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懐かし味気なし(なつかしあじきなし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-30 19:27:20  点击:  切换到繁體中文

底本: 岸田國士全集19
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1989(平成元)年12月8日
入力に使用: 1989(平成元)年12月8日
校正に使用: 1989(平成元)年12月8日


底本の親本: 読売新聞
出版社:  
初版発行日: 1924(大正13)年3月21日、23日

 

本郷座の夜の部を見て何か言へといふ注文なのですが、私はまだ厳密な意味で、他人の作品を批評し得る自信はありません。
 云ふまでもなく、新しい本郷座の舞台で谷崎、菊池両氏の新作が左団次一派の俳優によつて上演されると云ふ事実は、私の好奇心を惹くに充分でした、実は、昨年の夏日本に帰つて以来、まだ一度も、芝居小屋の木戸を潜らなかつたのです。巴里パリーで過ごした三年あまりは、殆ど毎日、役者の顔を見てゐたのに、なぜ、日本に帰つて来て芝居を見に行かないかと云ふと、旧劇はまだ之はと思ふ出しものがないし、新派は初めから大きらひですし、新劇はどれがいのかわからないで行く気になれず、と、まあかういふわけでした。
 新しい劇作家が、旧い時代を背景にして、新しい言葉で、旧い感情を、新しい形に盛り上げ、旧劇の役者を使つて新劇流の演出をやらせ、それで旧い見物も新しい観客も、ひつくるめて感心させようとする傾向が、現代日本の劇壇に可なりの勢力を占めてゐるやうに思はれます。
 ほんとうに旧いものを尊ぶ人、ほんとうに新しいものを求める人が、それほど少くなつたのでせうか。
 それはまあいゝとして、谷崎とか菊池とか云ふ新時代の人気ある少壮作家が、どうしてもつと妥協のない作品を発表しないんでせう。両氏の文学的才能を充分に認め、その或る作品に対しては多大の敬意を払つてゐるのですが、今度のものは、いづれも感心が出来ないやうに思ひます。
 先づ『無明と愛染』ですが、これは第二幕の初め、奥の間で愛染の声が聞えるまでのやゝ引締まつた場面を除いては、全然劇的でありません。素読をする為めには流暢なあの文章が、如何に舞台を退屈にしてゐるか、如何に暗示的効果に乏しいか、そして如何に非音楽的であるかは、誰しも気のつく事であらうと思ひます。勿論、此の劇の欠陥は文体ばかりにあるとは云ひません。人物が悉く平面的で、時には空虚な感じさへします。各人物の言葉に盛られた感情なり思想なりが、その心理的境遇の推移と歩調を合せてゐない、これは劇的作品の致命的弱点であらうと思ひます。
 此の種の主題を取扱ふならば、作者はもつと豊富な、大胆な、そして殊に理知的な想像力を働かせなければ、見物は作者の企図するやうな恍惚の世界にはいれないでせう。
 左団次の無明の太郎はやりにくさうです。無理はありません。芝鶴の楓は、あれだけ喋舌つて喋舌り甲斐のない役でした。寿美蔵は人形でも出来る役を引受けて、さぞ不満でせう。松蔦は、これも、あの科白だけでは、どうにもしやうがないでせう。

 菊池氏の『浦の苫屋』は、誠に徹底した通俗劇だと思ひました。菊池氏がさういふつもりで書かれたのかも知れません。かも知れないなどゝ云ふのが失礼に思はれるくらゐ、さうらしいのです。見物が低級だと云ふ作者側の云ひ分もあるでせうが、わかり易い芝居と云ふ以外、これはまた、何といふ見物の見くびり方でせう。
 死んだと思つた亭主が不意に帰つて来ると云ふ題材は、古今の物語りに用ひ古された題材で、而も見方によつては、いつまでも新しい題材に違ひありません。モオパツサンの『帰村』は、此の主題を取扱つた最も深刻な、同時に最も軽妙な、優れた喜劇のもつ涙、さう云ふ味に富んだ好短篇ですが、モオパツサンは流石に、死んだ夫が不意に帰つて来る事実だけで読者の心を釣らうとは試みませんでした。
『浦の苫屋』の作者は、久六、杢兵衛、おまちの性格描写を閑却して、単に、三角関係によつて生じる月並な争闘心理を、不用意に暴露させ、陳腐な悲劇的結末に、平気で見物を引ずり込まうとしてゐます。従つて、全篇を通じて作者の努力してゐるのは、最後の場面に必然性を与へることだけと云つてもいゝくらゐです。殊に気になるのは、或ることを云ふため、或ることが起るために、絶えず見え透いた準備的伏線が張つてあることで、少し物わかりのいゝ見物は見物の方が先へ行つて待つてゐます。殊に不手際と思はれるのは、見物が先へ行かうとするのを、無理矢理に引止めて置かうとする作者の手管てくだです。見物がついて行けないでも困りますが(それもかまはないと云ふ作者なら別です)もう少し、見物にも考へる余地を残して置いて貰ひたいと云ふ気がします。言葉の裏の言葉、事件の裏の事件を、作者の心の中にまで少しはいつて、見物がひとりでそれを判断し、洞察し翫味するところに新しい芝居に対する新しい見物の要求があるのではないかと思ひます。
 然し、こんな理屈をぬきにして誰の作とも知らず、何時頃の作とも知らず、たゞ、左団次が寿三郎を組み敷いて、『わしを斬つてお互の苦しみが……』と云ふあたりへ来ると、変に喉がひつついて、眼の中が熱くなつて来ます。『大統領』と叫ぶ大向ふをとがめる気にもなれません。
 俳優は、みんな熱心のやうです。熱心に動かされる、かう云つてはあんまり褒めたことにはならないでせうが、実は、そんなに褒めることは出来ないのです。左団次だけはあの役をあれ以上に演るものはあるまいと思はれる程度まで行つて居ます。それから先のことを考へて見てはどうでせう。台詞が一体に単調で、死んでゐて、ぎごちないのはたまらなくいやです。それが新作物に於てはさうだとすれば、罪は俳優にばかりあるとは云へません。若し旧劇のそれのやうに新作ちよん髷劇の台詞まはしとして、型にはまりつゝあるのであつたら、それこそどうにかしなければなりますまい。
 所謂芝居道の礼に慣れず、云はずにすますべきことも、つひ云つてしまつたかも知れません。久々で日本の芝居を見ると云ふ興味、楽しいやうな怖ろしいやうな期待が、余程私を神経過敏にしたでせう。
 それでも、最後の芝鶴の人形振は、専門家から見ればどれほどのものか知りませんが、少くとも、私の眼には、美しい、懐しい、まぼろしの世界でした。これなら、これだけでもいゝと思ひました。一寸溺れかけたのです。いやいや、これだけではいけない。
 懐し味気なし、さう云ふ気持ちで帰途につきました。
 此の感想が、見物の一人の声として、幸に作者両氏の耳にはいり、よし、さう云ふ見物もゐるなら、もつと見ごたへのあるものを書いてやる、かういふことにでもなれば、私はうれしい。





底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「読売新聞」
   1924(大正13)年3月21日、23日発行
初出:「読売新聞」
   1924(大正13)年3月21日、23日発行
入力:tatsuki
校正:Juki
2006年2月20日作成
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