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日本に生れた以上は(にほんにうまれたいじょうは)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-30 19:28:39  点击:  切换到繁體中文


       七

 僕は、日本国民として、日本のどこが好きか? と問はれれば、ちよつと困ることを告白する。はつきり云へないといふよりも、そんなに好きなところはないやうな気がするのである。しかし、それは贅沢を云つてゐるのだといふこともよくわかる。例へば、日本の現代文化にしても、不消化のまま、歪んだまま、無選択のままである状態はいやだが、あるべきものは、ちやんとどこかにあるのである。それを伸び育たせる努力と計画が不足してゐることは、われわれの罪である。(実は政治家の罪だと思つてゐるのだが)
 僕は文学者として、別に「愛国文学」を作り、又は提唱しようとは思はぬ。国民大衆の愛国心は、所謂「愛国主義者」のデモンストレエシヨンによつて、判断することもできず、官憲や教育当事者の日本精神鼓吹によつて、高め得るものでないのである。現にそれは憂ふべき逆効果を生みつつあることに、彼等は気づかぬのであらうか? フアツシヨの名を以て呼ばれる愛国主義が、いかに心ある民衆の希望を、祖国日本より引離しつつあるかを見ればわかる。(六字削除)徐々に感激を失ひつつある国民を誰が作つたか?

       八

 日本では、かういふ常識的な問題を思想家は軽蔑する風があり、これを取り上げてわいわい云ふのは、みな思想的には訓練のない人間ばかりであつた。いつまでたつても、常識が常識とならず、民衆は、常識下の思想に追随し、今日に於いてすら、殆ど健全なる社会感覚といふものをもたないのである。この上、政治家や官吏や教育家や歴史家やに、常識の問題を委しておいていいかどうか?
 日本精神とか、東洋の平和とか、国語国字の問題とか、故ら社会的関心を示すつもりでなくても、文学それ自身のためにでも、先づ常識の上に立つ大意見を優れた文学者は発表して貰ひたいと僕は思ふ。その意味で、読売紙上に見る長谷川、三木両氏の一日一題は、頗る「愛国的」な文章である。

       九

 僕の愛国心は語る――

 徳田秋声は、極めて民族的なことによつて、世界的に一流作家である。

 日本の文学者は勲章を欲しがらぬ。欲しくないやうな顔をするものさへ例外である。
 日本人は肉体的な美しさに於いて、西洋人に劣るといふ迷信に、われわれは陥つてゐる。これは迷信であつて欲しい。なぜなら、日本で僕が見る最も美しい男女は、西洋の最も美しいといはれる男女よりも優つてゐる。少くとも劣つてゐない。ただ、平均点がいかにも低いのは残念だ。しかも、その低さは、人権蹂躙の歴史が齎したものだと、僕はふと感じたことがある。日本人に、いかなる人間が美しいかを教へよ。それが徹底しないと、芝居も映画もよくならぬ。(これは少々脱線か?)

 日本の自然は眺めるやうにできてゐる。西洋の自然はそのなかで遊ぶやうにできてゐる。どつちが美しいかわからぬ。そして、どつちが、より「自然」であるか、これは考へものである。

 支那とは日清戦争後当然大使を交換すべきであるとは、十数年前から考へてゐた。支那人をもつと尊敬すべし。少くとも彼等に対し優越感を示すといふことは、まつたく国辱である。

 西洋崇拝と、西洋のある部分に羨望を感じることとは、別ものであるといふこと。現代日本が住み難いと思ふことと、日本以外の国に住みたいと思ふのとは別ものである。なんでもひとつに片づけてしまはないこと。

 仏蘭西人が仏蘭西を、英吉利人が英吉利を愛する愛し方のなかには、日本人にはないものがある。自惚れでなく、まつたく、惚れ込んでゐるところがある。伝統が生きた力になつてゐる強味である。が、そのために、当代の復古主義を歓迎する気は毫もない。そんな運動は、どこの国でも度々繰り返され、それ自身なんの役にも立つてをらぬ。要するに、文芸復興ルネツサンスが早く来たお蔭である。日本には、やつと、今年来た。

 最も心を寒くするものは、不真面目な大学生の氾濫である。不真面目は勉強をせぬとか、カフエエに入りびたるとかいふことばかりでない。なにはともあれ、秩序の何ものであるかを弁へぬことだ。学生生活でその訓練を怠るところから、日本国民の野蛮性が上下を風靡するのである。自由によつて秩序を生み出す能力は、大学に於いてのみ養はれることを一日も早く彼等に知らしめたい。

 官尊民卑の思想についていろいろの人が云ひ出した。これはわが国の社会的弊風であつて、それを弊風と気づき、批難攻撃するもののうちに、なほ、官尊民卑的気質を反映してゐる場合が多いのはどうしたわけか。「官」のなすところ、悉くこれに反対するといふのは、もつと文化の一般水準が高まつた時にこそ、意義のある(或は威勢の好い)ことである。現在日本のやうに、芸術も科学も、更に文学でさへも、アカデミスムの恩恵によつて近代的洗礼を受けた事実を目の前にして、アカデミスムの否定に急なるは甚だ偏狭で、幼稚な考へ方である。現代日本の選ばれた人々は、もう暫く辛抱して「官」を利用し、誘導し、為すべきを為さしむべきである。アカデミスムに対する恐怖は、期待の大き過ぎるところから来るので、これこそ官尊民卑の思想である。アカデミスムはある時代の役割を果せばいいのである。アカデミスムの樹立以前に、アンデパンダンの発展を望むが如きは、文化の推移の法則を無視したものである。「官」は「民」のために、「民」によつて存在するといふ確乎たる事実を、官吏はつひ忘れたがるものであり、この職業的関節不随の症状を、さう絶望的に考へなくてもいい。なにをやり出すかわからんのは誠に困つたものだが、なんにもさせずにやるかやるかと待つてゐるより、まあなんでも註文をつけてやらせてみた方がいいのである。きつと悪いことをするだらうといふ猜疑心が、これも無理とは云はぬがちつと強すぎて、どうせさう思はれてゐるならと、不貞な夫のやうな考へを起させないでもない。官民互に相信じ合はないこと(或は信じ合へないこと)は前にも述べたやうに、日本国民にとつて、現代の憂鬱の一つである。


 こんなことを書いてゐるときりがないからもうやめる。
 武田君には至極平凡な、大へん長つたらしいものを読ませることになつて相済まぬが、どうか許して下さい。殊に最後の一項は君の顔が目の前に浮んでゐるので、つひこんなにくどく書いたらしい。君の「愛国心」が何を語るか、僕は、それを聴く前に、もうわかつてゐるやうな気がする。がしかし、その言ひ方がどんなであるか、大いに楽しみである。(一九三六・八)





底本:「岸田國士全集23」岩波書店
   1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「時・処・人」人文書院
   1936(昭和11)年11月15日
初出:「文学界 第三巻第八号」
   1936(昭和11)年8月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年3月18日作成
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