岸田國士全集23 |
岩波書店 |
1990(平成2)年12月7日 |
1990(平成2)年12月7日 |
1990(平成2)年12月7日 |
かういふ問題はどういふ範囲の人々に興味があるかわからぬが、本誌「トツプ」の読者は、映画の専門家でないにしても、相当高級映画フアンであらうと思ふし、さうなら、日本映画の優秀作が、西洋の普通の水準にまで達してゐないことを万々気付いてをられる筈であるから僕と一緒にひとつこの問題を考へていただきたい。
今はそんなことを実際に考へてゐる人は少なからうと思ふが、一時は、映画と演劇とを全く別個のもの、本質的に相容れないものとして、批評の標準を映画技術の専門的角度からのみ決定しようとしたことがある。これはむろん、芸術様式の純粋性を擁護し、発展させる立場から、常に何人かによつて続けられなければならない努力であるが、一方、現代日本のやうに、芸術の諸分野がそれぞれ孤立した領域に閉ぢ籠り、相互に望ましい影響を与へ合ふことなく、従つて、民衆の生活の中で、文化表現としての芸術的訓練が最も稀薄な状態に於いては、一芸術を他のそれより区別する運動よりも、一般芸術に共通なもの、民衆の趣味活動の基調をなすものを捉へることの方が、より急務であり、少くともより重大な意義をもつ事実なのである。
映画は、実にかういふ目的のためには誂へ向きの形式を具へてゐるのみならず、今日の実情から考へても、観衆の大多数は、意識するとしないとに拘はらず、映画に求めるものは映画そのものよりも寧ろ、映画に含まれ得る一切の「美しいもの」、「真実なもの」なのである。
これは少しも映画技術家を軽視することにはならないと思ふ。反対に、映画のかかる文化的使命を自覚し利用し得る一切の材料を駆使し、生活と芸術との微妙な切線を歩むことこそ、映画技術家の選ばれた才能なのである。
そこで、僕は、西洋映画の魅力を分析するに当つて、先づ以上の前置を掲げた次第であるが、問題の解決は常に根本を衝く必要がある以上、議論は少し抽象に亘る嫌ひはあつても、一応次に述べる事実について読者諸君の注意を喚起したいと思ふ。
映画に限らず、西洋そのものにわれわれはまだ非常に興味をもつてゐること。つまり映画による西洋見物、西洋研究、西洋人の生活を生活する興味、等々の混り合つた魅力。これは必ずしも西洋崇拝の気持とは一致しないが、只単に異国情調の満喫といふほど単純なものではない。未開人の生活の実写とは全く別な、一種の文化生活の表現があり、個々の場面や物語の内容如何に拘はらず、そこには欧羅巴的伝統の醸し出す特殊な空気、一口で云へば、現在の日本人には羨ましいと思はれる自由さ、人間性の尊重、個人主義の徹底、表情のヴアラエティ、生活様式の統一、社会制度の一応の合理性といふやうなものが発見できる。悪党や愚劣な人物や、目に余る風習などがないわけではない。それは日本と聊かも変りはない。しかし、それらのものが、すべて仮面を剥がれてスクリィンの上に踊つてゐるのであるから、いはば観る方では安心である。その意味で、西洋映画は、西洋に興味をもつものを惹きつけると同時に、夥しい西洋崇拝者を産みつつあることと思はれる。
早い話が、恋愛の場面の如き、日本人には真似のできないやうな科や白も、今日の青年男女にとつては、たしかに、ああいふ国に生れたらといふ憧憬に似た嘆きを漏らさせる種であらう。
羨望とか憧憬とかにまでは行かなくても、西洋風の生活、西洋人の風俗習慣は、それ自体われわれにとつては、好奇心に値する見事なスペクタクルである。喧嘩の仕方でも、食卓の儀礼でも、衣裳の着こなしでも、夫婦間の日常会話でも、子供の遊び方でも、カフェエの雑沓でも、それこそなんでもかんでもが、珍しくもあり、知りたくもあり、想像を確めたいことだらけなのである。なぜかといふと、今日の日本人の大部分が、幾分づつそれに近づかうとして、しかも、どこかぴつたりしないものを感じ、ああでもないかうでもないと、ひそかに苦労をしてゐる時代だからであるし、また、おれは日本人だから日本風を好むと云ひ切れる人間でさへ、やつぱり、卑俗な意味で、西洋の女の嬌態には曖昧な視線を注ぐといふのが、僕の偽らぬ観察である。
これだけ云へば、もう沢山であらう。語学の勉強にトオキイを見出したといふ学生をも、これに加へてよければ加へることにしよう。(一九三六・七)
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