日本の名随筆91 時 |
作品社 |
1990(平成2)年5月20日 |
1990(平成2)年5月20日第1刷 |
岸田國士全集 第九巻 |
新潮社 |
1955(昭和30)年8月 |
私は、今、時計といふものを持つて歩かない。時間を超越するほど結構な生活をしてゐる訳ではないが、時計を持つてゐなくつても、どうやら用事は足りるのである。そのかはりどこへ行つても、時間を知りたい時には、時計を持つてゐさうな人に、「いま何時?」と問ひかける。時間をきめて人を訪ねる時など、その家の近所へ辿りつくと、軒並みに薄暗い店のなかへ、それとなく素早い視線を投げて、柱時計のありかを一瞬間に突き止める修練は、いつの間にか積んだ。かういふ時、便利なやうで不便なのは時計屋の店である。なんとまぎらはしき針また針の方向!
それでも、生れてから時計を一度も持つたことがないわけではない。十三にして、おやぢからニッケル側を貰ひ、二十三にして、自分の金で銀側を買つた。それ以来、その銀側を持ち続けてゐた筈だが、いつ、どこで、どうしたのか――ああ、さうさう、これを忘れてゐる法はない。巴里の、ある裏通りの、安下宿の二階で、ある日、病気で寝てゐると、そこへ、瓦斯屋に化けた強盗が、悠々とはいつて来て、いきなり、何か、石ころを袋に填めたやうなもので、熱のあるこの頭を、ガンと擲りつけ、痛いなあと思つてゐるところを、「金、金」と云ひながら、その辺を捜しまはし、化粧台の上にのせてあつた、例の銀時計を剃刀と一緒に持つて行つてしまつたのである。
家主のお神さん、T夫人が、その後、私を彼女の物置に案内して、古い額などを見せた時、「こんなものが……」と云つて、埃の中からつまみ上げたのが、今、私の所有に属してゐる鉄側で、夫人のお父さんが、そのまたお父さんから譲り受けた品物であるといふだけでも、明かにロマンチック時代のあの懐しい面影を伝へてゐることがわからう。
この鉄側は、しばらく、一本の短針だけで、大体の時間を知らせてゐたが、今は、それすら動かなくなつてしまつた。末弟が時計屋に持つて行つたら、大変珍しがるので、そんなに値打がある代物かと思つて、値ぶみをさせてみたら、笑ひながら、値段のつかないほど珍しいものだと云つたさうである。只なら欲しいといふ意味だらう。
これからも、恐らく、時計を買ふことはないだらう。いま時計など持つて歩くと、始終捲くのを忘れたり、それならいいが、自分で時計を持つてゐるのをすら忘れて、やつぱり、人に「いま何時?」などと訊くに違ひない。さういふ場合、後から気がついて、またへまなことを、例へば、「どうもこの時計は遅れていかん」なんて、云ひ出すかもわからないではないか。
それに第一、自分の時計が、それほど信用できるかどうか。ドンが鳴ると、一斉に時計を出して見て、一人が、「おや、今日のドンは三十秒早い」なんていふのは、まだ愛嬌にもなるが、「君の時計合つてる?」と訊かれ、即座に「合つてる」と答へる男は、そんなに頼もしくないやうな気もするのである。まして、「いま何時」――「今かい、今はね」と考へて、「零時…二十三分…十秒」などの気障さ加減に至つては鼻持ちがならぬ。
私は、たまに――それこそ、ほんとに、百度に一度ぐらゐである――約束の時間に遅れることはあつても、断じて、その時間にきつちりその場所へ行き着いた例しはない。いつでも三十分か、時によると一時間早目に行き着くのである。さう心掛けてゐるわけではないが、さうせずにはゐられないのである。少し遅れて行くあの優越感に似た気持、わきから見るあの「ほどのよさ」を知らない訳ではないが、どうも、困つたもので、いつも早く行きすぎる。それが、恋人とのランデ・ヴウででもあるなら、まだ訳がわからないこともないが、旅行をする時の汽車の時間がさうである。芝居を見に行く時の開幕時間がさうである。晩餐に招かれた時がさうである。悲しいことには、借りた金を返しに行く時――もちろん、返し得る場合に限る――までが、さうなのである。
なんで、自分の時計など、あてにするものか!
私は、これまで身につけた時計の数は覚えてゐるが、これまで失つたステッキの数は覚えてゐない。それも、十三からステッキをついた筈ではないのに!
