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築地小劇場の旗挙(つきじしょうげきじょうのはたあげ)
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岸田國士全集19 |
岩波書店 |
1989(平成元)年12月8日 |
1989(平成元)年12月8日 |
1989(平成元)年12月8日 |
我等の劇場 |
新潮社 |
1926(大正15)年4月24日 |
日本にはじめて純芸術的劇場が建てられ、その当事者が、何よりもまづ未来に目的を置いて、根本的な演劇革新運動を起したといふことは、実に愉快である。 「最初に現れたものをいきなり見られ、いきなり判決を下される事は迷惑至極である」だらう。僕は決してそんなことはしないつもりである。 「我々の使命は、如何なる形に於てなされるか、今我々自身予想することは出来ない」と、同劇場の首脳の一人は宣言する。ジャック・コポオもヴィユウ・コロンビエ座の建設に際して、これと同じことを言つた。これはたしかに、さもあるべきことである。 それなら僕は、築地小劇場の出現に大なる期待をもつてゐる演劇愛好者の一人として、今、何を言ふことができよう。
然しながら、同劇場の処女演出を観て、われわれが、これから、その仕事を「続けて見る」上に、どういふ態度を取るべきか。これだけは、おのづから決定されたわけである。忌憚なく云へば、「何か知らを探し求めてゐる」ことに、大きな好意と尊敬はもてゝも、たゞそれだけのことに不断の興味がもてるものではない。それも、その「探してゐるもの」が何であるかゞ、わかるとわからないのとでは、大変なちがひである。此の意味で、僕は、築地小劇場の仕事に少し親みがもてなくなつた。満腔の同情を感じながら、どうしても退屈を禁じ得ない。これは悲しむべきことだ。つまり演出者の意図はたとへ承認すべきものであつても、その意図の実現に必要欠くべからざる材料の選択、準備、整理を怠つてゐる。僕は敢て怠つてゐると言ふ。なぜなら、それが根本的の問題であることを、知らない筈はないからである。それも、見てゐてくれと云はれゝば仕方がないが、家を建てゝから柱を削るやうなことを何故するのだらう。早く家が建てたい、建てなければならないなら、そして、柱を削つてゐる暇が無いなら、なぜ、丸太なり、荒削りなりの柱に応はしい家を建てなかつたかと云ふ疑問が起る。はつきり云へば、素人の俳優が演じても、それほど見つともなくないやうな、つまり、演り易い脚本を選んでなぜ上演しなかつたかと云ふのである。舞台監督万能の時代は既に過ぎ去つた。それでも、さういふ批難を恐れずに、舞台監督の腕一つで、相当見せられるやうな脚本のみをなぜ演らなかつたか。さういふ脚本があるか無いか、それもまあ問題にすれば問題にならうが、勿論比較的の話である。
然し、僕が最も遺憾に思ふのは、それだけの大きな抱負と尊い使命をもつて生れた劇団が、今日まで殆ど物質的努力の大部を劇場そのものゝ建築に用ゐてゐたやうに見えることである。僕に云はせれば、それだけの金力があれば、三年なり五年なりかゝつて、完備した法式による俳優の養成が出来たらうと思はれる。 固定劇場をもつといふことは、たしかに、一つの劇団に取つて有力な条件に違ひない。しかし、それは、「公演」といふことを考へる時である。「公演」は「努力を見せる」ものではなくて、「出来上つたもの、少くとも出来上つた部分を見せるもの」でなければならない。近々半年の間に、実際、何も出来るものではない。まして、多くの場合、今日の日本では、或るものを造る前に、今までのものを排除しなければならないのだから、その困難は一層大である。 僕は徒らに理想論を唱へるものではない。色々の事情で「公演」を早めることを余儀なくされるであらう。たゞ、その場合に、その「公演」が「公演」の目的に反するやうなものであることを避けるのが賢明なやり方ではなからうか。言ひ換へれば、故らに好意ある観客を悩ますやうな「公演」を敢てする必要がどこにあるかといふのである。 失礼な言分のやうだが、僕の真意を酌んで貰ひたい。全く、あの程度の俳優があの種類の脚本を演じることは無謀である。あゝ云ふ種類の外国劇を現今のやうな蕪雑な日本語で演じることは頗る危険である。現在の観衆を前にして――殊に観衆を尊重する意味に於て――かくの如き上演目録は、恐らく上乗のものではあるまい。
