝とぼけたことを云ふんだ、と思ふ人があるかもしれないが、私は寝とぼけてはゐないのである。大阪は実に大都会らしき華やかさと陰惨さとを、同時にあらゆるもののうちに兼ね備へ、大都会らしき落ち着きと慌しさとを、程よく織り交ぜ、大都会らしき新しさと旧さとを、巧に同じものの上に調合した又と類のない都市のやうに思はれた。
東京には、どことなく「昨日」と「明日」とが対立してゐる。大阪には「今日」があるばかりである。それは生活そのままの相である。いや、誰がなんと云はうと、「今日」は生活の全部だ。そして生活は単色だ。
大阪は、一つの大きな顔だ。瞬きをしない顔だ。鼻の孔を一ぱいにひろげた顔だ。
阪神急行電車、西宮北口といふ停留場は、私に不思議な興味を感じさせた。先づ、あの線路の交錯は、西洋人が書いた片仮名である。そして、あの風車のやうなプラツトフオオム!
T氏の案内で宝塚ホテルに宿を取つた。
日光は南欧のやうに豊かだ。――私は、そこで、ふとピレネエの春を思ひ出した。
ホテルのボオイが白足袋をはいてゐる。
四階の窓は、爽かな展望をもつてゐる。
殊にあの、河岸に沿ふて建てられた三つの劇場は、T氏の説明によつて、私の好奇心をそそつた。
私の空想は、限りなく翼をひろげる。
演劇のエルサレム! 私は巡礼のやうに敬虔な眼をあげて、夕暮の星を仰いだ。
私は幸にして、まだ少女歌劇といふものを見たことがないのである。そして、ここでもまた見ないつもりである。
中劇場国民座の舞台で、私の『百三十二番地の貸家』が演ぜられてゐる。
見物は空気にひとしい。
舞台では、たしかに、三つ四つの火が燃えてゐる。私は慰められた。
小劇場はヴエエトオヴエン祭の管絃楽。
聴衆はさすがに耳を忘れて来てゐない。
この一堂は、恐らく、神戸――大阪を底辺とする三角形の頂点だ。
翌日、大阪朝日の講堂で、フランス現代劇の新傾向を論じたのは私だ。馬鹿なことをしたものだ。
帽子をかぶつてゐる諸君よ、向うを向いてゐ給へ。
「退屈」は音を出すものだ。私は、その音を大阪と神戸で聞いた。
京都のタクシイ、千鳥足。
都ホテルのバルコニイで、何々婦人会がそつ歯を並べ、何条通りかのカフエエで、高等学校の生徒がプロレタリア文学を論じてゐた。
そして、私は、そのホテルで昼食をすませ、そのカフエエで、主賓らしく納まつてゐたのである。Y氏の如才なき干渉がなかつたら、私はどこまで行つたらう。
公会堂は、男が右、女が左、満堂の聴衆は、紅白二流の旗の如く演壇の前に棚曳いてゐた。
K氏が現はれると白い旗がひらめき、S氏が現はれると赤い旗がひらめいた。
旧都の夜にふさはしい静かなまなざしを感じながら、私は空腹とたたかつた。
朝、十一時、瓢亭の庭の池に、紅椿が一輪、なまめかしく浮いてゐた。
なんて、嘘かもしれないさ。
神戸では、義弟が、A丸に乗り込む日である。
テエプが涙で切れたら、それは見ものに違ひない。同行の某大尉が、細君に最後の小言をあびせかけ、私は眼をつぶつて、地中海の波の色を思ひ浮べた。
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