私は、私が嘗て朝夕の散策に伴つた数々のステッキの運命について、この日ほどしみじみ考へたことはない。この日とは、私が大枚二十金を投じて、アッシュとやらいふ自然木の、柄にはつつましく象牙をあしらつた、見るからになんでもないやうなステッキを新調した日である。
私が最初に握つたステッキは、たしか、おやぢの乗馬用の鞭のお古だつたと記憶する。私は、あの、節の細かい竹の棒を、ステッキとも杖ともつかず、無垢な十六の手で打ち振りながら、夏の耶馬渓を遡つた。
それから、二十三まで、ステッキに遠ざかつた。
Fさんの農園を見せて貰つた帰りに、雄勝川の橋の上で、アッと云ふ間もなく、真二つに折れた紅葉のステッキ!
シモンヌ夫人の『鷲』に魂を奪はれ、サラ・ベルナアル座のボックスへ忘れて来た黒檀まがひの安物、思ひ出なればこそ心残りである。
西洋のある女が、日本人のステッキの持ち方は、盲が杖をつくのと同じだと云つた。私は、盲の杖と間違はれないやうなステッキを選ぶより外ないと思つた。
ニイスで、ドゥヴィルで、メラノで、私は、若い女の手に細身のステッキが、チヤンと落ちついてゐるのを見た。ただし少くとも、それらの女は、ものを云ふ時に、口を動かしてはならない。
去年の夏、房州で病を得て倒れ、「絶対安静」三ヶ月の後、奇蹟的にふらふらと起ち上つた時[#「起ち上つた時」は底本では「起ち上った時」]、私は、ステッキならぬ杖の必要を感じた。東京からわざわざ見舞に来てくれた友だちに、何か頼みたい衝動――さういふ衝動を諸君は感じますか――を感じ、東京から、軽くて太いステッキを一本送つてくれるやうに頼んだ。友は快く引受けてくれた。数日後送り届けられたのが、最近まで、つまり、コンヴァレッサンスの時期を通じて、私の、ともすれば怠りがちな散歩を、朝夕促してくれた台湾スネエク(?)である。鋲の頭に似た水牛の冷たい柄も、疲れの早い手に快い触感を伝へた。館山の病院の庭をつき、茅ヶ崎の書斎を繞る松山をつき、阿佐ヶ谷の宿のあたり、郊外の霜解けの道をつき、春は田端のヴィルドラック歓迎会をつき、夏に入つて[#「入つて」は底本では「入って」]護国寺の墓地をつき、やがて、暑を避けて軽井沢に赴く途中までついた。そして、遂にその途中どこかにつき忘れて来たとは何たる不覚ぞや! しかし、その友は、私が、そのステッキの代りに、健康を取り戻したことを喜んでくれるだらう。
私が、今ここでこの一文を綴つてゐる時、その友は、すぐそこの、汀続きの熱海の旅宿で、例の魅力ある小説の想を練つてゐる筈である。
ステッキで思ひ出すのは、チャアリイ・チャップリンもさることながら、ピレネエ山麓のポオに、あのぽかぽかする三月と四月とを過した時のこと、ある夕暮の公園で知り合つたカナダ生れの女批評家ミス・Wと、その仏語教師C君――われわれは、ペエル・ゴリオ風に、この中年の好紳士を、ムッシウ・コンシャルドラマと呼び習はした――この二人のことである。ミス・Wの餅を頬張つたやうな仏蘭西語を、C君の註訳入りで聴いてゐると、彼女は、イプセンの崇拝者であり、タゴオルの研究家であつた。そして、C君同様、肺を病んで、この南仏へ療養の旅を思ひ立つたのであつた。そして、逓信省の一官吏なるC君を、ただそれが仏人なるが故に、仏語教師として朝夕その身辺に侍らせてゐるのであるといふことがわかつた。
「このムッシウは、私のやうな若い女にとつて、甚だ安全な方であります」と附け加へた時、私は、眼を見張つてC君の顔を見たが、その時、このバルザック流の人物は、年ごろ持ち古したらしい無趣味そのもののやうなステッキの上に、剃りたての頤をのせて、思ひがけなく太い口髭の下から、「メフィエェ・ヴゥ」(どうだか、あてになりませんよ)と云つた。そしてから、そのステッキを、今度は、撃剣の手真似で前の方へ突き出して、「わたしのからだは、大事なからだです。どうして、どうして……」と、その剣を、大きな楡の木の幹に突き立てる身構えで、「わたしの妻、わたしの子供たち、それから、わたしの友だち……いや、いや、まだ、これで、うつかり死ねませんよ」と叫んだ。
ミス・Wのかすれた笑ひ声……。仏蘭西には売つてないやうなパラソルの先で、コンシャルドラマのステッキをはたと叩いて、「自分が人のために、大事な人間だと思つてゐる人を、わたし軽蔑します」とやつたものである。この時、C君の骨張つた手から危ふく滑り落ちようとしたステッキを、私は今でも、なほ自分の手のうちに感じている。
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