こゝに一つ、劇場側の弁明を仮想して、当分の間は「外国劇及びその演出法」の紹介をするに過ぎない。まあ、ざつとこんなものだ、といふぐらゐの意味しかないのだ、とする。 それもいゝだらう。それなら、もつと短いものを選んで欲しかつた。 これだけのことを言つてしまへば、一つ一つの舞台について、演出上の細かい批評はしたくなくなるのであるが、これも義務とあれば拒むわけにも行くまい。実を言へば、その方にはいくらか、僕の心を惹くものが無いではなかつた。
第一の『海戦』は初めて見る表現主義的演出といふのださうである。元来、表現主義の芸術、更にその主義の演劇といふものについて、極めて知識の浅い僕は、多く学ぶところがあつた。然し結局、劇の形を藉りたポエジイ・フィロゾフィツクに外ならない。たゞ表現の形式から云へば、言語のイメージが、様々な排列と重畳に於て形づくる一種の交響楽であり、色彩と運動と曲線の極めて様式的な想念喚起法であるといへる。然るに、その言語のイメージは、云ふまでもなく、翻訳によつて多少なりともニュアンスを変ずるものである以上、そのイメージが抽象的であればあるほど、また瞬間的であるほど、原作の与へる効果と隔り、殊に、屡々全く異つた効果をさへ生むに至ることは誰しも感じることでなければならない。淡い不安が、極度の絶望となり、厳粛な命令が、滑稽な威嚇とならぬものでもない。それは極端な例であるとしても、これに似た喰ひ違ひは一語一語、一句一句のイメージの中に存在して、総体としての印象、効果に甚だしい誤差を作つてはゐないか。これは誤訳などゝいふ問題ではなくて、翻訳なるものゝ全体に亙る問題であるが、殊に、此の種のイメージのリズムを生命とする、たゞそれのみを生命とする傾向、種類の作品に於て、慎重な考慮を払はなければならない問題である。まして、演劇の形式を取つてゐる場合に、翻訳による此の種の原作の再現は、僕の考へでは、絶対的に不可能である。それを敢てすれば無意味である。早く云へば、『海戦』の翻訳に、上演に、何処に芸術的の美があるか。若しあれば翻訳を通じて、原文を感じ得る箇所だけであると云つて差支ない。沈黙と静止の或る瞬間に描き出される――これは舞台監督の技倆を示すものである――絵画的効果のうちに於てゞある。 僕は、表現主義の敵ではない。その芸術的手法は、新らしいといふよりも優れたものである。若し、表現主義者が、悉く反抗と、狂燥と、渋面と、それ等の要素のみを人生のうちから選び出す事に興味をもつてゐるのでなかつたら、僕は表現主義者を友人と呼ぶであらう。そして、その友を日本に有ちたい。
第二の『白鳥の歌』は、名優を俟つて始めて観るべきものであると云ふに止めよう。
第三の『休みの日』は原作を読んで相当に面白いものであると思つた。僕は、滞仏中その上演を見てゐない。それがヴィユウ・コロンビエ座の上演目録にある事は知つてゐた。別段気を附けてゐた訳ではないが、到頭見ずにしまつた。この脚本を、築地小劇場が、その上演目録中に加へた事は極めて単純な理由であるらしい。従つて、それについて、彼是といふ必要もないが、この作は、コポオが現代仏国の代表的作品として選んだのでないことが明かである。 『休みの日』は、幸ひにして欧羅巴の生活に明るい訳者の手を経て、それほどひどいものには勿論なつてゐない。が、主人公ムウトンと之を取巻く人物の生活、その習慣と固癖、典型的な性格表現に用ゐた作者の努力、その想像、その機智は演出の不完全と相俟つて、著しく変形されてゐる。断つて置くが、訳者は英訳を参照したかも知れない。そしてその英訳が、既に原作から遠いものであつたに違ひない。これはよくあることである。なるほど、『雨空』は支那語にさへ翻訳はできないものである。
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