岸田國士全集20 |
岩波書店 |
1990(平成2)年3月8日 |
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1990(平成2)年3月8日 |
映画脚本は純粋に文学の一様式たり得るかどうか。小説、詩、戯曲――更に、戯曲を舞台脚本と映画脚本とに区分するやうな時代が来るかどうか。かういふ問題を解決する為めに、僕が「ゼンマイの戯れ」を書いたとすれば、誠に烏滸がましい話であるが、実はそんな大それた野心はなかつたのである。
僕がかういふものを書いた動機は、或る監督から某俳優を主演として映画を作りたいのだが、何か「ストオリイ」を考へて呉れないかといふ相談があり、さういふことに全く経験がないに拘はらず、近頃多少映画といふものに興味をもちかけて来た矢先でもあつたので、兎も角、映画になりさうな「物語」を、映画になりさうな形式に纏めて見ることにした。
処が、所謂「セナリオ」といふ形式に対して、僕はあまりに映画的の知識が無さ過ぎることを自覚してゐるし、且つ、今日の一般読者に取つて、その形式は、なほ、あまりに「科学的」に過ぎることを感じてゐるしするので、結局、われわれ文学者が、映画脚本を書き、映画的効果を文学的に表現することが許されるとすれば、先づ、かういふ形式に依るより外あるまいと思はれる一つの案を立てたのである。
此の案を得る為めに、最も貴重な暗示を与へられたのは、堀口大学君訳、ジユウル・ロマンの「科学の奇蹟」である。
此の形式は、所謂「ストオリイ」と「セナリオ」との中間に位するものであると考へるが、われわれは、「ストオリイ」といふものが、映画芸術の「内容」として、如何に小さな役割をしか演じてゐないかを知つてゐると同時に、映画の一場面が、監督の技倆によつて活かされることを認めながら、なほ且つその場面々々の印象を物語全体の文学的意味から、成るべく明確に指示する必要を感じるのである。勿論、その指示は程度問題であり、詳しくすれば際限がないかもわからないが、要するに、映画脚本の作者は、自ら監督を兼ねない以上、「現はさうとするもの」が「如何に現はさるべきか」を何等かの方法で示さなければならない。監督は、此の種の映画脚本を基礎として、撮影台帳を作製すべきである。但し、監督にして作者を兼ねたものは、映画脚本を文学として発表しなくてもいゝのであるから、問題は別である。
これだけの考へを頭に置いて、僕は、文学としての――読み物としての――映画脚本を書いて見ようと試みた。映画専門家からは、そんなものは映画的に見て価値はないと叱られ、文学者側からは、そんなものは文学的に何等生命のないものだとやつつけられるかも知れないが、それは、此の形式が悪いのではなく、僕の才能が足らないのだと云ひ得る自信(?)だけは持つてゐる。
或る場面の如きは、対話がかなり多いやうに見えるが、これは必ずしも悉くを字幕で現はす必要はない。
また、到底画面では現はせないやうな描写があれば、それもまた無理に画面で現はさなくてもいゝ。
此の映画で、僕は、充分、説明者を以てする「説明」の効果を利用して欲しく思つてゐる。「現象の解釈」は、時として、見物の幼稚な頭に委せたくない。
僕は、映画脚本が、かういふものでなければならないとは信じてはゐない。ただ、文学的要素を映画的に活かす為めには、過程として、此の形式に依ることが便利だと思つてゐる。そして、所謂「文芸映画」とは、文芸作品の「筋」乃至「主題」を映画に取り入れることではなしに、全篇を通じての場面々々が、文学的に統一された或る生命の韻律を奏でてゐることを意味するのでなければならないと思ふ。
自分の作品を引合に出して、芸術上の理論を云々することは甚だ悪趣味ではあるが、映画脚本は、云はゞ、文芸上の処女地である。自分ながら完成を期する日の遠きことを知つてゐる。敢て、識者の教示を待つ為め自らを俎上にする所以である。
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